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コジキジゲン

ミヤンマー

2015-11-10 04:43:20 | 古事記字源

 ・・・「ミヤンマー(尾留満・ビルマ・緬甸)の選挙」ですか・・・「民主化」とは、その文字の基本的な意味するところからズレて「混乱」の代名詞のように聞こえてしまう・・・「君主化」は「独裁化」なのか・・・「君主」にも色々あるが・・・人びとは「戦争に勝利する独裁者」に熱狂し、反対者には「暴力」をチラつかせながら「形式的な民主的選挙」で選出した・・・「旧約聖書のサウル」もそうだった・・・
 東南アジア諸国の歴史は複雑である。その「近代史」も、当時の一般人もニュース記事のタイトルに目をやっても、あまり詳しく勉強することは無かっただろう。「事件」が起こっても明智小五郎や、小林少年の「名探偵」のように深くは調べるコトは無かっただろう。アルバイトに忙しかったボク自身もソウであったが、「反戦=殺すな」は当然であるとしても、当時は「ベトナム戦争」の発端も、歴史も知らなかった。「反戦」も危機感だけの雰囲気だったカモ。それでも「命を賭けている覚悟のツモリの毎回のデモ」だった・・・「吉本隆明」はデモの経験後は「コンナコトで命は落したくない」だったらしいが、「無駄死にはしたくない?」だったのか・・・現場から離れ、生き伸びてワカルケレドも・・・ナニを云おうが、「プチブル根性」に埋没だろう・・・その場に命を賭けた「くそ実践」は「くそ論理」よりも軽くはない。「小田村伊之助(楫取素彦)の論理」はドウか?時代もあろうが同類かも・・・貴族院・・・確かに「死を覚悟」していても、それ以前に「日本の近代史」も「世界の近代史」も知らなかった。「無知」は危険を知らないコトのエネルギーの根源でもある。知っていたのは「映画の中での歴史」で、小学校、中学校、高校で何を「歴史」として学んだんだかは曖昧である。モチロン、「年号暗記」は大嫌いだった。
 教科書は買わされたが、読んだ記憶はオボロである・・・大学の試験の政治学では「民主主義とは何か?」では「学生自治権の拡大と自治会室の獲得」、それに、「日本史」では「安政の大獄」を勝手に「安保の大獄」として、「哲学」では「人間の系統分類としての一般、特殊、個別」として試験の答案用紙に書き込んだが、「経済学」での「サムエルソンの問題」にはチンプンカンプンで、中学校で習った「エンゲル係数」を・・・どうやら「経済(分析)学」と「経営(手法)学」をゴッチャに理解(誤解)していた・・・
 そもそも、数える程も無い講義に出席し、そこから学んだ、と云う記憶は無い。モッタイナイ授業料だった・・・オフクロ、ゴメン・・・
 ボクは高校時代は松本清張ブームの「邪馬台国」と「黒い画集(遭難)」など、それに高木彬光の「成吉思汗の秘密」と「白昼の死角」など、兎に角「推理小説」を夢中で読んでいた。中学校時代はお袋が読んで、本棚に納められていた、所謂、「文学モノ」・・・小学校時代は殆んどが少年少女雑誌のマンガ。文字を意識的に読むようになったのは二年生の「グリーム童話」、四年生頃からは「子供向け児童文庫の古事記」、「小学生向け雑誌」の付録の「世界七不思議・ピラミッド・南米インカ・ナスカ地上絵・ピーリー-レイースの世界地図・空飛ぶ円盤・心霊現象・宇宙」で、ソレを何度、何度も繰り返し読んだ・・・それに、五、六年生にはオフクロが買ってきてくれた少年向けの「科学とは何か」や、「美術とは何か(小林秀雄)」だったか、そこには「七人の侍」の評論が書かれていたが。その頃は「ビルマの竪琴(竹山道雄)」や、「大地(パ-ルバック)」などを夢中で読んでいた・・・「愛蘭」には惚れた・・・
 歴史の書籍を当たるにも古代日本史~江戸時代までが精一杯の範囲。しかも、安い文庫本か、新書本で、その「著者」も「日本人」と云う狭い枠内からのモノばかり・・・専門書は古本でも高価だったから立ち読み程度・・・買っても「漢字も片仮名も語彙」が難解でとても理解できるシロモノではなく、目次と後書きを読んで、ツンドク・・・古本屋で買いたかったのは浮世絵のエロ本だったが・・・
