三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 52

2013年09月04日 | 海南島史研究
(一九) 二〇一一年二月~三月 3
■楽東黎族自治県黄流鎮佛老村で
 現在、黄流鎮には、新民村、孔汶村、黄西村、佛老村、水内村、赤命村、黄中村、新栄村、東孔村、黄東村、鋪村、赤龍村など、二一個の行政村があるが、日本占領期に、日本軍は、新栄村、赤龍村などの土地を奪い、家屋を破壊して、軍用飛行場を建設していた。飛行場建設には、黄流地域に住む村民が強制的に働かされた。

 二月二八日に「朝鮮村」から佛老村に着いたのは午後四時半だった。
 佛老村委員会の人たちの協力をえて、おおくの方から話を聞かせていただくことができた。
 黄瑛さん(一九三〇年生)は、つぎのように話した。
   “九歳のとき、日本軍が海南島に上陸してきた。一二、三歳のとき、日本軍の黄流飛行場
   建設の仕事をさせられた。何か月も働かされたが、給料は安かった。飛行場建設に使う
   石を運ぶ仕事だ。石は、金鶏嶺から運んだ。金鶏嶺は飛行場から五キロほど離れている。
    日本軍は水田をつぶして飛行場をつくった。だから、滑走路に敷き詰めるためには石が
   必要だった。
    日本軍は、金鶏嶺から飛行場まで線路を敷き、金鶏嶺の岩を砕いて小さくした石を、小
   さな列車で飛行場まで運ばせた。線路の幅は狭かった。列車は機関車で動かした。人の
   力で動かすトロッコではなかった。
    わたしは、その仕事をさせられた。
    飛行場が完成してからは、金鶏嶺に駐屯していた日本軍の無線電信部隊の炊事の仕事
   をした。駐屯していた日本兵は八人ぐらいだった。その日本兵が風呂にはいるときに湯
   をわかす仕事もさせられた。
    日本兵は、10日間ごとに飛行場から来て交代した。
    日本軍は、子どものわたしにはじめは、ちゃんと食べさせてくれたが、まもなく仕事を
   しても食べさせてくれなくなった。それで、わたしは逃げた”。

 佛老村が二〇〇五年に発行した『佛老村志』(《佛老村志》編纂委員会編)に、つぎのように書かれている。
  「一九三九年から一九四五年まで、日本軍は、黄流地区で、放火し、殺人し、略奪し、女性を犯すなど、多くの悲惨な事件をひきおこした。一九三九年農暦四月一六日(太陽暦六月三日)に、崖県遊撃大隊は、副指揮者の陳曼夫の指揮の下で、民衆を組織し黄流を拠点とする日本軍を攻撃した。遊撃隊は臨時に組織されていたので、訓練が足りず、武器の装備が十分でなかった。そのため、日本軍の反撃を抑えきれず、戦いながら佛老村方面に撤退した。日本軍がそのすぐあとに追撃した。村民が驚きあわて、あちこちに逃げた。日本軍は人間の心を失い、凶悪で残忍にふるまい、人を見ると殺し、聞いた人を驚かす“四・一六惨案”をひきおこした。この悲惨な事件の中で、日本軍は、龍井に住む黄克魁を銃殺し、金銭園で林葆敏を銃殺し、紅土坎に放火した。邢蘭桑とその姪を生きたまま焼き殺した。陳密貢の家では、陳人良の腹を撃って殺した。深田では、林水躍の祖母を殺した。さらには、銃剣で陳崖魁の祖母を刺し殺した。陳崖魁の弟の陳遠松と妹の陳関引を刺し殺した。陳人鴻とその娘(三歳の幼女)を刺し殺した。陳清球とその娘(五歳の女の子)刺し殺した。さらに、鎮遠村で黄興楠の幼児の黄保士を殺した。
  あのとき、わたしたちの村で、日本軍よって、一〇人以上の人が殺され、遺体が村内の街路に横たわり、村のいたるところで人びとが号泣し、悲惨で見るに忍びなかった」。

