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コジキジゲン

愛新覚羅・・・金の原・・・女の真・・・女の直

2014-08-06 21:20:13 | 古事記字源

 ・・・「シンコク」の同音異字漢字・・・親告の申告の深刻の神国の新穀の変・・・ボクの「コージネェーター(交字音重他蛙)」としてのモノガタリの「コーディネェート(coordinate)」と、その「概要( outline )」・・・?・・・「清」・・・「愛・新・覚・羅」・・・「愛新」は「金(キン・かね)」を意味する「満州語」であるらしいが、「覚羅(ギョロ・カクラ)」は「ヌルハチの祖先が定住した土地の名」で、「原っぱ」の意味であるらしい・・・「羅(ラ・うすもの・あみ)」・・・「アイ・シン・ギョ・ロ」、「アイ・シン・カク・ラ」の音って、言うよりも漢字の「愛(いつくしみ・慈)は新(あらた)な覚(さとり・悟)の羅(あみ・網)」・・・?・・・「羅」は「細糸で縦横の折り目を細かく織り込んだ絹織物、沙羅、錦」などのコトである・・・「シルク(Silk)の布」である。蚕(かいこ)の繭(まゆ)からとった動物繊維の布である・・・シルクロード(絹の道)・・・絹の精製発明は「黄帝の后・西陵氏→西太皇后?」であった・・・
 ウイッキペデアによれば、紀元前1000年頃の古代エジプト遺跡から「中国絹」の断片が発見されているらしい。絹は原産が古代中国なのだ・・・古代ローマではシルク(Silk)は同量の金と同じだけの価値があるとされた・・・皇帝アウグストゥスは法令で全ての人間の絹製の衣類着用を禁止したらしいが、絹衣着用の流行は「治(おさ)」まらなかった、とある。
 とにかく「シルクの重さ=同量=金の重さ」である。
 織機の筬(おさ、リード、reed)の「一羽」に経糸を2本通す「羽二重(はぶたえ)」は「光絹(こうきぬ)」とも言われているらしい・・・「筬」の数詞が「羽」である・・・鳥、兎を数える数詞も「一羽、二羽」である。
 「絹のよさは羽二重に始まり羽二重に終わる」である。
 「歯に衣(きぬ・絹)を着せぬ」とは?ねッ、「絹(きぬ)=糸+口+月」の漢字を当てるのは誤りではないだろう・・・「シルク=知る句」である・・・
 1909年、日本の生糸生産量は「清国」を上回り、世界最高となり、生糸は明治、大正と外貨獲得の製品となった。だが、1929年以降の世界恐慌で生糸価格が暴落し、東北地方で農村での不況が吹き荒れたのだ・・・世界遺産に登録された製糸工場と言われる富岡製糸場の技術指導を行ったのは、フランス人技師の「ポール・ブリュナー (Paul Brunat) 」であった。
 「古事記・日本書紀」には「目弱王・眉輪王(まよわのおおきみ」が記録されているが「繭輪(まゆわ)」であろう。その臣下が、
 円大使主(つぶらのおほみ)→「日本書紀・履中天皇二年の条」
 円大臣(つぶらのおおおみ)→「日本書紀・雄略天皇元年の条」
 都夫良意富美(つぶらのおほみ)→「古事記・安康天皇」
 である・・・そして、「諏訪湖」周辺は「養蚕地」であった・・・「建御名方神(たけみなかたのかみ)」は「古事記」の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として登場する。「延喜式神名帳」などには「南方刀美神」の表記もあるらしい。長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。諏訪大神(すわだいじん)は、千葉県香取郡東庄町(下総国香取郡)にある神社。旧社格は郷社。 建御名方命を主祭神とし、事代主命と大国主大神を配祀しているらしい・・・
ーーーーー
 12)
 清水の地名、姓名、寺名、宗教、本命