 最近はTV、インターネットで、その情報の一端を得ると、知らない「世界史・日本史」も、「コトバの単語」も調べてみたくなる。
 「ビルマ」はオジちゃんが日本軍として進駐した処だが・・・また、「ウイッキペデア」や、ブログ記事を見てしまう・・・
ーー↓ーー
 「ビルマ国(the State of Burma)は、1943年8月1日~1945年上旬までの期間ビルマ(緬甸=メンデン=ミャンマー=尾留満)に存在した国家。日本の支援を受けてイギリスの植民地支配から独立する形で誕生」、「ミャンマー連邦共和国(ミャンマー・尾留満)、インドシナ半島西部の共和制国家。独立した1948年~1989年までの国名はビルマ(緬甸)連邦」、「日本軍は新政府としてバー・モウを説得し、新しく設けた行政府の長官に就任させた。1944年末までに日本軍はインパール作戦で敗北、日本軍不利の中、アウンサンが指揮するビルマ国民軍が1945年3月、日本軍と、その指導下にあったビルマ国政府にクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。1945年、日本軍は同年5月にラングーン(蘭桂騰芳・ヤンゴン・蘭貢)から撤退。ビルマ国政府は日本に亡命。元首のバー・モウも8月にタイ王国経由で日本へ亡命。同年8月に日本が連合国に降伏後、ビルマ(緬甸)国は解体、戦犯容疑者とされたバー・モウは同年12月に自らイギリス軍へ出頭」
 「ミャンマー(尾留満)国軍は1942年のビルマ独立義勇軍創設をもってその建軍とし、ミャンマー(尾留満)政府は1981年4月、独立に貢献した南機関の鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、国家最高栄誉のアウンサン・タゴン(アウン・サンの旗勲章)を授与」・・・
 「アバディーン(亜伯爾莘・阿伯丁・鴨巴甸)」はビルマ王朝時代の首都名・・・
ーー↓↑ーー
 ・・・ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の「氐族」と考えられている。580年、「氐族」の最後の王朝である仇池が隋の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。四散した「氐族」は、中国雲南省大理にあった「烏蕃氏」の「六詔」の傘下に入ったと考えられている。後に「六詔」が統一されて「南詔」となった・・・
   ↓
 「氐族」の「氐(て・テイ)=氏+一」は「宿曜経二十八宿の一・星座宮は秤宮(天秤座・9月23日~10月23日)と蠍宮(蠍座・10月24日~11月21日)にある宿星」・・・方位は「北西・乾(かわく・カン・ケン)」、易意は「乾(北西・天)を旋らし坤(南西・地)を転ず(韓愈・潮州謝上表)=天地を逆転・引っ繰り返す・局面を一新」、「陽・陽・陽」、「天上、高貴、高み、頂点、父、上司、球体、強大」・・・「乾雲坤龍(ケンウンコンリュウ)= 関の孫六の鍛造したの二刀(姓は丹下、名は左膳)の隻眼隻腕の丹下左膳が所持している二振りの名刀(林不忘の時代小説)・・・「乾坤一擲(ケンコンイッテキ)=のるかそるかの大勝負」の「乾雲・坤龍」である・・・「唐景教流行碑(キリスト教の分派ネストリウス派の碑文)」の「𠃵=卓+乚(オツ・オチ・イン・ゴウ・隠れる=乙の略字)」は、「乾=卓+乞」の異体字(漢語大字典・異体字表)であるらしい・・・「卓」=「ト+日+十」である・・・「食卓(table・テーブル)」を「乞(beggar・begging・ベグ)=こう」は「キリスト(基督・移鼠)の最期の晩餐」で・・・「乞=𠂉(発音はmǒu・髪挿し・鈿・簪・笄・櫛)の乙(おつ・と・イツ)」である・・・十二使徒の一人は「乙女のマリア?」・・・「N」の横倒しは「Z(Zeus・zenith・zero・Z旗・Z項)」だが?・・・「2」も似る・・・「N」は「ニュートン」で、「'n」とは(略式)でand, thanの短縮形Look'n listen.=よく見てよく聞け」・・・「N=力の単位=力は質量と加速度の積で、その単位N(ニュートン)は、1kgの物体に 1m毎秒毎秒の加速度を生じさせる力を意味し、およそ100g重」