 二月二八日に、林永光さん(一九二一年生)は、
   “一九三九年四月に日本軍が佛老村を襲った。
    村人たちは怖いので逃げた。日本軍は逃げる人に うしろから発砲した。老人や足が
   不自由ではやく歩けない人など一〇人あまりが殺された。
    老人や足がわるい人は逃げるのが遅かったので切り殺された。
    赤ん坊を抱いた女性が銃剣で刺し殺された。
    一家四人が皆殺しにされた家もあった。六軒の家が焼かれた。
    日本軍は、いま黄流中学校があるところに司令部を置いた。
    日本軍は、寺院を壊し、その煉瓦や材木で司令部の建物をつくった”、
と話した。二〇〇六年五月四日に、林永光さんに自宅で話を聞かせてもらい、邢詒壮さんの孫の邢南福さんといっしょに邢詒壮さんの墓碑に案内してもらったことがあった。林永光さんとは、五年ぶりの再会だった。
 黄宗勤さんは、
   “あのとき、三歳の子どもも殺された。抱いていた人といっしょに銃剣で殺された。銃
   や銃剣で殺されたのは一四人だった”
と話した。林葆韓さん(八七歳)は、
   “八所に連れていかれて、鉄道工事をさせられたことがあった。
    食べ物は粗末だった。食事の順番が一番最後になったとき、ご飯がなくなっていたの
   でご飯を下さいと言ったら頭を殴られたことがあった。仕事はきつかった。休憩する時
   間がなかった。
    三か月ほど働かされたあと、歩いて村に戻った”、
と話した。黄宗亜さん(八一歳)は、つぎのように話した。
   “むかし、北黎で鉄道の仕事を沢山した。
    何回も北黎に行かされ、鉄道の工事をした。一〇回以上行った。
    場所は八所の近くだったが、石碌にも行った。
    佛老村から二〇人が一組になって行った。日本軍の命令に従う村の役人によって行か
   された。
    仕事はつらかった。板で作った部屋で寝た。いつも疲れていた。病気なるのが怖かった。
    日本人は、重病人には薬も食べ物もやらなかった。どこかに担いで行った。
    伝染するのをおそれて、まだ生きている病人を火で焼いた。
    死んだのは香港人が一番多かった。
    いろいろな場所で働いた。黎族の小さな村の近くで働いたこともある。
    石碌にも行った。
    村からいっしょに行った人のなかに、病気やケガで死んだ人がいた。食べものがなく
   て死んだ人もいた。
    戻ってから、またすぐに出発させられたこともあった。
    一回は、だいたい一か月ぐらいだった。
    行くときは軍用トラックに乗せられて行ったが、帰りは、二回ほど歩いて村まで戻っ
   た。遠かった。三日間、歩き通した。
    イギリス人がいた。鼻が高く目の色が黄色だった。鉄道の仕事をさせられていた。手
   押し車で土や石などを運んでいた。四〇~五〇人ほどいた。四人グループで働かされ、日
   本兵が銃を持って後ろから見張っていた。
    朝鮮人もいた。わたしが見たのは二人だけだった。八所の会社にいた。鉄道のレール
   を取り付ける仕事をしていた。
    台湾人もいた。
    インド人もいた。頭に布を巻いていた”。
 林熾謀さん(八〇歳)は、つぎのように話した。
   “ある日の夜、金鶏嶺の麓の村を日本軍が包囲した。その村には、佛老村から逃げてき
   た人がいた。わたしの家族もその村に逃げようとしていた。
    あの日、わたしの家族全員がその村に逃げようとしていた途中で、いったん佛老村の
   家に戻ろうとした。それで、助かった。もし、そのまま金鶏嶺の村に行っていたら、わ
   たしはいまここに座っていない。
    日本軍は、あのとき金鶏嶺の村人を殺し家を焼いた。日本軍がきたので、一家で稲の
   中に散らばって隠れた人たちがいた。しかし、子どもが日本兵に刺されて大声で泣いた。
   それを聞いて、その父が助けようとして出ていったが、すぐに銃で撃ち殺された。
    結婚式の次の日、実家に戻る途中で、若い女性が、日本兵に暴行されて殺されたこと
   があった”。
 邢谷錫さん(一九三三年生)は、つぎのように話した。
   “日本兵は残酷だ。
    子どものとき、金鶏嶺で石を運ぶ仕事をさせられた。そのとき、大人は金をすこしも
   らったが、わたしは、もらえなかった。わたしは、背がひくかったので、背伸びして大
   きくみせようとしたら、それを見た日本兵に殴られ、投げ飛ばされた。そのときわたし
   は、七歳か八歳だった。そんな子どもに日本兵は暴行した。
    祖母が日本軍につかまって、性的な暴行を受けそうになったことがあった。そのとき
   祖母は四〇歳あまりだった。祖母は恐怖のあまり排便をしたため、暴行を受けずに済ん
   だ。わたしは祖母と一緒に泣いた。
    佛老村の人で、遊撃隊にはいっていた林葆棟が日本軍につかまって、十字架に縛りつ
   けられているのを見た。両手に釘がうちこまれていた。黄流の市場の近くだった。寒い
   時だったのに服を脱がされていた。‘日本軍を倒せ’、‘日本人を倒せ’、‘日本軍はすぐ
   に敗ける’……と叫んだ。林葆栋が叫ぶと、日本兵が殴った。聞いている村人は、心の中
   ではみんな賛成していたが、黙っていた。ときどき雨が降った。
    しばらくして、林葆栋は、ほとんど動かなくなった。チマキを食べさせようとした村
   人がいたが、そのときには、林葆栋に食べる力がなかった。
    林葆栋が日本軍につかまったのはスパイに密告されたからだった。そのスパイは、日
   本が敗けたあと、国民党の軍隊に銃殺された”。
 邢谷錫さんが話していると、何人もの村人が、じぶんも林葆栋を見たと話した。
 政协乐东黎族自治县文史委员会編著『乐东文史』第四輯(一九九一年八月)に、孙灏「抗日壮士林葆栋」が掲載されており、ウェブサイト「海南史志网」の「乐东県志」に、林葆栋さんについて、つぎのように書かれている。