 ・・・その前に材料をウイッキペデアから参考抜粋し、少々改作添付・・・
  ↓
 「清国」のカンジ・・・諡号、姓名の意味は?
ーー↓
 太祖
 諡号は
 承天広運聖徳神功
 肇紀立極仁孝睿武端毅
 欽安弘文定業高皇帝
 姓名は
 愛新覚羅弩爾哈赤
 アイシンギョロ・ヌルハチ
 1616年 - 1626年
 年号 天命
 ↓
 太宗
 諡号は
 応天興国弘徳彰武
 寛温仁聖睿孝敬敏昭定
 隆道顕功文皇帝
 姓名は
 愛新覚羅皇太極
 アイシンギョロ・ホンタイジ
 1627年 - 1643年
 年号 天聡・崇徳
 ヌルハチの第8子
 ↓
 世祖
 諡号は
 体天隆運定統建極英睿
 欽文顕武大徳弘功
 至仁純孝章皇帝
 姓名は
 愛新覚羅福臨
 1644年 - 1661年
 年号 順治
 ホンタイジの第9子
 ↓
 聖祖
 諡号は
 合天弘運文武睿哲恭倹
 寛裕孝敬誠信
 功徳大成仁皇帝
 姓名は
 愛新覚羅玄�惷
 1662年 - 1722年
 年号 康熙
 順治帝の第3子
 ↓
 世宗
 諡号は
 敬天昌運建中表正文武英明
 寛仁信毅睿聖大孝
 至誠憲皇帝
 姓名は
 愛新覚羅胤�擇
 1723年 - 1735年
 年号 雍正
 康熙帝の第4子
 ↓ <span class="deco" style="font-size:medium;"><span class="deco" style="font-size:small;"></span>
</span> 高宗
 諡号は
 法天隆運至誠先覚体元立極
 敷文奮武欽明孝
 慈神聖純皇帝
 姓名は
 愛新覚羅弘暦
 1736年 - 1795年
 年号 乾隆
 雍正帝の第4子
 ↓
 仁宗
 諡号は
 受天興運敷化綏猷
 崇文経武孝恭
 勤倹端敏英哲睿皇帝
 姓名は
 愛新覚羅顒琰
 1796年 - 1820年
 年号 嘉慶
 乾隆帝の第15子
 ↓
 宣宗
 諡号は
 效天符運立中体正
 至文聖武智勇仁
 慈倹勤孝敏寛定成皇帝
 姓名は
 愛新覚羅旻寧
 1821年 - 1850年
 年号 道光
 嘉慶帝の第2子
 ↓
 文宗
 諡号は
 協天翊運執中垂謨懋徳
 振武聖孝渊
 恭端仁寛敏顕皇帝
 姓名は
 愛新覚羅奕詝
 1851年 - 1861年
 年号 咸豊
 道光帝の第4子
 ↓
 穆宗
 諡号は
 継天開運受中居正保大定
 功聖智誠孝信敏
 恭寛毅皇帝
 姓名は
 愛新覚羅載淳
 1862年 - 1874年 (祺祥)
 年号 同治
 咸豊帝の長子
 ↓
 徳宗
 諡号は
 同天崇運大中
 至正経文緯武仁孝睿智
 端倹寛勤景皇帝
 姓名は
 愛新覚羅載湉
 1875年 - 1908年
 年号 光緒
 醇親王奕譞の第2子
 道光帝の孫
 同治帝の従弟 (憲宗)
 ↓
 憲宗
 諡号は
 (配天同運法古紹統粹文敬孚
 ?睿正穆體
 仁立孝襄皇帝)
 恭宗
 諡号は
 (配天同運法古紹統粹文
 敬孚?睿正穆體仁
 立孝愍皇帝)
 姓名は
 愛新覚羅溥儀
 1908年 - 1912年
 年号 宣統
 醇親王載灃の長子
 道光帝の曾孫
 光緒帝の甥
ーー↑
 清国
 清朝(しんちょう)、
 清国(しんこく)
 1636年に満洲において建国
 1644年~1912年まで
 中国とモンゴルを支配
 首都は盛京(瀋陽)、後に北京
 満洲族の
 愛新覚羅(アイシンギョロ)氏
 が建国
 満洲語でDaicing gurun.png
 ラテン文字転写でDaicing gurun
 カタカナ転写でダイチン・グルン
 漢語訳で大清国
 中国語では大清(カタカナ転写ダーチン)と号した。
 国号の説
 1.漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。
 2.五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」を表す「氵」と、『周礼』で東(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進出の意味を込めたというもの

