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コジキジゲン

朝食の時間、三十分後のクスリ・・・

2017-05-19 19:30:23 | 古事記字源

 ・・・五月十七日の庭、アッと云う間に緑色に覆われだし、梨の枝々に白い花が咲き始めだし、遅咲きの八重桜の蕾は少し裂れてピンク色を見せだし始めた・・・ピンネッシリにはまだ少し白い雪筋・・・夕方、三笠の従姉と、彼女の息子が食糧を携え、訪問してくれた。感謝です・・・玄関の外に出た従姉が帰り間際に、「隣の土手にはタンポポ(蒲公英=ホコウエイ・鼓草=つづみぐさ)が満開で、黄色い絨毯を敷き詰めている」って。去年はマバラで、それほどでもなかったタンポポ・・・それに、ナンで、「タンポポ」なんだか?・・・「淡頬・旦頬」?、「蛋保穂(布・圃)=たんぽぽ」の「蛋(タン)=鳥、亀、蛇などが出産した丸い形の殻のある卵の蛋黄(タンコウ・黄身)・蛋白(タンパク)」、「蛋=中国の南方で水上生活をする部族・蛋民」、「皮蛋 (ピータン) =アヒルの卵に木灰、石灰、塩、泥などを茶の汁でこねたものを塗りつけ、発酵させた食品・卵白は褐色の寒天状、卵黄は暗黄緑色に固まる・中国料理の前菜に用いる」・・・?
 ナルホド、ザ、ワーァルド・・・「目玉焼き」かぁッ・・・「片面だけ焼いた(an egg fried sunny- side up)・両面焼いた(a fried egg, an egg fried easy-over)」と「モカ珈琲(コーヒー・coffee)」・・・
 「蒲公英=タンポポ」
 「蒲=かば=掛葉・河馬・萱場・樺・椛・庇
  ↓↑      加波=日下の浦(氵+甫)」
          ミズの甫(はじめ・すけ)
             甫=事のはじめ・起こり
               苗木の根を立ててかこう形
               苗木の形、植樹のはじめ
               屮(芽ばえ)+田
               苗を育てる畑・苗代(なわしろ)
  ↓↑ ??伊藤博文=俊輔・春輔・・・
     滄浪閣(ソウロウカク)=1890年(明治二十三年)
     足柄下郡小田原町(神奈川県小田原市)
     に建てられた伊藤博文の別邸
     ・・・李垠(リギン・1897年10月20日~1970年5月1日)
     大韓帝国最後の皇太子・日本の王族、李王
     大日本帝国陸軍中将・大韓帝国時代の称号は英親王
     李氏朝鮮第26代国王で
  ↓↑ 初代大韓帝国皇帝高宗の第七男子・・・
  ↓↑ 「李恨」じゃぁないョなッ・・・
 「公(おおやけ・きみ)=ハ+ム」
 「英(はなぶさ=花房・䇦・萼・纐纈)
    はな=嵌名・花・華・鼻
       洟
       端
       塙
       蘤=艹+白+爲
           (為=なす・する・ため・つくる・なる
              イ・ハ・バ・カ・ケ
              ひいでる」・・・
  為=爲・なす・する・ため・つくる・なる・ゐ=ヰ=イ
   云為(ウンイ)・営為(エイイ)・敢為(カンイ)
   行為(コウイ)・作為(サクイ)・所為(ショイ)
   人為(ジンイ)・当為(トウイ)・無為(ムイ)
   天為(テンイ)
   有為(ユウイ)・(ウイ)
   為政(イセイ)・為体(エタイ)
   為替(かわせ)
   為着(せ・しきせ)・為手(して)
   為出来(す・しでか-す)
   為所(しどころ)
   為る(す-る)
   為ん方無い(せんかたな-い)
   為(ため)・為体(ていたらく)
   為す(な-す)
   為せば成る(なせばなる)
   為る(な-る)
   為人(ひととなり)
   為(つくり)
   為政者(イセイシャ)
 「名のり」
  さだ・しげ・す・すけ・た・ち・なり・ゆき
 ・・・「卵黄=蛋黄」と、「卵白=蛋白」・・・花なら「タンポポ」と云うよりは、
 「白い花弁」に囲まれた
 「黄色の蕊(はなしべ・雄蕊、雌蕊→はなしべ=噺部・話部・譚部
     蕊=艹心心心、
     蘂=艹心心心十八)」
 の、
 「マーガレット」かも・・・
  ↓↑
 「マーガレット(Marguerite・マーガリート)
  キク(菊)科の半耐寒性多年草
  和名はモクシュンギク(木春菊)・・・木の春の菊
                    記に貼る規矩
  原産地はカナリア諸島
  17世紀末にヨーロッパへ渡り、・・・1600年代後半
  フランスで品種改良され・・・・・・・仏蘭西
  パリデージーと呼ばれている」・・・・paris daisy
  ↓↑
  フランスで呼称されている
  「マーガレット」は、
  「フランス菊」で
  日本で言う
  「マーガレット」
  とは違う植物
  「女神アルテミスに捧げられた花」
  「白色の一重咲き、黄色やピンクのもの、
  八重咲き、丁字咲き、オペラ咲き」
 がある・・・
  「フランスの『マーガレット』は
   オックス-アイ-デイジー」・・・Ox eye daisy
  ↓↑
 フランスでマーガレットと呼ばれている花
 フランス菊(和名)=Oxeye daisy・・・ox(牡牛)+ eye(目)
                     daisy(雛菊)
              ox=去勢された牡牛(労役牛)
           Oxeye=丸い花芯のある
               キク科植物の総称
           marguerite
 日本でマーガレットと呼ばれている花
 木春菊(和名)=Paris daisy
         marguerite
 「マーガレット(木春菊)は葉に切れ込みが有り
  フランス菊(ギク)には葉に切れ込みが無い
  マーガレット(木春菊)は茎が木のようになり
  フランス菊(ギク)は1本ずつ立ち上がる」
 ・・・兎に角、牛の眼は黄色の雛、と云うコトだな・・・
 「ox(牡牛)+ eye(目)+daisy(雛菊)」
 「ギリシャ語の真珠=マルガリーテスに由来」
 「花占いで・・・好き、嫌い、好き…と
  花弁(はなびら)を毟(むしら)れていくハナ」
 ・・・「花占い」の歌・・・???・・・
ーーーーー
 ・・・「過去の出来ごと」を勉強し、「現在の出来ごと」も研究している人々って、スゴイねっ!・・・ブロガー(Blogger)の皆さん、尊敬したい・・・当然だが同時に「文字」と「モジ=門司・紋次・紋二・悶時・聞耳」を研究している人々も・・・モジのトキアカシ?
