gooブログはじめました!キリヤ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
コジキジゲン

郢書燕説(エイショエンセツ)・・・英書の袁(長袖)の説・・・袖手傍観

2017-07-16 23:38:29 | 古事記字源

 ・・・「英(エイ)」の漢字「重意(エイ)」、「英国」、「英王」、「英雄」・・・「英國=春秋時代の諸侯国」・・・「英吉利=𠸄咭唎=英吉利西」じゃぁないから混乱する・・・ボク的にはマッタク、音もスペルも「音愚留素の滑る、総べる、總(すべる)、綜(すべる)」の「寅具留蘇(イングルス)」である・・・「文字」に記されるからには、それらの「理由」があるのはアタリマエだろう・・・ましてや、「同じ漢字」なら、なんらかの「共通項」を有するのは尚更ではある、「同じ音の文字」も、そうカモと思うのだが・・・これって、「郢書燕説(エイショエンセツ)」なのか?・・・既知=キチ=吉・危地・窺知・奇知・・・既に「意味のチガイ」を知っている人ならサイワイである、が・・・知っていてもヤクにタタナイときがある・・・曲解、誤解してヤクにタツときもある・・・「違い=チガイ=治外=智(知)害」・・・知っている、ってコトは最大の「不幸」カモ・・・無知は無垢じゃぁないョッ、でもサッ・・・「感知」し、「認識-記憶-思惟-思考」し、「判断」し、蠢いていくモノ、無自覚な部分もあろうが、新陳代謝の「生き物の宿命」である・・・だが、「家畜=カチク=価値句」が己の存在を「自覚」したなら「人間」は殲滅されるに違いない・・・「自覚する羊たち」は「沈黙」しないだろう・・・
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 英=艸+央=はな・はなぶさ
 ↓↑    ひいでる・ひで
       エイ・エ・ヨウ・ケイ
   「エイ=叡・穎の代用字」
 ↓↑ ↓↑    ↓↑
      比叡山・叡智
   ・・・愛知・愛智・英知
      philosophy
      英彦山(ひこさん)は
      福岡県-田川郡-添田町
      と
      大分県-中津市-山国町に
      跨(またが)る山で
      耶馬日田英彦山国定公園の一部
      英山(はなぶさやま)は
      九州・沖縄に存在し
      英山=佐賀県西部
      有田町に聳(そび)える
      岩頭
 ↓↑   英山号の鐘=アポイの鐘は
      1979年10月20日
      北海道様似町平宇沖で座礁し、
     「呉漢虎」船長以下47名の乗組員が
      全員救助された中国貨物船、
      英山号(836トン)の警鐘及び時鐘
      英山号の鐘
      北海道-様似郡-様似町
      日高山脈支稜線西南端に位置
      一等三角点(点名「冬島」)の山
     「アポイ山」の
      地名由来はアイヌ語の
     「アペ・オ・イ(火のあるところ)」
   ・・・阿倍(アベ)は「おい=甥・老い・負」?・・・
 ↓↑    ↓↑   ↓↑
       穎=匕+禾+頁
         ほさき・すぐれる
         かしこい
         エイ
         頴=匕+示+頁
           匕+二+亅+八+頁
           頁=一ノ目八
         穎悟・穎才・穎哲
         穎悟・穎脱
  稲の穂先=穎果
         錐 (きり)、筆など、
         尖(とが)った物の先・尖端
         穎脱・毛穎
         才知が鋭い・穎悟・穎才
 ↓↑     「英」を代用字にする場合がある
 英=艸+央
英才・英断・英雄
育英・俊英
    石英・落英
   =首枷(かせ)を付けられた人?・・・政治犯?