 17世紀初頭に明の支配下で、
 満洲の女直(女真族)の統一を進めた
 ヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、
 1616年に明から独立して建国した
 後金国が清の前身
 後金国の建国と前後して、
 ヌルハチは
 満洲文字(無圏点文字)を制定
 八旗制を創始
 1619年
 ヌルハチがサルフの戦いで明軍を撃破
 後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶ
 その子の
 ホンタイジ(皇太 極、太宗)は
 山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服
 1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が
 瀋陽に集まり大会議を開き、
 「元」の末裔である
 モンゴルの
 リンダン・ハーンの遺子から
 「元」の玉璽を譲られ、
 大清皇帝として即位
 女真の民族名を
 満洲に改めた
 順治帝のとき、
 李自成の乱によって明が滅ぶ
 清は明の遺臣で山海関の守将であった
 呉三桂の要請に応じ、
 万里の長城を越えて李自成を破った。
 1644年
 首都を北京に遷し、中国支配を開始
 中国南部には
 明の残党勢力(南明)が興り、
 鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗
 清は、初め
 摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、
 のち成長した
 順治帝の親政によって、
 中国南部を平定し
 明の制度を取り入れて国制を整備
 明の制度を存続
 順治帝に続く、
 康熙帝
 雍正帝
 乾隆帝
 の3代に最盛期
 康熙帝は、
 三藩の乱を鎮圧し、
 鄭氏の降伏を受け入れて
 台湾を併合し福建省に編入、
 清の中国支配を確立
 ロシアとネルチンスク条約を結んで
 東北部の国境を確定
 北モンゴルを服属させ、
 チベットを保護下に入れた。
 新疆を根拠地として
 オイラト系の
 ジュンガル(準噶爾)部が勃興していたが、
 康熙帝は北モンゴルに侵入した
 ジュンガル部の
 ガルダンを破った
 のち
 乾隆帝はジュンガル部を滅ぼし
 バルハシ湖にまでおよぶ
 東トルキスタンを支配。
 黒竜江から新疆、チベットに及ぶ
 現代の中国の領土がほぼ確定。
 イギリス商人
 18世紀末に西欧の
 対中国貿易競争に勝ち残って、
 開港地
 広州で茶貿易を推進
 1784年
 アメリカの商船
 エンプレス・オブ・チャイナ号が
 広州で米清貿易を開始
 イギリスは
 インドの植民地で栽培した
 麻薬アヘンを中国に輸出することで
 三角貿易を成立
 清は
 1796年にアヘンの輸入を禁止
 1839年
 林則徐を
 欽差大臣に任命
 アヘン密貿易の取り締まりを強化
 1840年
 イギリスは清国沿岸に侵攻し
 アヘン戦争を始めた
 清軍が敗北し、
 1842年イギリスと不平等な
 南京条約
 (付随する
  虎門寨追加条約、
  五口通商章程)を締結
 香港島の割譲
 上海ら港の開港
 領事裁判権の承認
 関税自主権の喪失
 1844年
 フランスと
 黄埔条約
 アメリカと
 望厦条約を締結
 1857年
 第二次アヘン戦争(アロー戦争)
 1858年
 アヘンの輸入公認
 公使の北京駐在
 キリスト教布教の承認
 内地河川の航行の承認・賠償
 「夷」字不使用などを認めさせる
 天津条約を締結
 ロシアと
 アイグン条約(1858年)で
 黒竜江将軍管轄区と
 吉林将軍管轄区のうち
 アムール川左岸を、
 北京条約(1860年)で
 吉林将軍管轄区のうち
 ウスリー川右岸を割譲
 太平天国の乱(1851年 - 1864年)
 捻軍の反乱(1853年 - 1868年)
 ムスリム(回族)による
 パンゼーの乱(1856年 - 1873年)
 回民蜂起(1862年 - 1877年)
 ミャオ族による
 咸同起義
 穆彰阿の「穆党」の中から
 曾国藩が
 李鴻章や
 左宗棠と
 湘軍を率いて鎮圧
 1851年
 同治帝が即位
 穆彰阿は失脚
 皇母西太后による
 垂簾朝政下で
 曾国藩・李鴻章ら「穆党」の
 漢人官僚が力を得て
 北洋艦隊などの軍閥を形成
 北西部の
 新疆(新疆ウイグル自治区)
 ヤクブ・ベクが
 清朝領内に
 自治権を持つ領主を蜂起させ
 新疆へ侵攻、同地を占領
 ロシアも
 1871年、新疆に派兵し
 イリ地方を占領
 漢人官僚の
 陝甘総督
 左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧
 曾国藩の息子である
 曾紀沢の手によって、
 1881年にはロシアとの間で
 不平等条約の
 イリ条約を締結
 ロシアは
 1892年に
 パミール高原に侵攻し
 サリコル山以西を条約無しで併合
 1854年
 冊封国
 暹羅が朝貢を廃止すると伴に
 不平等条約の
 ボーリング条約を締結
 1872年
 日本の琉球処分
 琉球は、日本に合併
 1884年
 インドシナ半島の植民地化を進める
 フランスと
 清仏戦争(~1885年)
 清仏天津条約
 越南はフランスの植民地
 1886年
 緬甸は
 3度目のイギリス軍の侵略で滅亡
 朝鮮に対しては、内政権を揮い
 壬午事変(1882年)
 甲申政変(1884年)を鎮圧
 1894年
 日本が起こした
 甲午改革では、
 日清戦争( - 1895年)で敗北
 下関条約によって
 福建台湾省割譲
 朝鮮が自主国であることを承認
 1896年~1898年
 満洲からモンゴルをロシア
 長江流域をイギリス
 山東省をドイツ
 広東省・広西省をフランスが勢力圏とし、
 イギリスは
 九龍半島(香港総督管轄)と威海衛、
 フランスが広州湾、
 ドイツが青島(膠州湾租借地)、
 ロシアが旅順と大連(ダーリニー)
 租借地として、海軍基地を築いて
 東アジアの拠点とした。
 ロシアは賄賂をもちい
 露清密約で
 東清鉄道附属地を手に入れた
 アメリカは
 中国市場の門戸開放宣言し
 国際共同租界設置に参加
 康有為・梁啓超らの
 知識人が
 日本の明治維新に倣って、
 清も立憲君主制をとり
 国政の本格的な近代化を目指す
 変法自強運動を唱え始めた
 変法派は
 光緒帝と結んで
 1898年一時的に政権を奪取(戊戌の変法)
 だが、
 西太后率いる
 保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉
 (戊戌の政変)
 西太后は
 愛新覚羅溥儁(保慶帝)を皇帝として擁立
 保慶帝の父が
 義和団の指導者であると
 3日で廃帝
 1900年
 義和団の変
 西太后は列強に宣戦布告
 八カ国連合軍に北京を占領され、
 外国軍隊の北京駐留を認める
 北京議定書を結ばされ
 清の半植民地化は進んだ
 1908年
 欽定憲法大綱を公布して
 憲法発布・議院開設を約束
 1911年5月
 軍機処を廃止して内閣を置いたが
 慶親王内閣が「皇族内閣」と批判
 漢民族の
 孫文らの革命勢力が清朝打倒運動
 10月
 武昌での武装蜂起をきっかけに
 辛亥革命
 1912年1月1日
 中国の南京で
 中華民国が樹立
 宣統帝(溥儀)は
 2月12日、退位
 清は滅亡
 ↓↑
 順治帝は漢文化に傾倒し
 康熙・雍正・乾隆の三世は
 文人皇帝
 三世の皇帝は康熙期の『康熙字典』、乾隆期の『四庫全書』などの文化事業を行った
ーーーー
 ↓
 清水
 ↓
 清水寺(きよみずでら)
 京都府京都市東山区清水にある寺院
 山号を
 音羽山・・・音葉纂(産)?
 本尊は
 千手観音
 開基は
 延鎮・・・・延ばす金の真?
 もとは法相宗に属した
 現在は独立して
 北法相宗大本山を名乗る
 西国三十三所
 観音霊場の
 第十六(16)番札所
 法相宗(南都六宗の一)系の寺院
 平安京遷都以前からの歴史をもつ
 石山寺(滋賀県大津市)、
 長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、
 日本でも有数の
 観音霊場
 清水寺の宗旨
 当初は法相宗で、
 平安時代中期からは
 真言宗を兼宗
 明治時代初期に一時
 真言宗醍醐派に属する
 明治18年(1885年)
 法相宗に復す
 昭和40年(1965年)
 当時の住職
 大西良慶が
 北法相宗を立宗して法相宗から独立
 清水寺の創建
 『群書類従』所収の藤原明衡撰の
 『清水寺縁起』、
 永正17年(1520年)制作の
 『清水寺縁起絵巻』に記録
 その他
 「今昔物語集」
 「扶桑略記」の
 延暦17年(798年)記などにも
 清水寺草創伝承が載せられている
 ↓
 宝亀9年(778年)
 大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた
 賢心(後に延鎮と改名)は、
 夢のお告げで北へ向かい、
 山城国愛宕郡八坂郷の東山、
 今の清水寺の地である音羽山に至った。
 金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、
 千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。
 年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。
 行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、
 行叡が残していった霊木に