 「乙=兄弟(えと)の甲乙の乙(キのト=木の弟・と・おつ・イツ)=乚(イン)」=十干の二番目・魚の鰓の骨・かがむ・隷書、楷書では旁の位置するときは「乙」は「乚」の形に変化する。これはアルファベットの「L(エル)」で「hook(フック)」である。字形は囲炉裏(いろり・爐・鑪・炉・鈩)に吊るす「鉤・鈎・かぎ・こま」だろう・・・穿って考えれば「し・レ・J(ジェ)=亅(ケツ・かぎ)の左右反転の文字」でアル・・・カナ・・・
 アレッ・・・もう、朝方の四時三五分ですか・・・灯油ストーブのアブラが1/4になっている・・・ブログ日記の貼り付けは、寝て起きてからだな・・・
ーーーーー
第24章
24:1
 なにゆえ、
 全能者は
 さばきの時を
 定めておかれないのか。
 なにゆえ、
 彼を知る者が
 その日を見ないのか。
24:2
 世には
 地境を移す者、
 群れを
 奪って
 それを飼う者、
24:3
 みなしご(孤児)・・・三七四五・・・コジ(故事)の
 ↓           ↓     同音異字漢字のスベテ
 ↓          3745・・・3+7+4+5=19
             ↓       十句・拾句・重苦
 ↓           ↓       足苦→足袋=旅苦
 ↓           ↓      「東海道中膝栗毛」
 ↓           ↓       十返舎一九
 ↓           ↓       明和二(1765)
 ↓           ↓        ~
 ↓           ↓       天保二(1831)
 ↓           ↓       八月七日
 ↓           ↓       重田貞一
 ↓           ↓       通称は与七
 ↓           ↓       別号は十偏斎・酔斎
 ↓           ↓       町同心の次男
 ↓          参漆肆互(換)
            みなしご
            皆-示(詞・私
             ↓  視
             ↓  史・詩・誌・四)語
             ↓      死期・死後→諡号
            李氏朝鮮
            太宗十二(拾弐・12)年
            檀紀三七四五(3745)年
              参千七百四拾五年
              ↓
              纂(算)745年
            干支=乙酉(イツユウ)→弟結
            中国
            唐
            天宝四載
             ↓↑
            日本
            天平十七年
            皇紀1405年→1+4+5=10=足・拾
             ↓
            行基が大僧正が
            大乗寺(高野山真言宗)開山
            4月紫香楽宮の周辺火事多発
            5月聖武天皇
            (首皇子=おびとのみこ
             天璽国押開豊桜彦天皇
             勝宝感神聖武皇帝
             沙弥勝満(しゃみしょうまん)
             は、
             紫香楽京=信楽宮=しがらきのみや)
             に遷都
             その後、再度、都を
             紫香楽宮から平城京に遷都
            745年(天平十七年)6月5日
            天正大地震
