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海南島における日本の侵略犯罪と「戦犯裁判」 11

2016年09月18日 | 海南島史研究
■海南島における日本の侵略犯罪と「戦犯裁判」 11

★極東国際軍事裁判(東京裁判) (2)
 極東国際軍事裁判の判決文では、ほかには海南島にかんして、第4章「軍部による日本支配と戦争準備」と第5章「日本の中国に対する侵略」と第7章「太平洋戦争」でのべられている。
 第4章「軍部による日本支配と戦争準備」の「海南島を占據し、仏印に圧迫を加える決定」の項では、
   「1938年12月9日に、有田(外務大臣)の承認を得て、日本の海軍司令部に対して、
   作戦上の事情から必要である限り、中国の領土内で雲南鉄道を爆撃することについ
   て、外務省には何の異議もないということが通告された。……
    右の政策に一致するものとして、それより二週間前の五相会議の決定があった。
   陸軍大臣板垣がその一員であったこの五相会議は、1938年11月25日に、海南島は
   必要な場合には軍事行動によって攻略するということを決定した。この中国領の島
   は、北部仏印の沿岸に相対し、これを制圧する位置を占めていた」
とのべられており(『東京裁判判決』、87頁)、第4章「軍部による日本支配と戦争準備」の「平山内閣の中国に対する政策と海南島及び新南群島の占領」の項では、
   「1939年2月10日に、日本の海軍部隊は中国の海南島を奇襲し、これを占領した。
   この不意の行動は、1938年11月25日の五相会議で承認されていたものである。……
    日本軍はこの島の占領を完了し、その6週間後に、日本はさらに南進した。1939年
   3月31日に、日本の外務省は、南支那海に存在する小さい珊瑚礁の一群である新南
   群島の併合を宣言した」
と、いいかげんなことがのべられている(『東京裁判判決』、94頁)。
 第5章「日本の中国に対する侵略」では、海南島にかんしては「広東と漢口の占領」の項に、
   「中国の戦略的地点を占領する方針は、広東と漢口の攻略だけに止まらず、それ
   よりはるかに広い範囲に実行された。なぜならば、1938年11月25日に、五相会議
   が中国の最南端にある海南島を攻略することを決定したからである。この島は、  
   1939年2月10日に、日本側に占領された」
とのべられているだけである(『東京裁判判決』、189頁)。
 また第7章「太平洋戦争」の冒頭部では、
   「1938年11月に、五相会議は、海南島を占領することを決定した。この島は1939
   年2月に、また新南群島は1939年3月に攻略された」
と短く史実と異なることがのべられている(『東京裁判判決』、218頁)。
 台湾総督府が、「海南島処理方針」(海南島を軍事占領し台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とする)を作成し、「南方外地統治組織拡充強化方策」(「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」)をだしたのは、1938年9月であり、天皇ヒロヒトを含む会議(「御前会議」)が日本陸海軍の海南島侵入を決定したのは1939年1月13日であり、日本大本営陸軍部と海軍部が「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を締結したのは1月17日だった。1938年11月25日に五相会議が開催されたという記録はない。
 日本政府が、海南島のはるか南方の「新南群島」を日本領土に編入すると閣議決定したのは1938年12月23日であった(1939年3月30日、台湾総督府令第31号で「新南群島」を台湾高雄市に編入)。

 極東国際軍事裁判の判決文の「通例の戦争犯罪(残虐行為)」には、
   「中国の海南島の博文市で虐殺事件が起ったのは、第三次近衛内閣のときであっ
   た。1941年8月の討伐作戦中に、日本海軍の一部隊が抵抗を受けずに博文を通過
   した。その翌日、部隊の分遣隊が博文に引返したときに、死後数日間経過したと思
   われる日本海軍の一水兵の死体を発見した。その分遣隊は、この水兵が博文の住
   民によって殺害されたものと想像して、住民の家屋と町の教会を焼き払った。かれ
   らはフランス人宣教師と土民24人を殺し、その死体を焼き払った」
とのべられている。
 しかし、「第三次近衛内閣のとき」は、1941年7月18日~10月18日であったが、「1941年8月の討伐作戦中に」という記述は信用しがたい。

 ここで「海南島の博文市」とのべられているのは、海南島の屯昌県新興鎮博文村のことだと思われる(海南島には、ほかに、「博文市」あるいは「博文村」はない)。博文村は、現在は行政上の名称は三媽溝市村であるが、住民のおおくは博文村とよんでいる。
 海南島近現代史研究会は、2015年11月28日に博文村(三媽溝市村)を訪ね、博文村とその隣の詩礼村で証言を聞かせていただいた。博文村の林学良さんには村人が押しこめられて殺された教会址と村人が殺され埋められた場所、日本海軍の望楼・兵舎址に案内していただいた(このブログの2015年11月28日の「屯昌県新興鎮三媽溝市村、詩礼村、定安県富文鎮潭陸村で」をみてください)。
 李泽光口述・符业权整理「日军制造三妈沟墟百人庙惨案记实」(海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』第十一輯〈『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上、「日军在屯昌县的暴行」、1995年8月〉)には、
   「三妈沟墟(現屯昌县新兴镇卜文墟)教庙是一所30年代初法国人兴建的传教堂」、 
   「1942年初春的一天……时近响午、忽见一队日本侵略军气势汹汹的开来……人
   们慌张逃跑、一些抱有幻想的人们便跑进附近的法国教庙、想在里祈祷得到保护。
   不料日军将抓来的人全都押进教庙、未足200平方米宽的教庙里傾刻间就关进了
   120多人、然后日军将庙门锁上、沷上番水(煤油)、点起大火」、
   「经过清理、足足有123具尸体」
と書かれている(博文村は、卜文墟とよばれていたこともあった)。
 1995年12月に発行された海南省屯昌県政協文史資料委員会編『屯昌文史』第四辑に掲載されている符业权「日本侵占屯昌县的前前后后」(海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』第十三輯 〈『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続、1996年8月〉に再録)には、
   「日军……1942年在三妈沟墟法国教堂里一次就烧死123人(日本軍は……1942年
   に三媽溝墟のフランス教会の中で一度に123人を焼き殺した)」、
と書かれている。

 「通例の戦争犯罪(残虐行為)」に、「海南島における日本占領軍の参謀長は、陸軍次官木村にあてて、1941年10月14日、この事件の詳細な報告をした。木村は、参考のために、直ちにその報告を陸軍省の関係各局に回覧し、それからこれを外務省に送った。これは陸軍の内外で広く回覧された」とのべられているが、「陸軍次官木村」は、1941年4月~1943年3月に陸軍省陸軍次官であった木村兵太郎のことである(木村兵太郎は極東国際軍事裁判で死刑判決)。
 「海南島における日本占領軍」は、陸軍でなく海軍であり、1941年11月~1942年12月の日本海軍海南警備府司令官は砂川兼雄だった。
                                佐藤正人
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