 千手観音像を刻み、
 行叡の旧庵に安置した。
 これが清水寺の始まりである・・・
 ↓
 その2年後の
 宝亀11年(780年)、
 鹿を捕えようとして
 音羽山に入り込んだ
 坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、
 修行中の賢心に出会った。
 田村麻呂は妻の
 高子の病気平癒のため、
 薬になる
 鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、
 延鎮より
 殺生の罪を説かれ、
 観音に帰依して
 観音像を祀るために
 自邸を本堂として寄進したという。
 後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。
 延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、
 観音像の脇侍として
 地蔵菩薩と
 毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている・・・
 ↓
 延暦24年(805年)には
 太政官符により
 坂上田村麻呂が寺地を賜り、
 弘仁元年(810年)には
 嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、
 「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。
 『枕草子』は
 「さわがしきもの」の例として
 清水観音の縁日を挙げ、
 『源氏物語』「夕顔」の巻や
 『今昔物語集』にも
 清水観音への言及があるなど、
 平安時代中期には
 観音霊場として著名であった・・・
 清水寺の伽藍は
 康平6年(1063年)の
 火災(扶桑略記に言及)以来、
 近世の
 寛永6年(1629年)の焼失まで、
 記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。
 平安時代以来長らく
 興福寺の支配下にあったことから、
 興福寺と延暦寺のいわゆる
 「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、
 永万元年(1165年)には
 延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡。
 文明元年(1469年)には
 応仁の乱の兵火によって焼失
 再建のために
 時宗僧の
 勧進聖
 願阿弥が迎え入れられた。
 願阿弥は清水寺入寺以前に
 橋や寺堂の再建、救恤といった事業に従事
 その際に率いていた
 勧進集団や要人との人脈をもって
 再興事業に臨んだ。
 願阿弥自身は再興の完遂を見届けることなく世を去ったが、願阿弥の率いた勧進集団は寺内に地歩を築き、
 本願成就院として
 近世にいたる本願の出発点となった
 現在の本堂は
 寛永6年の火災の後、
 寛永10年(1633年)、
 徳川家光の寄進により再建された
 他の諸堂も多くは
 この前後に再建されている。
 ↓
 三職六坊
 豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、
 徳川幕府になってもこの寺領が継承
 近世の清水寺は
 「三職六坊」と呼ばれる組織によって
 維持運営
 「三職」とは
 寺主に当たる「執行」、
 副寺主に当たる「目代」、
 寺の維持管理や門前町の支配などを担当する
 「本願」を指し、
 執行職は宝性院、
 目代職は慈心院、
 本願職は成就院がそれぞれ務めた。
 「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、
 義乗院、
 延命院、
 真乗院、
 智文院、
 光乗院、
 円養院の
 6か院
 宝性院は仁王門北方に現存
 慈心院は本堂のみが
 随求堂(ずいぐどう)として残っている
 成就院は近代の中興の祖である
 大西良慶が住坊とした所で、
 境内北側に位置し、
 現在は
 清水寺本坊となっている。
 「六坊」の6か院はいずれも
 境内南方にまとまって所在したが、
 真乗院は
 織田信長によって廃絶
 以後は
 成就院によって寺籍のみが継がれていた。
 義乗院、智文院、光乗院、円養院も
 廃仏毀釈の時期に廃絶し、
 現在は
 延命院が残るのみである
 本堂
 徳川家光の寄進により
 寛永10年(1633年)に再建され
 「清水の舞台」とも呼ばれる・・・
  ↓
 近代に入り、
 大正3年(1914年)には
 興福寺住職・法相宗管長であった
 大西良慶(1875年 - 1983年)が清水寺の貫主(住職)に就任
 大西は昭和40年(1965年)に法相宗から独立して北法相宗を開宗、初代管長となった。
 大西は昭和58年(1983年)、
 満107歳で没するまで70年近く
 清水寺貫主を務め、
 「中興の祖」と位置づけられている
 ↓
 各地の同名寺院
 日本各地に
 「清水寺(きよみずでら、せいすいじ)」を名乗る寺院が多数あり、中には坂上田村麻呂の開創ないし中興の伝説を有するものもある。
 岩手県花巻市の音羽山清水寺は田村麻呂の開創を伝える。
 長野県山形村の慈眼山清水寺は田村麻呂の中興を伝え、この寺の千手観音像が京都にもたらされて東山の清水寺になったという。
 岐阜県加茂郡富加町の「白華山清水寺」は田村麻呂と延鎮による草創を伝える。
ーーー
 ↓
 清教徒
 ピューリタン(英語:Puritan)は、イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント(カルヴァン派)の大きなグループ。
 市民革命の担い手となった。
 日本語では清教徒と訳
 清潔、潔白などを表す
 Purityに由来する
 (Puritanで厳格な人、潔癖な人を指すこともある)。 もともとは
 バカ正直などの意味で蔑称的に使用
 16世紀から17世紀に
 イングランド国教会の中に
 カルヴァンの影響を受けた
 改革派のピューリタンが勢力
 その中には国教会から分離せずに
 教会内部を改革しようとする者(長老派)と、
 国教会から分離しようとする者(分離派:他の教派との相互聖餐を拒否)、
 その中間に位置する者(独立派(英語版))がいた。
 分離派の中には祖国での弾圧を逃れ、
 1620年、
 メイフラワー号に乗り
 アメリカに移住した者もいる
 (ピルグリム・ファーザーズ)
 清教徒革命
 (ピューリタン革命、
  1642年から議会と国王派の内乱)
 平等派が
 オリバー・クロムウェルの
 ニューモデル軍の母体にもなった。
ーーー
 ↓
 清姫
 安珍・清姫伝説(あんちんきよひめでんせつ)とは、紀州道成寺にまつわる伝説のこと。思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が激怒のあまり蛇に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺す。
 安珍清姫の伝説については、説話として古く平安時代の『大日本国法華験記』(『法華験記』)、『今昔物語集』に現れる。さらに古くは『古事記』の本牟智和気王説話に出雲の肥河における蛇女との婚礼の話がある。内容については伝承によって相違があり、よく知られているものは次のようである。
 安珍・清姫
 時は醍醐天皇の御代、延長6年(928年)夏の頃である。奥州白河より熊野に参詣に来た僧がいた。この僧(安珍)は大変な美形であった。紀伊国牟婁郡(現在の和歌山県田辺市中辺路:熊野街道沿い)真砂の庄司清次の娘(清姫)は宿を借りた安珍を見て一目惚れ、女だてらに夜這いをかけて迫る。安珍は参拝中の身としてはそのように迫られても困る、帰りにはきっと立ち寄るからと騙して、参拝後は立ち寄ることなくさっさと行ってしまった。
 清姫の怒り
 騙されたことを知った清姫は怒り、裸足で追跡、道成寺までの道の途中(上野の里)で追い付く。安珍は再会を喜ぶどころか別人だと嘘に嘘を重ね、更には熊野権現に助けを求め清姫を金縛りにした隙に逃げ出そうとする始末である。ここに至り清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。
 日高川を渡り道成寺に逃げ込んだ安珍を追うものは、火を吹きつつ川を自力で渡る蛇の姿である。渡し守に「追っ手を渡さないでくれ」と頼んでもこれでは無意味であった。よんどころなく、梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む安珍。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、哀れ安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。
 成仏
 蛇道に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである、と法華経の有り難さを讃えて終わる。
伝承内容の相違
 いわゆる安珍清姫伝説の内容はおおよそ以上のようなものであるが、古い文献などが伝える伝承の内容は、これとは相違する点がある。『大日本国法華験記』巻下第百二十九「紀伊国牟婁郡悪女」、『今昔物語集』巻第十四第三「紀伊ノ国道成寺ノ僧写法華救蛇語」では、少女の代わりに若い寡婦が登場する。また、宿泊するのは老若二人の僧である(懸想されるのは若い僧)。若い僧に逃げられた後怒った寡婦は寝所で死に、その寝所から体長五尋の毒蛇が現れ、僧を追って熊野街道を行く。道成寺で僧を焼き殺す点は一致しているが、宿泊した僧が二人とも焼かれる。