   林葆栋 (一九〇三~一九四四年),黄流佛老村人。因家境贫寒,只读完小学,便回家靠缝纫谋生。一九三九年在抗日宣传的影响下,林卖掉手中的缝纫机,买回步枪一支,与朋友参加抗日游击队。妻子说:“你双亲老,孩子小,不能远离家乡!”他以“国家兴亡匹夫有责”的大义说服妻子。当时,他受命担任崖县游击第二中队特务长,后又担任整编崖县游击挺进队特务排长,参加抗战游击队。一九四三年,奉命带领士兵到黄流、莺歌海敌占区搞情报与锄奸。以金鸡岭为临时根据地,神出鬼没打击日军。一九四四年二月的一天夜里,从新村归来,被敌奸发现,纠集黄流日伪兵百余名包围金鸡岭。在敌众我寡的形势下,他命令部队向岭后突围,自己留守阻敌。他临危不惧,声东击西,使队员安全撤走。后不幸被捕。敌人用尽一切酷刑,林拒不招供,还大骂日军。最后日军将其缚绑在在黄流市场旗杆上示众,可是他视死如归,高呼:“打倒日本贼!”他一连被吊了两昼夜后牺牲。

 佛老村から近い黄流鎮の中心部に、黄流中学校がある。そこは、かつて横須賀鎮守府第四特別陸戦隊黄流派守備隊の本部があった場所だった。
黄流中学校の隣りに、邵逸夫中学校がある。その校庭に抗日闘争紀念碑が建てられている。そこはいぜんは墓地で、日本軍は、ここで多くの人たちを「処刑」した。この地下には、犠牲者の遺骨が埋められているという。
                                           佐藤正人
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