 以下も以前も参照、参考にして添付しているモノはホトンドが「有一記経出阿?(ウイッキペデア)&他のブログ記事」からのモノで、「ーー↓↑ーー・・・ーー↓↑ーー」の範囲は「自説」ではありません・・・「ジセツ」は「・・・」の「?」と「イチャモン?」の部分のみです・・・アシからず、ゴメンなすって、おクンナさい・・・
ーー↓↑ーー
 隋王朝・・・隋=阝+ナ+エ+月・・・「月=肉・舟」?
 ↓↑
 高祖
 楊堅・・・楊=十+八+日+一+勿・・・「勿=なかれ・モチ・ブツ」
      堅=臣+又+十+一・・・「臣=おみ・とみ・ジン・シン」
 の
 北周時代の爵号である
 隨(随)国公に因む・・・隨=阝+辶+ナ+エ+月
                「辶=辵」「月=冃・肉・舟」
             「左=ひだり=㔫(ナ+ヒ・匕・七)」
             随=阝+辶+ナ+月
                「辶=辵」「月=冃・肉・舟」
 ↓↑
 隨(国)は地名
 唐の時代までは「隨」の略字として
 辵部(しんにょう、辶)を省いた
 「隋」と相互に通用され
 さらに
 「隋」から
 「エ」を省いた・・・「エ」=「工作・工事・工文」の道具
          「ナ+ヒ」=サ=「左」の俗字
 「陏」の字が・・・「ナ=一(イチ)+丿(ヘツ・ヘチ)」
             はらいぼう(丿)=ひく・ヘツ・ヘチ
          「月=冃(ボウ)=被(かぶせ)もの
           おおう=おほう=覆・蔽・蓋・幕・弇」
 用いられる事もあり
 後、
 中唐以降に
 「隨」・・・・・阝+左+月+辶(辵)
 と
 「隋」・・・・・阝+左+月
 とは区別され
 地名は・・・シンニュウ=之繞・侵入・浸入・滲入・進入・新入
 ↓↑           繞=糸(いと・シ)
                堯(たかい・ギョウ)
 ↓↑           繞=糸+土+土+土+兀
                土=十+一
              兀=たかい・ゴツ・コチ・ゴチ
              兀=高くつき出たさま
                「兀立=屹(キツ)
                    一心
                    直向(ひたむ)き
                「兀=人(儿)が頭(一)を
                   つき出している意
                   禿げ・禿山
        傲兀(ゴウゴツ)・突兀(トッコツ)
 ↓↑     兀子(ゴシ)・兀兀(コツコツ)・兀立(コツリツ)
 「隨(随)」・・・辶=辵=漢字構成で
              左から下にかけて
              置かれるものの総称
            辵=彡+ト+人
          「随所=ズイショ=随処」にある
           随身=ズイシン=護衛、警備員
           随神門=邪悪なものを防ぐ神をまつる門
           随心供仏=仏心に常に供養すること
           随心転=心ままに常に従うことを
           随求堂=ズイグドウ=随求菩薩の霊廟
           ↓↑
           隧道=ズイドウ=トンネル(tunnel)
 王朝名は・・・・・・・無シンニュウ(辶=辵)
 「隋」と固定した・・・隋=阝+ナ+エ+月(冃・肉・舟)
            「隋書=ズイショ=随所=随処」
 その後、
 高祖
 楊堅が
 「隨」字に
 含まれる
 「辵部」に
 「走る」という字義があって
 前代迄の寧所に
 遑なく東奔西走した歴代を・・・
 髣髴させるために・・・髣髴=よく似ていること・近似
 ↓↑            ありありと思い出すこと
               はっきりと脳裏に浮かぶこと
               あるものを見て
               類似の別のものを思い起こすこと
 ↓↑            姿や形がぼんやりと見えること
 これを去り、
 自らの王朝を
 「隋」
 と名付けたとする・・・説
 及び
 「辵部」には
 平穏に歩を進める字義があり
 一方で
 「隋」には
 供物としての
 「肉の余り」・・・月=ニク=肉(ジク=字句)=にく=似句
               ↓ 肉=冂+人+人
               宍(シシ)=ウ+亠+八
                     う づ はち(やつ)
                     宇都葉知
                     宇都志国玉神
                 (うつしくにたまの神)
                 大物主命=大国主の別名
                 宇都志日金析命
                     金の分析?