 『道成寺縁起絵巻』 では、主人公の女は真砂の清次の娘ではなく「娵」(よめ)である。いずれにせよ安珍・清姫の名はまだ見られず、安珍の名の初出は『元亨釈書』、清姫の名の初出は浄瑠璃『道成寺現在蛇鱗』(寛保2年〈1742年〉初演)とされる。
 真砂の里では別の伝説が行われている。
 大きな相違点を挙げると以下のようになる。
 清姫の母親は実は、男やもめであった父が助けた白蛇の精であった。
 初め安珍は幼い清姫に「将来結婚してあげる」と言っていたが、清姫の蛇身を見て恐れるようになった。
 安珍に逃げられた清姫は絶望し富田川に入水、その怨念が蛇の形をとった。
 蛇にならず、従って安珍も殺さず、清姫が入水して終わる話もある。
 さらに異説としては、清姫は当時鉱山経営者になっており、安珍が清姫から鉱床秘図を借りたまま返さないので、怒った清姫やその鉱山労働者が安珍を追い詰めたという話がある
 安珍と共に鐘を焼かれた道成寺であるが、四百年ほど経った正平14年(1359年)の春、鐘を再興することにした。二度目の鐘が完成した後、女人禁制の鐘供養をしたところ、一人の白拍子(実は清姫の怨霊)が現れて鐘供養を妨害した。白拍子は一瞬にして蛇へ姿を変えて鐘を引きずり降ろし、その中へと消えたのである。清姫の怨霊を恐れた僧たちが一心に祈念したところ、ようやく鐘は鐘楼に上がった。しかし清姫の怨念のためか、新しくできたこの鐘は音が良くない上、付近に災害や疫病が続いたため、山の中へと捨てられた。
 さらに二百年ほど後の天正年間。豊臣秀吉による根来攻め(紀州征伐)が行われた際、秀吉の家臣仙石秀久が山中でこの鐘を見つけ、合戦の合図にこの鐘の音を用い、そのまま京都へ鐘を持ち帰り、清姫の怨念を解くため、顕本法華宗の総本山である妙満寺に鐘を納めた。鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にも「道成寺鐘」と題し、かつて道成寺にあった件の鐘が、石燕の時代には妙満寺に納められていることが述べられている
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 清少納言(せい しょうなごん、康保3年頃(966年頃) - 万寿2年頃(1025年頃))は、平安時代の女流作家、歌人。随筆「枕草子」
 梨壺の五人の一にして著名歌人であった清原元輔(908年 - 990年)の晩年の娘。曽祖父(系譜によっては祖父)は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父。兄弟姉妹に、雅楽頭為成・太宰少監致信・花山院殿上法師戒秀、および藤原理能(道綱母の兄弟)室となった女性がいる。