   =光り輝くの象形=真ん中
    光=景=日+亠+口+亅+八
      景行・景行天皇・・・日本建(小碓命)の父
      景保・高橋景保・・・シーボルト事件に連座
      傾向
      経口
      径行
      携行
 ↓↑   蛍光
 英=艸+央
英國=春秋時代の諸侯国
 ↓↑ =周代に存在した諸侯国
    皋陶(コウヨウ)=帝堯、帝舜の時、
              公平な裁判をおこなった人物
司法官吏(司空・司寇)
     の後裔によって樹立
春秋時代に
楚の付庸国
後、
楚の
     成王(熊惲=ユウキ)
     によって滅ぼされた
史記・十二諸侯年表
楚の成王
     熊惲(ユウキ)=成王(?~紀元前626年10月20日)
 ↓↑ ↓↑  春秋時代の楚の王
        姓は羋、氏は熊
        諱は惲、or頵
        紀元前672年
        兄の荘敖に殺害殺害されそうになり
       「隨」に亡命し、隨の国人の援助で
    ↓↑  荘敖を襲撃して殺害し、楚王に即位

成王26年
     楚国は
英国、及び
 ↓↑  六国を滅ぼしたと記載・・・「六英を滅」
  瑛=王+英
    玉の光・水晶玉
    美瑛・玉瑛
 ↓↑
 英=艸+央
 「はな(花)・実のならない花
  英華」
 「はなぶさ(花房)・藤(フジ)の花
  花が群がり垂れて咲く花」
 「はなしべ(蕊・蘂・蕋)
  雄しべと雌しべ)」
    ・・・占部・志部・士別
 「花びら(瓣・花弁・落英)
 「美しい=英英」
 「優れている・秀でている・優れた人物」
  ・・・英才・英雄
 「ほまれ(名誉)・優れた評価」
  ・・・英華
 「芽・芽生え」
 「英吉利(イギリス)」
  ・・・英語・英国
  ・・・「和英。和英」辞典
[f:id:naie:20170716091850j:image]
 「国君の姓、偃姓・国都は安徽省-六安西南湖北省-英山県・始の封國者は不詳」・・・じゃぁ、「韓国」は・・・
ーーーーー
 韓室の祖先
 春秋時代の
 晋の公族
 穆侯の子
 桓叔の諸子の
 韓万(韓武子)・・・韓萬(満・曼・瞞)
 が
 韓原の地(陝西省韓城市)
 に封じられた
 姫姓
 を姓とする
 韓武子・・・・・・「韓の武の子」?
 の一族が
 韓氏を称すのは
 領地名に因んだもので
 これ以前にも
 同名の
 「韓」という国があった
 (周王朝系の韓 (西周))
 こちらも
 「韓原を地盤」としていた
 ↓↑
 紀元前620年
 韓万の
 玄孫
 韓厥(カンケツ)・・・簡潔な人物?
 が司馬に登用
 趙氏の再興に尽力し
 紀元前573年
 韓厥
 が
 正卿・中軍の将になった
 ↓↑
 紀元前541年
 子の
 韓起も正卿となり
 韓氏は政治を司る
 六家(六卿)の一つとなった
 春秋末期
 韓虎(カンコ)が・・・韓のトラ(訳等)
 趙氏・魏氏などと共に
 智氏を
 紀元前453年
 に滅ぼし
 魏・趙と共に
 晋の領地を
 三分割して独立・・・三分割の時代は朝鮮半島にもあった
           三韓時代(馬韓・弁韓・辰韓)
          「韓有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韩
           ・・・凡七十八国・・・皆古之-辰国也」
           高句麗・百済・新羅
 紀元前403年
 周の王室から
 正式に諸侯として認められた
 ↓↑
 紀元前375年
 鄭を滅ぼしたが
 韓は
 七雄の中では最弱で
 西の
 秦からの侵攻に怯えていた
 ↓↑
 申不害(? - 紀元前337年)・・・申す(猿)、我意ではない?
 を宰相に抜擢した
 釐侯の治世は
 国内も安定し、最盛期を築けた
 次代
 宣恵王が
 紀元前323年
 初めて王を名乗ったが
 申不害
 の死後は再び
 秦の侵攻に悩まされた
 公子の
 韓非
 は国を強くする方法を
 『韓非子』・・・法家である韓非の著書
 ↓↑      法治による権力の扱い方、保持
         君主の権力を法によって
 ↓↑      一元化、体系化する思想
 に著述
 韓非子の成語
 矛盾
 想像(群盲、象を撫でる)
 功詐不如拙誠・・・巧詐は拙誠に如かず
          コウサはセッセイにシカず
          巧みに詐る(詐称)ことは
          拙(まず)くとも
          誠実であることには及ばない・・・?