                 大綿津見神の子
                 阿曇連(むらじ)らの祖
                 宇津・宇須・宇受・渦
            宇都宮=栃木県宇都宮(二荒山神社)
            下野(しもつけ)=下毛野
            平安時代後期
           『宇豆宮・宇都宮明神』として祭祀
            下野薬師寺=「三戒壇の一」
                  「道鏡」が
                  「宇佐八幡宮神託事件」後
                  当寺に左遷された場所
          月=冃(頭巾=づきん=亠記務?)
 という字義があり、
 楊堅は
 改字によって
 却って
 王朝の命運を縮めた?・・・附会説
 これが
 宋朝の儒学者たちの
 儒教的史観に依る
 革命解釈に適合するものとして喜ばれ
 以降はこの
 楊堅の改字説が?・・・定説なった・・・らしい・・・
ーー↓↑ーー
 隋の皇室(隋書による)
 「楊」氏は・・・鮮卑族?
  ↓↑  ・・・中国北部に存在した遊牧騎馬民族
         五胡十六国時代、南北朝時代には南下し
         北魏などの王朝を建てた
         東胡の滅亡により建国 紀元前209年
         烏丸山と鮮卑山に逃れ
         烏丸族と鮮卑族に分裂
         檀石槐による統一   2世紀
         北魏の建国    386年
         建武三十年(54年)
         鮮卑の大人(部族長)の
         於仇賁(オキュウホン)が
         都、洛陽に上って朝貢
         光武帝から王に封じられた
         ↓↑  ↓↑
         楊貴妃・・・鮮卑族?
               ペルシャ系、
               ウィグル人?
               ソグド人(sogd)?
         719年(開元七年)
         ~
         756年7月15日(至徳元載(元年)六月十六日)
         唐代の玄宗皇帝の皇妃
         姓は楊
         名は玉環
         ライチ(茘枝・リーチ・れいし)が大好き
         ライチは
         ムクロジ(無患子)科の果樹
         漢方で「延命皮」と記録
         正月の
         羽子板の羽根つき羽根のおもり
         果実の外側の皮を
         水につけて揉むと泡が出る
         昔は洗剤の代用
         子供は
 ↓↑      作った泡でシャボン玉とばし・・・
 後漢代の官僚
 「楊震」の子孫・・・楊(やなぎ)が震(ふるえる)
  ↓↑       小野道風?or柳沢吉保?
 「楊震」は、
 かつての教え子が
 「誰も知らないことですから」
 と賄賂を渡そうとしたところ、
 「天知、神知、我知、子知、
  何謂無知
 (天地の神々が知っている。
  私とあなたも知っている。
  誰も知らぬとどうして言えよう)」
 と言って拒否した・・・
 「四知の逸話」
 で有名な人物・・・
 その後、
 楊氏は北魏初期に
 「武川鎮」・・・武の川(かわ・セン)を鎮(しずめる)
 へと移住し、
 楊堅の父
 「楊忠」・・・・「楊=木+昜(ヨウ)」、「忠=中+心」
          楊=玉を掲げて魂振りする意
            これを上から覆って妨げ
            害を人に及ぼすのが「傷・殤」
           「昜=玉光の下に放射する形
              神の威光を示すのが陽」
 に至る
 武川鎮とは北魏において
 首都・平城を北の
 「柔然」・・・・・然(しかるに)、柔(柔らかし)
 から
 防衛する役割を果たしていた軍事基地
ーー↓↑ーー
 北魏において、
 皇室の
 拓跋氏を・・・・拓の跋=草を踏んで野山を歩き回る
             「跋渉」
             荒々しく踏みにじる
             「跋扈 (バッコ) 」
             書物の末尾に記す文章
             あとがき=跋文・序跋・題跋
 「元(もと)の氏(うじ)」
 に変えるといった風に、
 鮮卑風の名前を
 漢民族風に改めるという
 漢化政策が行われた
 ↓↑
 北周ではこれに反発し
 姓名を再び
 鮮卑風に改め、
 漢人に対しても
 鮮卑化政策を行った
 この時、
 漢人である
 楊氏にも
 普六茹(ふりくじょ)
 という姓を与えられた・・・
 普六茹とは
 鮮卑語で
 「ヤナギ(楊)」のこと
 楊堅も、
 「那羅延(ナラエン)」・・・・奈良に延長・延ばす?