 「清少納言」は女房名で、「清」は清原姓に由来するとされているが、近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明であり、以下のような推察がなされている。
 女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞説。
 藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説。
 花山院の乳母として名の見える少納言乳母を則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説。
 岸上慎二は、例外的に親族の官職によらず定子によって名づけられた可能性を指摘している。後世の書ではあるが「女房官品」に「侍従、小弁、少納言などは下臈ながら中臈かけたる名なり」とあり、清原氏の当時としては高からぬ地位が反映されているとしている。
 実名は不明で、「諾子(なぎこ)」という説もあるが、実証する一級史料は現存しない。
 中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、42首[7]の小柄な家集『清少納言集』が伝わる。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集[8]。また漢学にも通じた。
 鎌倉時代に書かれた『無名草子』などに、「檜垣の子、清少納言」として母を『後撰和歌集』に見える「檜垣嫗」とする古伝があるが、実証する一級史料は現存しない。檜垣嫗自体が半ば伝説的な人物であるうえ、元輔が檜垣嫗と和歌の贈答をしていたとされるのは最晩年の任国である肥後国においてであり、清少納言を彼女との子であるとするには年代が合わない。
 天延2年(974年)、父・元輔の周防守赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、『枕草子』における船旅の描写は、単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか。この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。

 天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光(965年 - 1028年以後)と結婚し、翌年一子則長(982年 - 1034年)を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、枕草子の記述によれば長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。のち、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた[10]。