           (天正13年11月29日=1586年1月18日)
            に匹敵する中部地方の大地震
            美濃国で
            櫓館・正倉・仏寺・堂塔・百姓盧舎
            などが倒壊
              ↓
            太宗十二(拾弐・12)年
            檀紀三七四五(3745)年
              ↓
            1412年(西暦ユリウス暦)
            1月6日
            ジャンヌ・ダルク、誕生(~1431年)
            8月24日(応永十九年七月十七日)
            伊達氏宗、死亡
            南北朝、室町時代の
            奥州
            伊達氏の第十代当主(1371年~)
             ↓
            10月5日(応永十九年八月二十九日)
            後小松天皇譲位
            第(百一・101)代
            称光天皇即位
            躬仁(みひと)を
            実仁=實仁(みひと)に改名
            在位中は父院の院政
            正長元年(1428)崩御、28才
            後任は
            第(百二・102)代
            後花園天皇(彦仁・ひこひと)
            彼は
           「後文徳院」の諡号を贈られたが
           「後花園院」とされた
 ↓          院政の
 ↓          1467年(応仁元年)
 ↓          応仁の乱勃発
 の
 ろば(驢馬)を
 追いやる者、
 やもめ(寡婦・鰥夫)
 の
 牛を
 質に取る者、
24:4
 貧しい者を
 道から
 押しのける者がある。
 世の弱い者は
 皆
 彼らを
 さけて(避けて)
 身(み・からだ・シン)を
 かくす(隠す)。
24:5
 見よ、
 彼らは
 荒野(コウヤ・あれの)におる
 野ろば(驢馬)のように
 出て働き、
 野で
 獲物(えもの・カクブツ)を
 求めて、
 その子らの食物とする。
24:6
 彼らは
 畑(はたけ)で
 その
 まぐさ(馬草・秣)を
 刈(か・ガイ)り、
 また
 悪人(アクニン)の
 ぶどう(葡萄)畑で
 拾(ひろ・ジュウ)い
 集(あつ・シュウ・ジュウ)める。
24:7
 彼(かれ・ヒ)らは
 着(き・チャク)る物がなく、
 裸(はだか・ラ)で
 夜(よ・よる・ヤ)を過ごし、
 寒(さむ・カン)さに
 身(み・からだ・シン)を
 おおう(被う)べき
 物(もの・もつ・ブツ)もない。
24:8
 彼らは
 山(やま・サン)の
 雨(あめ・あま・ウ)に
 ぬれ(濡れ)、
 しのぎ(凌ぎ)場もなく
 岩(いわ・ガン)に
 すがる(縋る)。・・・・諏臥留・須賀留
24:9
(みなしごを・・・・・・・孤児・・・捨児
 その母の
 ふところ・・・・・・・・懐(カイ)・・・懐中
 から奪(うば・ダツ)い、
 貧(まず・ヒン)しい
 者の
 幼(おさ・ヨウ)な子を
 質(しち・ひち・シツ)
 にとる者がある。)
24:10
 彼らは着る物がなく、
 裸で歩き、
 飢(う・キ)えつつ
 麦束(むぎたば・バクソク)を
 運(はこ・ウン)び、
24:11
 悪人の
 オリブ(olive)・・・阿列布・橄欖・斉墩果
 並(な・ならぶ・ヘイ)み
 木(き・モク)の中で
 油(あぶら・ユ)を
 しぼり(搾り)、
 酒舟(さけぶね・シュソウ)を
 踏(ふん・トウ)んでも、
 かわき(渇き)を
 覚(おぼ・ざ・カク)える。
24:12
 町(まち・チョウ)の中から
 死(シ)の
 うめき(呻き)が、・・・梅木→梅里=徳川光圀
             諡号は「義公」、字は「子龍」
