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コジキジゲン

土・士・・・「十+一」・・・「壱拾壹=イチ足イチ・・・

2017-10-09 21:51:46 | 古事記字源

 ・・・「衆議院選挙」・・・「第48回衆議院議員総選挙(2017年10月22日に予定されている衆議院議員総選挙・9月28日、衆議院は第194臨時国会冒頭で解散された。理由は森友、加計、防衛省などの隠蔽問題追及回避?」・・・
 解散名 「国難突破」解散?・・・「隠蔽」解散?
 公示日 2017年10月10日
 投票日 2017年10月22日
     2017年 丁酉(庚・ ・辛)
     0010月 庚戌(辛・丁・戊)
     0022日 壬午(丙・ ・丁)・心
     ↓↑
     a 1954/9/21=甲午/癸酉/庚辰・申酉=空・張・
     k 1952/7/15=壬辰/丁未/壬戌・子丑=空・胃・三合丙
     e 1964/5/31=甲辰/己巳/庚辰・申酉=空・虚・
 改選数 465
  「東尋坊(とうじんぼう)=福井県坂井市三国町安島に位置する崖」に訊いてみたい・・・過去→「現在」→未来・・・「現在」は存在論的には「存在」しない・・・「揆(キ)=扌(手)+癸=はかる・はかりごと・キ・揆度 (キタク)・やり方・全体的な過程や規模」・・・「扌=才」?・・・才能の「才」・・・「才知・才気・才におぼれる・才に走る・学識・才識」・・・「一揆=盟約・同盟」・・・
ーーーーー
 第十一条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
 この憲法が国民に保障する基本的人権は、
 侵すことのできない永久の権利として、
 現在及び将来の国民に与へられる。
 ↓↑
 第九十七条
 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、
 人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、
 これらの権利は、
 過去幾多の試錬に堪へ、
 現在及び将来の国民に対し、
 侵すことのできない永久の権利として
 信託されたものである。
 ↓↑
 第十二条
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
 国民の不断の努力によって、
 これを保持しなければならない。
 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、
 常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
 ↓↑
 第十三条
 すべて国民は、
 個人として尊重される。
 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
 公共の福祉に反しない限り、
 立法その他の国政の上で、
 最大の尊重を必要とする。
 ・・・???・・・
ーー↓↑ーー
 1471年(文明三)
 吉崎へ下向した
 蓮如は
 親鸞以来の
 血脈相承を根拠に
 一宗独立を宣言
 個別分散的な
 浄土系諸門流の掌握を開始
 蓮如教団は
 世法的宗教観の否定を唱える門流をも内包
 他宗派との間に鋭い緊張関係を生じた
 一方
 加賀守護勢力は十五世紀中期以降
 幾度も
 二手にわかれ支配権を争っていた
 このような状況下
 七十四~七十五年
 一部守護勢
 と
 一向衆とは
 国人層
 百姓層
 寺社勢力
 をも糾合し
 それぞれの
 反対勢力打倒の
 一揆(惣国一揆)をおこした
 ↓↑
 一揆=揆(やり方・手段)を
    ひとつにするという意味
    共同体が意識と行動を一つにし
    目的を達成しようとすること
    ↓↑
    盟約、契約を結び
    政治的共同体を結成し
    集団及び、既成の支配体制に対する
    武力行使を含む抵抗運動(体)
    ↓↑
    武家が団結する意志や集団行動を表す言葉
    易占の結果や意見が一致する意味
    武力を行使する
    「盟約に基づく政治的共同体」
    ↓↑
 惣国一揆=惣国制(そうこくせい)とは
      大名領主を仰がずに
      在地領主権を守る為に
      団結した国人衆(地侍)による
      合議政治の統治形態
      有力国人衆(地侍)の合議に拠る
      自治は大名との軋轢を生み
      更に惣に結集した民衆も参加
      山城惣国一揆
      伊賀惣国一揆
      紀州惣国などに発展
      大名領主が力を失った地域で
      有力国人衆(地侍)が
     「惣(そう)」と呼ばれる
      合議に拠る自治共同体を形成した
 守護や単一の国主を戴かず
 一国内の
 惣国=国人・土豪・地侍が結合した主体とし
    検断や半済といった
    国内の統治を自ら行う
    一種の共和制
 守護家の中から一揆の意向に忠実な者を
 名目的な守護に擁立する場合もあった
 惣村=百姓の自治的村落共同体
    が
    国人・土豪・地侍
    を指導者としつつ
    一国規模で結合し
    守護を排除し
    支配の主体となった
    or
    百姓・惣村との関連性は低く
    一国内の
    国人・土豪・地侍の総体である
    惣国が守護に代わった
    ↓↑
    対外的危機において
    惣国を主体としつつも
    百姓とも結びついて成立した
    重層構造の組織
 ↓↑
 郡中惣=戦国時代、国人・土豪・地侍
     (在地領主)層が
     地域の防衛と在地の支配のために
     郡を単位として結成した
     一揆的な結合組織
 ↓↑
 郡中惣・三方・同名惣
 それぞれ掟などの法律や訴訟制度を持ち
 同名中や村落間の争いの発生
 在地領主層と村落・百姓の争いの発生
 入会や土地、用水を巡る訴訟が発生した場合に
 それらの掟に基づいて解決を図った
 甲賀郡
 大和国宇陀郡
 山城国乙訓郡
 伊賀惣国一揆
 山城国一揆
 の組織も郡中惣と類似していた
ーー↓↑ーー
 長享二年(1488年)六月九日
 加賀本願寺門徒による一揆勃発
 守護
 富樫政親・・・富樫=とがし=訳臥詞?