 一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。藤原実方(? - 998年)、藤原斉信(967年 - 1035年)、藤原行成(972年 - 1027年)、源宣方(? - 998年)、源経房(969年 - 1023年)との親交が諸資料から窺える。ことに実方との贈答が数多く知られ、恋愛関係が想定される。

 清少納言の名が今日まであまねく知られているのは、残した随筆『枕草子』によるところが大きい。『枕草子』には、「ものはづくし」(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、清少納言が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。

 長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。晩年は亡父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたという(『公任集』『和泉式部集』『赤染衛門集』など)。

 没年は不明。

 紫式部との関係
 清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ
   『紫日記』黒川本
 清少納言と、同時代の『源氏物語』の作者・紫式部とのライバル関係は、後世盛んに喧伝された。しかし、紫式部が中宮彰子に伺候したのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことで、2人は一面識さえないはずである[注釈 1]。紫式部が『紫式部日記』(『紫日記』)で清少納言の人格と業績を全否定するかのごとき筆誅を加えているのに対し、清少納言が『枕草子』で紫式部評を残していない一方的な関係からもこの見方は支持される。
 もっとも、『枕草子』には紫式部の亡夫・藤原宣孝が派手な衣装で御嵩詣を行った逸話や従兄弟・藤原信経を清少納言がやり込めた話が記されており、こうした記述は紫式部の才能を脅威に感じて記したものであるという説も存在する。
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 清水宗治(しみず むねはる、天文6年(1537年) - 天正10年6月4日(1582年6月23日))は、戦国時代の武将。備中国高松城主。通称は長左衛門。三村氏、毛利氏に仕え 天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる(誕生月日は不詳)。幼名は才太郎といった。
 備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに高松城の城主となる。この経緯については諸説あるが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題であった(三村親成など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。また、永禄8年(1565年)に三村氏譜代の石川氏を裏切って高松城を奪取し、直接毛利氏に臣従して城主となったとの説もあるが、当時の毛利氏は備中を三村氏に任せる間接支配の体制を採っていたため、この説は信じ難い(備中方の資料にあたっても挙証に足るものはない)。いずれにせよ、毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。
 天正10年(1582年)、統一政策を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する。秀吉は降伏すれば備中国を与えるという条件を出したが、宗治は応じなかったと言われている。そのため、黒田孝高が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれる。この水攻めの最中の6月2日に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけた。宗治は信長の死を知らぬまま、その2日後に兄の月清入道や家臣2人らとともに水上の舟において切腹した。享年46。
 墓所は山口県光市の清鏡寺にある。

