森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

「Чайкаーかもめ」

2008-06-29 16:12:51 | 観劇・コンサート日記

 6月28日、赤坂ACTシアターにて藤原竜也×鹿賀丈史の「かもめ」を観て来ました。  

 

 たぶんこの記事に通りすがりでいらっしゃった方は、
「それで、彼はどうだったの?」なんてお気持ちではないですか。
彼―藤原竜也君のことですが。
その彼が、繊細で感受性豊か傷付きやすい青年を演じることに、何の不安があるでしょうか。

 

  才能豊かなものに囲まれて、その中で自分のちっぽけさにコンプレックスを抱きつつ、前衛的な作品を書き、足掻き道を見つけようとしている若きコンスタンチン・トレープレフ(愛称コースチャ)。
大女優の母との愛の葛藤。地元の女優志願のニーナへの愛の想い。そこに絡んでくる著名な作家トリゴーリン。また管理人の妻や娘、医者や教師。
様々な愛が向き合わず片方に流れ苦悩しています。それは田舎の湖畔での物語なのですが、舞台ではその向こうに湖があると感じるだけで、背景に描かれているわけではありません。
だけど絶望を知る前の彼の無邪気さは、まるで湖の上に煌く光のようでした。

 

  この舞台に行こうと決めた時に、原作を読もうか読むまいか少し悩みました。でも、彼らに物語の世界にいざなってもらおうとストーリー知らずに見ることにしました。それは、私にとってですが正解だったかも知れません。知っていたら、私は最初から冷静にはコースチャのセリフを追えなかったかも知れません。

 

 そしてその、彼らにいざなわれた物語の感想です。

 

  生きていくことは耐え抜く力を持つことなんだ、と私は思いました。すると、終盤でその言葉は登場人物の口からこぼれてきました。混乱し惨めに地を這いながら泥にまみれながら、それでも生きていくんだという「意思」が、頼りなげなか弱いセリフの中からも伝わってきました。

 

何時しか嵐は止む。青春時代の春の嵐に耐えて、耐え抜いたものだけが、夏の落雷に恐れおののき、秋の長雨の冷たさに震え、冬の吹雪にさらされることが出来る。人は悲鳴をあげながら生まれてくる。そしてその人生の終焉に、苦痛を伴わないことはあまりない。

それでは生きていくことが苦しみなのか。
もしそうであるならば、人は苦しみだけの「生」と分かっていて、愛すべきものを産み落とすわけがない。

これは単なる言葉遊び。
春の嵐の去ったその後は大地の乱れも激しいが、負け地と地より蘇ってくる百花繚乱の季節を見るだろう。落雷に自分の悪の心を裁かれそうな思いに打ち震えるが、その後に全て許されたようなツーンと澄んだ空気を感じることが出来るだろう。長雨の止んだその空に七色の虹を見るだろう。吹雪に耐えたその後に、全てを覆い尽くした銀世界の美しさに感嘆の声を上げるだろう。人は歓喜の声をあげながら生まれてくる。そして死に伴う苦痛は生への執着を少しずつ断ち切る薬。

実際に悩みの後に悩みは続き、付き纏う苦悩は絶える事がないが、人は経験を通して何かを得、それらを言葉に還元し乗り越える能力を持っている。

選択の扉はいくつもある。コースチャ、なぜその扉をあけてしまったの。文豪チェーホフに文句を言う輩はいないと思うけれど、そんなラストは今時流行らないぜって、悲しいので言ってみた。

 

 などと言うのが、この物語の見終わったときの感想だったと思います。以下は舞台に沿った感想を少しだけ記しておきたいと思います。(ネタバレはしています)

登場人物は皆それぞれの愛や嘆きをそれぞれの形で持っていますが、なぜだか引き付けられてしまったのは管理人の娘マーシャです。人生は悲劇だからと喪服のように黒い服を着続けて、酒や嗅ぎ煙草を嗜み若さに見合った美しさを求めていません。彼女の嘆きはコースチャへの報われない愛で成り立っています。

想いはどんなに強くても、一瞥もされません。その苦しみから逃れる為に愛のない結婚をし、子供も儲けたと言うのに、その子供よりも仕事にかこつけてコースチャの住む館から帰ろうとしません。それでも、今度は遠く離れて全て忘れてしまおうと望んでいます。自分からは何も求めず、ただじっと想っているだけ。そして想いをじっと飲み込んでいるだけ。

愛を求めて愛に飢えているというのに、あえて気付こうとしない、またはその愛ではダメだと思う、人はなんて贅沢な生き物なのでしょうか。

 

 最初のコーチャの書いた芝居で、ニーナのセリフは澄み切った声で淀みなく美しいけれど薄っぺらだったのに、最後の別れの時に呟いていくそのセリフにはずっしりとした重みがありました。

ニーナが延々と語るその最後の長ゼリフの時、コースチャは微動だにもしないでじっと彼女を見ています。私は時々セリフのない人の方に目がいってしまうことがありますが、気持ちが切々と伝わってきました。

本当の終わりの時を感じながら、それでも手放したくない思いに苦しんでいたと思います。でも、別れを告げる彼女は、愛しているのは裏切られてもあの男だと告げるのです。母の愛をも独占している男。

最初、母はコースチャの男への態度を、「嫉妬」と決め付けて切り捨ててしまいます。確かに才能も名声もある著名な作家、欲しい愛を奪っていってしまう男に、じたばたするコースチャの態度はそうも見えますが、それだけではないように思うのです。青年の前に立ちはだかる父のような壁というものでしょうか。乗り越えたい壁には愛も理解もありません。そこにも違う大人の優しさや理解が存在していますが、やはり違うものでは彼は満足できません。

 

最後の彼のセリフ
「あ~、まずいな。庭を渡っていく彼女を誰かが見て、それを母が知ったら、あの人はどんない不愉快に思うだろう。」と静かに呟くシーンは、美しく切なかったです。

そして書きかけた原稿、書き上げてあった原稿を破り捨てて去っていくとき、もう物語の終わりは決まっていると言うのに、書くことについて分かってきたって言っていたじゃない、耐えよ、乗り越えよと心の中で祈ってしまいました。

意味のないことと知りながら・・・・

 

ふと思う。この悲劇は母、イリーナのネグレクトに起因していると


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