 ↓↑        富=とみ=止見=冨=登美・臣・外美
        関守
        富樫泰家(とがし やすいえ)=左衛門
        「樫=木+堅=十八臣又十一」
        ↓↑
 ↓↑     藤原北家、「魚名」流
        藤原利仁(としひと)の末裔
        藤原利仁は
        「芋粥」を食べさせようと
        京都から「敦賀の舘」へ連れ帰った・・・
 ↓↑     ↓↑
        歌舞伎の→かぶき=掛部基(企記紀)?
        富樫左衛門
        勧進帳の代官
        源義経の逃避行
        武蔵坊弁慶と富樫のやりとり
        安宅の関(あたかのせき)
        石川県小松市の日本海側
 ↓↑     安宅に守護、富樫氏が設けた関所
 の籠る
 高尾城(たこじょう)を攻め・・・タカオ=多寡尾?
 政親は自刃
 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)・・・比る咩
 石川県
 白山市
 三宮町にある神社
 式内社、加賀国一宮
 旧社格は国幣中社(現在は本庁の別表神社)
 全国に2,000社以上ある
 白山神社の総本社
 「白山(しらやま)さん
  白山権現・加賀一の宮・白山本宮」
 とも・・・白山=ハクサン=葉句纂?
 ↓↑
 加賀国の一向一揆
 1471年
 蓮如(レンニョ)は
 越前国吉崎
 (よしざき・福井県あわら市)・・・あわら=粟原・芦原・蘆原
               阿原・湶
 に下向
 北陸地方の
 真宗(一向宗)の布教を開始
 1474年から翌年にかけて
 加賀の守護勢力の一部と一向宗徒は
 反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)を形成
 ↓↑
 1474年(文明六)~1580年(天正八)
 加賀国(石川県)の一向衆徒らが
 国内を支配運営
 蓮如は
 親鸞以来の
 血脈相承を根拠に
 一宗の独立を意図し
 吉崎滞在中(1471~75)
 分散的な
 北陸の浄土系諸門流を吸収
 1473年
 加賀での公的認可を条件に
 富樫政親(とがしまさちか)
 の要請を受け
 守護家の内紛に介入
 翌年
 高田
 専修寺(せんじゅじ)派と結ぶ
 富樫幸千代倒した(文明一揆)
 1475年には政親と戦い
 1488年
 かわりの守護を擁立し
 富樫政親を高尾城に滅ぼした(長享一揆)
 文明一揆の時
 富樫政親に協力した国人層は
 連合組織
 「郡」を結成
 長享一揆の時
 小地域ごとに結集した門末は
 「組」を結成
 「組」はやがて
 一門(宗主庶子)の
 「与力(よりき)組織」となった
 ↓↑
 1506年、1521~23年
 畿内、北陸の政争の影響を受け
 数か国に及ぶ
 一揆が発生(永正・大永)一揆
 北陸の門末は
 加賀一門の統制下にあったため
 加賀の一揆は
 越前、越中
 など北陸一帯の一揆となった
 ↓↑
 1510年代
 本願寺一門は
 「郡」の有力者を家人化
 「郡」を一向宗の組織とし
 続いて
 坊主衆の一揆への参加を禁止
 加賀の一揆組織
 は俗的色彩を強く帯び
 「郡」は
 在地領主権を所領外の門末へも及ぼし
 「組」は軍事的、財政的宗教役を担った
 ↓↑
 1531年
 新・旧宗主系親族団の内紛により
 一門が没落(享禄錯乱・大小一揆)し
 「郡」と「組」は本願寺に直属
 (1546年以後金沢御坊)に従属
 同一化を促進
 越前、能登の門末を含む
 「加賀」衆は
 1555年、1564年
 朝倉勢と
 1570年代前半は
 上杉勢と
 以後は
 織田勢と戦い続けた
 「加賀」衆の
 支配権とその境界線
 ともに私的で