辞世の句[編集]
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」
た。
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 清水貞徳(しみずさだのり 1645-1717)
 江戸時代中期の測量家、清水流測量術の祖。
清水貞徳は、通称を豊吉といった。津軽藩に仕えて、津軽地方の測量に従事し、東奥州の地図を作成した人でもある。
 彼は、樋口権右衛門の流れを汲む、金沢勘右衛門に西洋式測量術を学び、天和 2年(1682)師とともに江戸へ出て、津軽藩の勘定人として登用され、藩領である弘前一円の実測絵図を作成した。
 元禄元年(1688)には、江戸で塾を開き、樋口権右衛門が蘭人カスパルから伝授したと伝えられる、規矩術を整理し清水流といわれる測量術として確立した。その測量方法は、コンパス、分度器、象限儀、間竿、間縄、水準器などの機器を使用し、直角は三、四、五の法を用いた、小地域の地図作成技術である。
 著書には、「図法三部集」(1686)、「規矩元法町見一術」(1706)、「規矩元法別伝」(1709)などがあり、多くの子弟に清水流測量術を伝えた。
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 清水道閑
 生年: 天正7 (1579)
 没年: 慶安1.6.21 (1648.8.9)
 江戸初期の茶匠。茶道石州流清水派の祖。仙台伊達家の茶道役。宗怡,玄斎,渋紙庵,伝習庵などとも号した。京都風呂屋町に住したことから風呂屋道閑ともいう。初め古田織部,のちに小堀遠州に学び,その推挙で伊達政宗の茶頭役となった。出仕に際して遠州が「猿若」と名付けられた茶入を贈ったので,これにちなんで「猿若道閑」とも呼ばれた。清水家では,2代動閑が藩命によって片桐石州に師事したため,以後,石州流をもって代々伊達家に仕えた
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 清水浜臣(しみず はまおみ、安永5年(1776年) - 文政7年閏8月17日(1824年10月9日))は、江戸時代後期の医師、歌人、国学者。通称は玄長。号は泊洦舎、月齋など。姓は藤原。子に清水光房。
 江戸中期の国学者。通称玄長。号は泊洦舎(さざなみのや),月斎。江戸の医師清水道円の長子。15歳で父を失う。古典考究を志して17歳で村田春海の門人
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 清水柳景
 江戸前期の加賀の蒔絵師。江戸の人。一説に元禄1(1688)年没。名は九兵衛。初代の清水右甫は加賀(金沢)藩祖の前田利家より呉服御用を仰せ付けられ,その後2代紹務,3代九兵衛も相次いで藩主利長,利常,光高の用命を受けた。4代九兵衛柳景は,幼少より蒔絵を学び,利常に召されて蒔絵御用を仰せ付けられ,寛文10(1670)年より20人扶持を受けた(『貞享三年八月書上』の由緒書)。作風は細密精緻で技巧を凝らし,基準作の前田家伝来「老松蒔絵硯箱」に「行年八十五清水柳景(花押)」の銘がある。<参考文献>『金沢市史』
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 清水隆慶(1659~1732年)
 江戸時代の仏師。湛海について,その仏像製作を助成したといわれるが明らかでない。湛海の没した1716年(享保1)以後その作品が知られる・・・
 善膩師童子像 江戸時代 (清水 隆慶 作) 像高96.5cm 毘沙門天王、吉祥尊天の御子とされる。 他に、最勝(さいしょう)・独健(どくこん)・那吁(なた)・常見(じょうけん)の童子がいるとされる
 京都国立博物館(京都市東山区)に寄託されている江戸期の木製頭蓋骨が、京都の仏師によって実物と同様の正確さで作られ、はり・きゅうの経穴(けいけつ)(つぼ)が記されていることが、同博物館などの調査で分かった。日本初の西洋解剖書の訳本「解体新書」(1774年)の登場より80年以上も前の木骨で、研究者は「日本の医学史上でも貴重な発見ではないか」としている。
 木骨が収められていた箱書きから1689(元禄2)年の作と判明した。老人の骨がモデルとみられ、骨の合わせ目部分から、口の中、歯までが解剖学的な正確さで緻密に作られていた。表面には63の経穴が開き、「陽」「白」など、それぞれの名称の墨書や刻印があった。経穴は制作後に開けられ、はり・きゅうの学習用に使われたとみられる、現在使われている経穴と一致するものも多かった。
 精密な人形制作でも知られる江戸前期の京仏師・初代清水隆慶(1659~1732年)が手掛け、大きさは実物の3分の2ほどにあたる(京都新聞)
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 清水一学(しみず いちがく、延宝6年(1678年) - 元禄15年12月15日(1703年1月31日))は、江戸時代前期の武士。名は義久(よしひさ)。
 二刀流
 元禄15年(1703年)、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際に討ち死
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 清水次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。
 清水みなとの名物は、お茶の香りと男伊達。 幕末、明治維新にわたり、東海はもとより、その暴れん坊ぶりは全国にその名を轟かせた世紀の大親分、清水の次郎長。広沢虎造の浪曲・・・
  子分は大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」・・・
 弘化4年(1847年)
 江尻大熊の妹「おちょう」を妻に迎え、一家を構える。
 安政5年(1858年)12月
 甲州における出入りにおいて官憲に追われ、逃亡先の名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、安政6年(1859年)には尾張知多亀崎乙川において久六を斬殺・・・
 その後は富士川舟運の権益を巡り甲州博徒と対立し、黒駒勝蔵と抗争を繰り広げる。
 慶応4年(1868年)3月、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より街道警固役を任命され、この役を7月まで務めた。
 同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した。その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねた・・・
 私塾の英語教育を熱心に後援した・・・
 明治19年(1886年)東京大学医学部別課を卒業した植木重敏と横浜から土佐に向かう船上で知り合い、植木重敏と同じ土佐須崎鍛冶町出身の渡辺良三と共に清水へ招聘し、済衆医院を静岡県有渡郡清水町に開設
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 清水 善造(しみず ぜんぞう, 1891年3月25日 - 1977年4月12日)は、群馬県群馬郡箕郷町(現高崎市)出身の男子テニス選手。
 「やわらかなボール」が放たれたのは、1919年ウィンブルドン選手権のオールカマーズ決勝(現在の準決勝)である。対戦相手のチルデンが足を滑らせて転倒、その時にゆっくりとしたボールを返した・・・
 決勝戦で、清水は当時の世界ナンバーワン選手、ビル・チルデン(アメリカ)に 4-6, 4-6, 11-13 の激戦で敗れた・・・
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 ・・・コペピが満杯・・・

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