 という鮮卑風の小字を持っていた
 楊氏については
 「元々は鮮卑の出身で本来の姓が
  普六茹であり、
  北魏の漢化政策の際に付けられた姓が
  楊である」・・・という説・・・
ーー↓↑ーー
 隋の建国
 楊堅の父
 「楊忠」は
 北魏が
 西魏・東魏に分裂する際
 (後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)
 に
 「宇文泰」・・・宇文泰(うぶんたい)
  ↓↑     正始二年(505年)
          ~
         恭帝三年十月四日(556年11月21日)
         北魏・西魏の政治家
         字は黒獺、黒泰
         鮮卑人・実質的に北周の基礎を築いた
         帝位には就いていないが、
         廟号は太祖
         559年には文帝と追諡
          ↓↑
         宇の文の泰(天下泰平・安泰
              泰然・泰山)
 ↓↑     「泰=龹+氺」=やすい・おおきい・タイ
 に従って
 西魏の成立に貢献し、
 大将軍を務め、
 隋国公の地位についた
 ↓↑
 568年
 楊忠が死去し
 楊堅が
 大将軍
 北周の
 随国公の地位を受け
 北周の
 武帝は宿敵の
 北斉を滅ぼし、
 更に南の
 陳を滅ぼす前段階として
 北の
 突厥への遠征を企図
 ↓↑
 576年
 武帝崩御
 武帝の跡を継いだ
 宣帝は
 奇矯な人物で、
 5人の皇后を持っていた
 その1人が
 楊堅の長女の
 麗華で
 宣帝の側室である
 朱満月が生んだ
 太子の
 「宇文闡(後の静帝)」・・・宇の文の闡
               闡=ひらく・あける・セン
                 ひろ(広)める・ひろまる
                 闡弘(センコウ)
                 あきらか・明らかにする
 を育てた
 宣帝の奇行は留まる所を知らず、
 在位8ヶ月で退位
 静帝に位を譲り、自らは
 天元皇帝・・・・・・・・天の元
 を名乗って政務を放棄
 ↓↑
 静帝の後ろに立つ
 丞相の
 楊堅への声望が高まる
 580年
 宣帝が崩御
 楊堅は
 静帝の摂政として
 北周内の全権を掌握
 反発する
 「武川鎮」軍閥内の有力者たちは
 楊堅に対して反乱
 最も大規模なものが
 尉遅迥
 によるもので、
 一時は楊堅の押さえる
 関中地域以外の全てで反乱が起きたが、
 楊堅は各個撃破し
 北周内に於ける覇権を握った
ーー↓↑ーー
 同年末に
 随国公から
 随王へと進み
 北周の兵権を与えられ、
 581年
 静帝より禅譲を受け
 隋を建国
 これ以降は
 楊堅を諡(おくりな)の
 「文帝」・・・・・・・・・「文の綴」?
 で呼ぶ
 ↓↑
 南北統一
 ↓↑
 北周の
 武帝により
 南北統一への道筋は引かれていたが、
 文帝は細かい準備を丹念に進めた
 ↓↑
 南朝の
 陳では
 宣帝が
 北周末期より江北への進出を試みていたが、
 文帝は
 陳の間諜を捕縛しても
 衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、
 陳とは友好関係を保った
 582年
 文帝は陳に討伐軍を派遣したが、
 陳の
 宣帝が崩御し
 討伐を中止して
 使者を派遣して弔意を表し
 軍を撤退
 ↓↑
 北の突厥に対しては
 長城を修復して防備
 584年
 文帝は長城を越えて突厥を攻撃
 突厥内部に介入し
 東西に分裂させた
 ↓↑
 淮河
 と
 長江を結ぶ
 邗溝(かんこう)
 を開削して補給路を確保
 南朝の
 梁から分裂し、
 北朝の傀儡政権となっていた
 後梁を併合
 文帝は連年に渡り
 農繁期になると
 軍を南下させる気配を見せて
 陳軍に常に
 長江沿岸に大軍を
 配置させる事を繰り返させる事で
 人心を動揺させて
 収穫を減らさせ、
 さらに間諜を使って
 民家に放火させたりし
 陳の国力を衰退させた
 皇帝が
 宣帝の子の
 陳叔宝
 で愚帝だったため
 陳は内部からも崩壊
 ↓↑
 588年
 文帝は
 陳への遠征軍を出発させ
 遠征軍の総指揮官は
 文帝の次男
 楊広(煬帝)で、
 51万8000という大軍の前に
 589年
 陳の都
 建康・・・建業・犍康・・・首都「建業」→「建康」に改名
 が陥落
 陳の皇帝
 陳叔宝は井戸に隠れている所を捕らえられ
 西晋滅亡以来273年
 黄巾の乱以来405年
 の分裂時代が終結
 ↓↑
 開皇の治
 文帝の治世