 守株・・・・・・・待ちぼうけ、コロリ転げた木の根っ子
 逆鱗
 箕子の憂い・・・小さな動向を見て大局を見ることができる
 ↓↑     「象箸玉杯」
        「キシのウレイ」は
        「岸(吉師)の憂い」だったのか?
        「岸舞い」は「阿倍」の管轄?
 ↓↑   ・・・吉志舞(キシまい)=大嘗祭などで
     安倍氏の当主等が監督し、闕腋袍(ケッテキのホウ)等、
     主に武官の服装で、踊られた舞楽
     吉師舞、吉士舞等とも表記
     舞い方自体は伝承されていない
 ↓↑  楯節舞(たてふしまい・楯伏舞・楯臥舞)等とも表記
 郢書燕説(エイショエンセツ)
 ↓↑  「辻褄の合わないことに
      もっともらしい理由をつけること」
      という意
      楚の国都である郢(エイ)の人が
      燕国の大臣に宛てようと
      手紙を口述筆記させていた最中
      暗いので
     「明かりを掲げよ」と書記に命じたところ
      手紙の記述内容だと誤解し
     「明かりを掲げよ(挙燭)」と誤記し
      手紙を貰った「燕国の家臣」は
     「挙燭=賢人の重用」と解釈
      韓非は
     「古典の中で分からないことが出てきた時
      自分なりに解釈しようとするが
 ↓↑   それが作者の意に沿ったものとなるとは限らない」と
 唯々諾々=いイだくダク→epigone=エピゴーネン
 ↓↑  =追従者・追随(隋)者
     =逆らわずに他人の言いなりになるさま
      主君の意向に先回りし
      様子や顔色をうかがって
      主君の心に先回りしようとする者たち
     「忖度(ソンタク)」する者たち?
 ↓↑  「ワルイ親」に「イイ子」として従うと・・・?
 韓非の言説は
 母国では受け入れられず
 秦の始皇帝により実行され
 韓は滅ぼされた
 ↓↑
 韓は
 鄭国(人物名)を送って
 ↓↑・・鄭=奠+阝
     鄭(ねんごろ・テイ)
     鄭重・丁寧・周代の国名
     鄭声
     鄭衛桑間=殷の紂王の淫靡な音楽?
     鄭衛之音=鄭衛の音→鄭も衛もユダヤ人の音(立日)?
     鄭衛之声=鄭衛の声→鄭も衛もユダヤ人の
               歎きの声(十一巴→拾壱巴)?
     殷=バビロン?・・・・・・・葉(罵)備賂務?
     紂王=ネブカドネザル?・・・音部掛度音作留?
 ↓↑  ユダヤ=猶太の國?
       猶=犭+八+酉
       猶(なお)・猶子(ユウシ)・猶予(ユウヨ)
       奠=酋+大(一人)→乞巧奠(キッコウデン)=七夕
尊=酋+寸→みこと
       遵=酋+辶→遵法
       酋=八+酉
 ↓↑      酋長=シュウチョウ=周長
 秦に灌漑事業を行わせ
 秦の国力を疲弊させようとしたが
 発覚
 この工事で作られた水路が
 鄭国渠と呼ばれ
 中国古代3大水利施設の一つとなり
 秦は疲弊ではなく豊かにさせた
 紀元前230年
 韓の
 首都
 新鄭を失陥
 六国の中で最も早く滅亡
 ↓↑
 秦は
 潁川郡(エイセングン)・・・英撰具務(組)?