             号は「梅里」
             神号は「高譲味道根之命」
 起(お・キ)こり           
 傷(きず・ショウ)
 ついた者の
 魂(たましい・コン)が
 助(たす・ジョ)けを
 呼(よ・コ)び
 求(もと・キュウ)める。
 しかし
 神(かみ・かむ・シン)は
 彼らの
 祈(いのり・キ)を
 顧(かえられ・コ)みられない。
24:13
 光(ひかり・コウ)に
 そむく(背く)者たちがある。
 彼らは
 光の道を知らず、
 光の道にとどまらない。
24:14
 人(ひと・ジン・ニン)を
 殺(ころ・サツ)す
 者(もの・シャ)は
 暗(くら・アン)い
 うち(中・内)に
 起(お・キ)き
 出(で・いで・シュツ)て
 弱(よわ・ジャク)い
 者
 と
 貧しい者
 を殺し、
 夜は
 盗(ぬす・トウ)びと
 となる。
24:15
 姦淫(カンイン)する
 者の
 目(め・モク)は
 たそがれ(黄昏)を待って、
 『だれも
  わたしを
  見ていないだろう』
 と言い、
 顔(かお・ガン)に
 おおう(被う)物を
 当(あ・トウ)てる。
24:16
 彼らは
 暗やみで
 家を
 うがち(穿)、
 昼(ひる・チュウ)は
 閉(と・ヘイ)じ
 こも(籠)って
 光を知らない。
24:17
 彼らには
 暗黒(アンコク)は
 朝(あさ・チョウ)である。
 彼らは
 暗黒の
 恐(おそ・キョウ)れを
 友(とも・ユウ)とするからだ。
24:18
 あなたがたは言う、
 『彼らは
  水(みず・スイ)の
  おもて(面・表)に
  すみや(速や)かに
  流(なが・リュウ)れ
  去(さ・キョ)り、
  その
  受(う・ジュ)ける
  分(ブン・わける)は
  地でのろわれ(呪われ)、
  酒ぶねを
  踏む者は
  だれも
  彼らの
  ぶどう(葡萄)畑・・・・武道・無道
  の
  道(みち・ドウ)に
  行(い・ギョウ・コウ・アン)かない。
24:19
  ひでり(日照り・旱)
  と
  熱(あつ・ネツ)さは
  雪水(ゆきみず・セッスイ)を
  奪(うば・ダツ)い
  去(さ・キョ)る、
  陰府(インプ)が
  罪(つみ・ザイ)を
  犯(おか・よこしま・ハン)した者に
  対(タイ・つい)するも、
  これと同様(ドウヨウ)だ。
24:20
  町の広場(ひろば・コウジョウ)は
  彼らを忘(わす・ボウ)れ、
  彼らの名は
  覚えられることなく、
  不義(フギ)は
  木(き・もく)の
  折(お・セツ)られるように
  折られる』
 と。
24:21
 彼らは
 子を産まぬ
 うまずめ(石女・妬)を
 くらい(喰らい)、
 やもめ(寡婦・鰥夫)を
 あわれむ(憐れむ・哀れむ)ことをしない。
24:22
 しかし
 神はその力をもって、
 強い人々を
 生きながらえさせられる。
 彼らは
 生きる望みのない時にも
 起きあがる。
24:23
 神が
 彼らに
 安全(アンゼン)を
 与(あた・ヨ)えられるので、
 彼らは安(やす・アン・ア)らかである。
 神の目は
 彼らの道の上にある。
24:24
 彼らは
 しばし(暫し)・・・斯波氏・司馬氏
 高められて、
 いなくなり、
 ぜにあおい(銭葵)・・・6~8月に咲くアオイ科の花
            荒れ地などに生息する越年草
            花言葉は「自然を恵む」
 の
 ように
 枯(かれ・コ)れて
 消(き・sヂョウ)えうせ、
 麦(むぎ・バク)の
 穂先(ほさき)のように
 切り取られる。
24:25
 もし、
 そうでないなら、
 だれが
 わたしに
 その偽りを証明し、
 わが言葉の
 むなしいことを
 示しうるだろうか」。
ーーーーー
 ・・・その偽りを証明し、わが言葉の虚しいことを示しうるだろうか・・・ムリでしょう・・・

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