 7世紀初頭
 隋帝国
 煬帝時の領土
 隋末の農民反乱地域と群雄の拠点
 文帝は即位した直後から
 次々と改革
 ↓↑
 611年
 煬帝は
 文帝が手がけていた
 高句麗遠征を以後
 3度にわたって行なった
 612年から本格的に開始された
 高句麗遠征は
 113万人の兵士が徴兵
 来護児
 宇文述・・・宇の文の述
 らが指揮官として
 高句麗を攻めた
 1回目の遠征は大敗
 兵糧不足で撤退
 613年
 煬帝自身が軍を率いて
 高句麗を攻めるが結果は得られず
 614年
 3度目の遠征では
 高句麗側も疲弊していた事もあって
 煬帝に恭順の意を示したが、
 煬帝が条件とした
 高句麗王の入朝は無視され、
 煬帝は4回目の遠征を計画
 ↓↑
 相次ぐ反乱と群雄割拠
 隋の滅亡
 煬帝の施政による度重なる負担に民衆は耐えかね、
 遂に第2次高句麗遠征からの撤兵の途中に
 かつての
 煬帝の側近
 楊素の息子
 楊玄感
 が
 黎陽で反乱を起こして
 洛陽を攻撃
 これを
 煬帝は隋軍を派遣し鎮圧
 楊玄感は敗死
 ↓↑
 従属していた
 突厥が北方で反乱
 煬帝は自ら軍を率いて北方に向かうも
 突厥軍に敗れて洛陽に撤退
 616年
 各地で反乱
 反乱軍の頭領は各地で群雄割拠
 楊玄感の参謀を務めていた
 李密(北周八柱国・李弼の孫、
    関隴貴族集団の上位の1人
    楊玄感の敗死後に、
    洛口倉という
    隋の大食料集積基地を手に入れ
    多数の民衆を集めた)
 ↓↑
 李密と激しく争っていた
 西域出身で隋の将軍を務めていた
 王世充
 高句麗遠征軍から脱走し、
 同じ脱走兵たちを引き連れて
 河北に勢力を張った
 竇建徳
 隋の
 太原留守(たいげんりゅうしゅ)であった
 李淵(唐の高祖)
 などが独立勢力となった
 ↓↑
 反乱に対して
 煬帝は最初は鎮圧に努めたが、
 その処理が反徒の殺戮政策だったため、
 逆効果を招いた
 隋軍では対処しきれなくなり、
 煬帝は江都に行幸してここに留まり、
 反乱鎮圧の指揮を執った
 煬帝が南方に行幸した事は
 実質北方を放棄して逃走したも同じであり、
 北方の反乱はますます激しくなり、
 遂に
 李淵により首都
 大興城までもが落とされ、
 李淵は表面上は
 煬帝を尊んで太上皇とし、
 煬帝の孫
 楊侑を即位させた
 ↓↑
 煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みず
 諫言や提言する臣下に対して
 殺戮で臨み民心を失った
 煬帝に従って
 江都に赴いていた
 隋軍は多くが北方の出身者であり
 彼らはそんな煬帝を見限り
 重臣の
 宇文化及を擁立し
 618年
 謀反
 煬帝は縊り殺された
 ↓↑
 江都にいた隋軍は
 宇文化及の主導の下に
 秦王
 楊浩を擁立し、
 北へと帰還することを望んだが、
 途中で
 竇建徳の軍に大敗して消滅
 煬帝の死を聞いた
 李淵は、
 楊侑から禅譲を受けて
 唐を建てる
 洛陽にいた
 越王
 楊侗は、煬帝の死を受けて
 諸臣に推戴され皇帝となったが(恭帝侗)、
 619年
 王世充に簒奪され
 隋は完全に滅びた
 煬帝の
 「煬」の文字は、
 「天に逆らい、民を虐げる」という意
 李淵によって贈られた諡
 ↓↑
 煬帝の孫のひとりである
 楊政道(斉王楊暕の遺腹の子)のみ、
 唯一生き延び
 突厥の
 処羅可汗の庇護を受けたが、
 630年
 突厥が滅亡すると、
 楊政道は唐に帰順して、
 官職を賜った。
 ↓↑
 文帝(楊堅、在位581年 - 604年)
 煬帝(楊広、在位604年 - 618年) 文帝の子
 恭帝侑(楊侑、在位617年 - 618年) 煬帝の孫
 恭帝侗(楊侗、在位618年 - 619年) 煬帝の孫、楊侑の兄
 楊俊(よう しゅん、571年 - 600年6月)
 隋の文帝(楊堅)
 と
 独孤伽羅(ドッコカラ)の間に生まれた
 三男
 仏教を崇敬したが
 後、
 贅沢奢侈、法令を破り、民衆を苦しめ堕落
 秦孝王
 死後
 ↓↑
 長子の
 楊浩は
 618年 隋皇帝
 秦王、河陽都尉を継承
 「宇文化及」の乱のときに帝位につけられ
  宇文化及が帝号を僭称すると、殺害された」
 ↓↑
 宇文化及(ウ-ブンカ-キュウ)?
 隋末の混乱期に皇帝を僭称
 許を建国
 宇文智及、宇文恵及の兄、宇文士及の異母兄
 北周の左翊衛将軍
 宇文述の長男
 代郡
 武川鎮(内蒙古-武川県)に生まれ
 ↓↑
 次男の
 「楊湛は済北侯、滎陽太守」
 ↓↑
 女(むすめ)の
 永豊公主・・・永の豊の公主?