 その安全性の保障は
 戦い続けることによってのみ得られた
 ↓↑
 1580年
 金沢御坊の陥落とともに
 加賀一揆は
 織田軍により解体
 ↓↑
 蓮如
 文明六年(1474年)
 ~
 文明七年(1475年)
 吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在
 親鸞以来の
 血脈相承・・・血脈相承
       (けちみゃくそうじょう)
        仏教で法が
        師から弟子へと相続されること
        師から授けられるものは
        本尊や教義・戒律
        切紙などの奥義・秘伝の類
        宝物など、
        血脈相承における「法」とは
        次代の師となるべき者の相続
        本願寺派は
        門主(門首、法主)の座が
        親鸞の子孫に受け継がれること
        伝灯相承(浄土真宗)
 を根拠とし
 北陸の
 浄土系諸門を統合
 ↓↑
 文明五年(1473年)・・・文の明のゴ(語)
 富樫政親
 の要請を受け
 守護家の内紛に介入
 翌年には
 富樫幸千代
 を倒した
 蓮如はこれによって
 守護の保護を受ける事を期待していたが
 富樫政親は
 本願寺門徒の勢いに不安を感じ
 文明七年・・・文の明の七(漆)
 門徒の弾圧を開始
 蓮如は
 吉崎御坊を退去
 加賀の門徒は
 富樫政親に追われて
 越中に逃れた
 ↓↑
 越中
 砺波郡の
 石黒光義が
 富樫政親と結んで
 門徒弾圧に出
 文明十三年(1481年)・・・文の明、壱拾参
 越中で一揆が発生
 石黒光義が討ち取られる(越中一向一揆)
 富樫政親は
 加賀の一国支配の認知を目指し
 九代将軍
 足利義尚
 による
 六角高頼
 遠征(鈎の陣)
 に従軍したが
 戦費の拡大により
 国人層が反発
 越中から帰還した
 門徒とともに決起
 長享二年(1488年)
 代わりに
 富樫泰高
 を守護に擁立
 富樫政親を
 高尾城に滅ぼした(長享の一揆)
 足利義尚は
 一向一揆の討伐を検討
 細川政元
 の反対と
 足利義尚
 の死により
 一向一揆討伐
 と
 六角高頼の
 遠征は中止
 以後
 加賀に宗主代理の
 一門衆
 (松岡寺住持蓮綱
  光教寺住持蓮誓
  本泉寺住持蓮悟)
 が在住し、
 国人層から本願寺による
 加賀支配に移行
 ↓↑
 永正三年(1506年)
 一向一揆を抑圧する周辺諸国への
 進撃を行って失敗
 (九頭竜川の戦い・般若野の戦い)
 一門衆による統治に動揺
 本願寺中央が
 一門衆を抑圧しようとし
 享禄四年(1531年)
 大小一揆と呼ばれる内紛に発展
 一門衆やこれに従った
 国人衆が粛清
 天文十五年(1546年)
 尾山御坊(金沢御堂)が建設
 それを拠点として
 北陸全体に一向一揆を拡大
 弘治元年(1555年)
 ↓↑
 永禄七年(1564年)
 に朝倉氏と
 1570年代前半
 に上杉謙信
 その後は
 織田信長と対立
 ↓↑
 元亀三年(1572年)
 杉浦玄任
 を総大将とする
 一揆勢が
 上杉軍と数ヶ月に渡って激突
 各地で上杉軍を破る
 謙信率いる上杉本隊が到着
 尻垂坂の戦いで一揆は大敗
 ↓↑
 石山本願寺の降伏
 尾山御坊の陥落
 一揆は解体
 ↓↑
 尾山御坊を攻略したのは
 佐久間盛政
 一揆を沈静化させたのは
 前田利家・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・橘奈良麻呂、藤原仲麻呂(恵美押勝)から随分と跳んできてしまった・・・

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