 字は阿 祗・・・
   ↓ ↑
   阿僧祇(あそうぎ・asaṃkhyeya)
      「数えることができない」の意
      「成仏するまでの時間の長さ」である
      「三阿僧祇劫」=10の59乗
   数の単位の一
   阿僧祇・・・時代や地域により異なる
   日本では一般的に
   10の56乗
   10の64乗
   とする人もいる・・・?
   阿僧祇は
  「阿僧祗(あそうし)」
   と書かれることがあるが、
  「祗」は誤り・・・?
   一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 𥝱(秭)
   穣 溝 澗 正 載 極 恒河沙
   阿僧祇
   那由他 不可思議 無量大数
  (計21単位)
   日本人苗字=アギナ=Agina
   阿支奈・阿藝奈・阿祗奈・安慶名・阿祇奈
   ↓↑
 1000=千=阡=仟
 ・・・「鮮=数の単位・百の10倍・数の多いこと
       阡・仟は大字として用いる
       千に一つ・千も万もいらぬ.
 ・・・「鮮=あざやか・セン・魚+羊
       異体字=鲜・仙・尟・赻・鱻・尠
       簡体字=鲜
       声符=「羴」=鮮・癬・蘚・𩆵
       熟語=鮮少=わずか・ほんの少し
   ↓↑
 「あざやか(鮮明)
  技術、動作などがきわだっているさま
  容姿などが目立って美しいさま
  採りたての魚・肉・野菜(新鮮)
  生魚(なまざかな)・・・ナマのマナ(うお)=眞名・壬生=みぶ
  生肉(なまにく)・・・・ナマのジク(にく)=字句・宍=しし
  鳥や獣の新しい肉
  魚のナマス(膾・鱠・齏・韲・生須・生巣)・・・鯰
  (魚の赤身、白身に調味料を合わせて生食料理)
  潔(いさぎよ)い・汚れがない・善(よ)い
  美しい・艶(あで)やか・見目(みめ)よい
  華(はな)やか
  少ない・乏(とぼ)しい
  稀(まれ)
  尽きる
  若死に
  奉(たてまつ)る=献
  大きな山から離れている小山・離(はな)れ山
  新鮮=シンセン=新撰・浸染
  鮮=魚+羊・・・生魚、生肉
  尟(セン)に通じ、少ない・僅か=毫
  乏(とぼ)しい・欠しい・・・欠乏の意」
  「朝鮮」
  ・・・「鮮=物請う・物乞う・朝廷に物乞う人々の国?」・・・
 鮮=あざやか・すくない
 取りたてで生きがよい
 生生 しい
 鮮魚・鮮血・新鮮・生鮮
 形、色がくっきりしている
 あざやか・・・「痣・字」也化(哉掛・鰥化)・・・?
   鰥(ヤ)=大魚の名・魴鰥(ホウカン)類 鯤(コン)
       やもめ・やもお=妻のない男・男やもめ
       鰥寡(カンカ)・鰥居・鰥夫
       や(病)む・悩(なや)む
 鮮明・鮮緑・鮮烈
 すくない・鮮少
 名のり=あきら・き・まれ・よし
 「羊のにおい」という意
 「鮮=においのする魚・なま魚」・・・
 「貉(バク)国に産する魚の名」
 若死にしたさま・短命のもの
 「鮮者」=「若死にしたもの」
 「鮮民」=「財産を持たない、孤独な人」
 「羊羊羊=三羊」
 鮮
 数の単位で百の10倍・数の多いこと
 「阡・仟」は大字として用いる
 千に一つ・千も万もいらぬ
 あざやか・セン
 魚+羊
 異体字.鲜・仙・尟・赻・鱻・尠
 簡体字. 鲜
 声符、羴・鮮・鮮少
    癬=疥癬
    蘚=蘇我・耶蘇
ーーーーーーーーー
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 大化六年(650年)
 穴戸の国司
 草壁醜経・・・・日下部の醜の経
 が
 白雉を献上・・・・史露(魯)記事(生地)?
 ↓↑
 天智四年(665年)
 長門国の初見
 穴門とは海峡(関門海峡)
 穴門国造の領域と、
 阿武国造の領域
 をあわせて、
 七世紀に
 穴戸国・・・・宍戸(ししど)=肉戸
 が設置され
 七世紀後半に
 長門国に改称・・・
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 古事記
 仲哀天皇-注亜意(蛙異)?
 ↓↑
 第十四代-仲哀天皇
 帶中日子天皇、
 坐穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮、治天下也。
 此天皇、
 娶
 大江王之女・大中津比賣命、
 生御子、香坂王、忍熊王。
 二柱。
 又娶
 息長帶比賣命 是 大后生御子、
 品夜和氣命、
 次
 大鞆和氣命
 亦名
 品陀和氣命。
 二柱。
 此太子之御名、
 所以負
 大鞆和氣命者、初所生時、
 如
 鞆宍生御腕、・・・鞆=国字で表外漢字・とも・ほむだ
            ほむた=鞆(革+丙)=とも
            丙=脚が張り出た台の形
            丙=一+内(人+冂)
              火+冂=竈・窯=穴+羊+灬(烈火)
              鞆=ふいごう=韛・蹈鞴・踏鞴
   [f:id:naie:20170519024752j:image]
              台座
              両足を逆Y字形に開いたさま
              魚の尾びれ
          鞆(とも)=弓を射る時に左手首の
                内側につけ、矢を放ったあと
                弓の弦が腕や釧に当たるのを
                防ぐ道具
                古語では「ほむた・ほむだ」
                鞆の字は国字
                革製の丸い形で、
                革紐で結びつける装身具で武具
          類字は「柄」=がら・え・つか・ヘイ
                 器物の手で握る部分
                 取っ手・斗柄・葉柄
                 手中に握る権力・勢い
                 権柄・国柄・執柄
                 とらえて材料にするもの
                 笑柄・談柄・話柄
                 関係=がら・間柄・家柄
                 「へた=蒂・蔕」に繋がる部分
 故著其御名。是以知、坐腹中定國也。
 此之御世、定淡道 之 屯家也。
 其大后
 息長帶日賣命者、當時歸藭。
 故、天皇坐 筑紫 之 訶志比宮、
 將擊熊曾國之時、
 天皇 控御琴而、建內宿禰大臣 居於沙庭、
 請藭之命。於是、大后歸藭、
 言教覺詔者
 「西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寶、
  多在其國。吾今歸賜其國。」
 爾天皇答白
 「登高地、見西方者、不見國土、唯有大海。」
 謂爲詐藭而、押退御琴不控、默坐。
 爾其藭大忿詔
 「凡茲天下者、汝非應知國。汝者向一道。」
 於是、建內宿禰大臣白
 「恐我天皇、
  猶
  阿蘇
  婆勢・・・・・・・・阿蘇の婆(波女)の勢
  其大御琴。
  (自阿至勢以音)。」
 爾稍取依其御琴而、
 那摩那摩邇
 (此五字以音)
 控坐。故、未幾久而不聞御琴之音、
 卽擧火見者、既崩訖。
 爾驚懼而、坐殯宮、更取
 國之大奴佐 (而奴佐二字以音)、
 種種求生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・
 上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚之罪類、
 爲國之大祓而、
 亦建內宿禰居於沙庭、請藭之命。
 於是、教覺之狀、具如先日
 「凡此國者、坐汝命御腹之御子、所知國者也。」
 爾建內宿禰白
 「恐我大藭、坐其藭腹之御子、何子歟。」
 答詔
 「男子也。」
 爾具請之
 「今如此言教之大藭者、欲知其御名。」
 卽答詔
 「是、天照大藭之御心者。
  亦底筒男・中筒男・上筒男、三柱大藭者也。
  此時其三柱大藭之御名者顯也。
  今寔思求其國者、
  於天藭地祇亦山藭及河海之諸藭、
  悉奉幣帛、我之御魂、坐于船上而、眞木灰納瓠、
  亦箸及比羅傳此三字以音多作、皆皆散浮大海、以可度。」
 故、備如教覺、整軍雙船、度幸之時、海原之魚、不問大小、
 悉負御船而渡。爾順風大起、御船從浪。
 故其御船之波瀾、押騰新羅之國、既到半國。
 於是、其國王畏惶奏言
 「自今以後、
  隨天皇命而、
  爲御馬甘、
  毎年雙船、
  不乾船腹、不乾柂檝、
  共與天地、無退仕奉。」
 故是、以
 新羅國者、定御馬甘、
 百濟國者、定渡屯家。
 爾以其御杖、
 衝立
 新羅國主之門、
 卽以墨江大藭之荒御魂、
 爲國守藭而祭鎭、還渡也。
 故其政未竟之間、其懷妊臨產。
 卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、
 渡筑紫國、其御子者阿禮坐。(阿禮二字以音)。
 故、號其御子生地謂 宇美也、
 亦所纒其御裳之石者、
 在 筑紫國 之 伊斗村也。
 亦到坐
 筑紫
 末羅縣 之 玉嶋里而、
 御食其河邊之時、當四月之上旬。
 爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、
 以飯粒爲餌、
 釣其河 之 年魚。
 其河名謂小河、
 亦其 礒名謂 勝門比賣也。
 故、四月上旬之時、女人拔裳糸、
 以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。
 於是、
 息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、
 一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之
 「御子既崩。」
 如此上幸之時、
 香坂王・忍熊王 聞而、思將待取、進出於斗賀野、
 爲宇氣比獦也。
 爾香坂王、騰坐歷木而是、大怒猪出、
 堀其歷木、卽咋食其香坂王。
 其弟忍熊王、不畏其態、
 興軍待向之時、赴喪船 將攻 空船。
 爾自其喪船下軍相戰。
 此時忍熊王、以 難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍、
 太子御方者、以 丸邇臣之祖・難波根子建振熊命爲將軍。
 故追退到山代之時、還立、各不退相戰。
 爾建振熊命、權而令云
 「息長帶日賣命者 既崩。故、無可更戰。」
 卽絶弓絃、欺陽歸服。
 於是、其將軍既信詐、弭弓藏兵。爾自頂髮中、
 採出設弦一名云 宇佐由豆留、更張追擊。
 故、逃退逢坂、對立亦戰。
 爾追迫敗於沙沙那美、悉斬其軍。
 於是、其忍熊王與伊佐比宿禰、共被追迫、
 乘船浮海
 歌曰、
 伊奢阿藝 布流玖麻賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能
 阿布美能 宇美邇 迦豆岐勢那和卽入海共死也。
 故、建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、
 經歷淡海 及 若狹國之時、
 於
 高志前之角鹿、造 假宮而坐。
 爾坐其地 伊奢沙和氣大藭之命、
 見於夜夢云
 「以吾名、欲易御子之御名。」
 爾言禱白之
 「恐、
  隨命易奉。」・・・隨の命、易(かえ)奉(まつる)?
 亦其藭詔
 「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」
 故其旦幸行于濱之時、
 毀鼻
 入鹿魚、
 既依一浦。
 於是御子、
 令白于藭云
 「於 我給 御食 之 魚。」
 故亦稱其御名、號 御食津大藭、
 故於今謂
 氣比大藭也。
 亦其
 入鹿魚 之 鼻血臰、
 故號其浦 謂 血浦、
 今謂 都奴賀也。
 於是、還上坐時、其御祖
 息長帶日賣命、釀待酒以獻。
 爾其御祖
 御歌曰、
 許能美岐波 和賀美岐那良受 久志能加美
 登許余邇伊麻須 伊波多多須 須久那美迦微能
 加牟菩岐 本岐玖琉本斯 登余本岐 本岐母登本斯
 麻都理許斯美岐叙 阿佐受袁勢 佐佐如此歌而、
 獻大御酒。
 爾建內宿禰命、
 爲 御子 答 歌曰、
 許能美岐袁 迦美祁牟比登波 曾能都豆美
 宇須邇多弖弖 宇多比都都 迦美祁禮迦母
 麻比都都 迦美祁禮加母 許能美岐能美岐能
 阿夜邇宇多陀怒斯 佐佐此者酒樂之歌也。
 凡
 帶中津日子天皇之御年、
 伍拾貳歲。
 壬戌年六月十一日崩也。
 御陵在河內
 惠賀 之 長江也。
 皇后、御年一百歳崩、
 葬于狹城楯列陵也。
ーー↓↑ーーー
 イルカ(海豚・鯆)
 ギリシャ語
 delphinus(デルピーヌス・デルフィーヌス)
 dolphin
 鼻先のとがったイルカ
 マイルカ
 porpoise(プロポイス)
 シイラ・・・シイラ(鱪、鱰=魚+暑、署)
 学名 Coryphaena hippurus
 スズキ目・シイラ科
 中国語
 「鯕鰍(チーチォウ・qíqiū)」と表記
 台湾語
 「鬼頭刀(クイタウトー)」と呼ばる
 英名
 「Dolphinfish」は
 イルカのように船に寄ることから
 スペイン語
 「Dorado・黄金」
 ハワイ
 「マヒマヒ(Mahi-mahi)」と呼ばれる
 ↓↑
 背びれを持たないイルカ
 セミイルカ属(背美海豚属・Lissodelphis)
 シロハラセミイルカ(白腹背美海豚・L. peronii)
 ↓↑
 イロワケイルカ(色分海豚・Cephalorhynchus commersonii)
 ↓↑
 クジラ目ハクジラ亜目マイルカ科
 イロワケイルカ属(セッパリイルカ属)に属する
 ↓↑
 カマイルカ(Lagenorhynchus obliquidens・鎌海豚)
 クジラ目ハクジラ亜目マイルカ科
 カマイルカ属(Lagenorynchus)
 背びれの形が草などを刈る
 鎌に似ていることに由来・・・
 ↓↑
 ネズミイルカ(鼠海豚・Phocoena phocoena)
 ネズミイルカ(Porpoise)
 クジラ目ハクジラ亜目ネズミイルカ科
 ネズミイルカ属に属する小型のイルカ
 英語では
 「Harbour Porpoise(港のイルカ)」
 ↓↑
 いるか座
 ↓↑
 スナメリ(砂滑)=ネズミイルカ科
 イシイルカ=ネズミイルカ科に属する
 ↓↑
 イルカの歯はおよそ80本
ーー↓↑ーー
 武内宿禰が後見の
 太子(応神天皇)は
 イザサワケ
 と名の交換を行った
 (易名説話)
 太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、
 夜の夢に
 イザサワケが現れて名を交換するよう告げられ
 太子が承諾すると
 イザサワケは翌朝に浦に出るように言い、
 太子が言われたとおりにすると
 浦には一面にイザサワケの献じた
 入鹿魚(イルカのマナ)があった・・・蘇我入鹿
 これにより太子はイザサワケを
 「御食津大神(みけつのおおかみ)」
 と称え、のちにその名が
 「気比大神」となった・・・
 イルカが当時より
 食料(「御食(ミケ)の魚(ナ)」)
 とされていた・・・
 古事記では、
 鼻を怪我したイルカの血の臭いから
 座礁した浦を
 「血浦(ちうら)」と名付け、
 これが転じて
 「都奴賀・敦賀(つるが)」
 という地名が生まれた
  日本書紀では
  都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
 に由来する
 ↓↑
 ギリシア神話
 イルカは
 アポローン
 アプロディーテー
 ディオニューソス
 ポセイドーン
 アムピトリーテー
 の聖獣
 トリートーンは
 上半身が人間で下半身がイルカ・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

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