 と呼び
 改め統治下に置いた
 ↓↑
 紀元前226年
 旧都
 新鄭で起きた
 秦への反乱は鎮圧され
 韓王安・・・桓恵王の子
 は処刑
 ↓↑
 劉邦の配下
 張良は
 韓の宰相の家柄・・・
 生国である
 韓を滅ぼされた恨みから
 始皇帝暗殺を企て失敗
 後に
 秦末の動乱から
 楚漢戦争期に
 張良は
 韓の旧王族から
 韓王成
 韓王信
 を擁立
 ↓↑
 武子(韓万)
 賕伯
 定伯(韓簡)
 韓子輿(韓輿)
 献子(韓厥)
 宣子(韓起)
 貞子(韓須)
 簡子(韓不信)
 荘子(韓庚)
 康子(韓虎)
 ↓↑
 武子(韓啓章)
 (紀元前424年~紀元前409年)
 景侯(韓虔)
 (紀元前408年~紀元前400年)
 烈侯(韓取)
 (紀元前399年~紀元前387年)
 文侯(韓猷)
 (紀元前386年~紀元前377年)
 哀侯(韓屯蒙)
 (紀元前376年~紀元前374年)
 共侯(懿侯、韓若山)
 (紀元前374年~紀元前363年)
 釐侯(昭侯、韓武)
 (紀元前362年~紀元前333年)
 宣恵王(威侯、韓康)
 (紀元前332年~紀元前312年)
 襄王(韓倉)
 (紀元前311年~紀元前296年)
 釐王(韓咎)
 (紀元前295年~紀元前273年)
 桓恵王(韓然)
 (紀元前272年~紀元前239年)
 王安(韓安)
 (紀元前238年~紀元前230年)
ーー↓↑ーー
 ・・・突然ですが、「唐、武周」に跳ぶ・・・「Korea」でない「韓国夫人」の「韓国」とはナニか、を知りたいがため?の前文・・・モチロン、「the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」ではない「英国」も・・・
 ↓↑
 武則天は
 姪の
 魏国夫人
 が
 高宗の寵愛を得ていること嫉妬し
 高宗が泰山での封禅を終え
 長安に戻ったことを利用し
 武則天は
 魏国夫人を毒殺
 ↓↑
 690年
 武后は
 睿宗から
 皇帝位を禅譲され
 周王朝を起こした
 「武周」革命・・・
 ↓↑
 690年
 干支=庚寅
 日本
 持統天皇四年
 ↓↑
 中国
 唐=載初元年
 武周=天授元年
 在位期間
 690年10月16日~705年2月22日
 武則天が帝位
 国号を周とし
 聖神皇帝と称する
 ↓↑
 日本
 1月23日
 持統天皇3年12月8日
 持統天皇、双六を禁止
 2月14日
 持統天皇4年1月1日)
 天武天皇の崩御後
 鸕野皇女が即位し
 第41代天皇
 持統天皇となる 
 ↓↑
 中国
 神龍元年(705年)二月
 日本
 慶雲二年
 ↓↑
 遣新羅使帰還(大使は幡文通)・・・播磨の文通
 新羅貢調使来朝(大使は金儒吉・・・金の儒教は吉
         副使は金今古)・・金の古今(集)→金槐集?
                  金槐和歌集
                  源実朝の家集(歌集)
              建暦三年(1213年)十二月十八日頃
 令外官として中納言を新設
 ↓↑
 武周
 705年・神龍元年二月
 病床に臥せがちであった
 武則天に対して
 宰相の
 張柬之(チョウカンシ)・・・・鳥瞰視?
 が退位を迫り
 再び
 李氏唐朝
 になった
 (神龍革命・705年2月22日)
 705年12月16日?
 (神龍元年11月26日)
 武則天(則天武后) (624年2月17日)623年?~
 則天武后は
 権力を奪われたが
 殺されず
 死後は
 遺言通り
 夫である
 高宗の横に葬られた
 ↓↑
 顕慶四年(660年)
 皇帝を天皇
 皇后を天后
 とした
ーー↓↑ーー
 太平公主(タイヘイコウシュ)
 麟徳二年(665年?~713年)
 唐の皇帝
 高宗の末の娘
 母は武則天(則天武后)
 ↓↑
 八歳
 太平の号を授けられた
 ↓↑
 681年
 薛紹(城陽公主の息子で従兄弟)
 に嫁して二男二女を生むが
 夫が
 李沖
 の謀叛に連座し獄死
 690年
 武攸曁
 に嫁いで
 二男二女を生んだ
 ↓↑
 太平公主は
 母の武則天が
 垂簾政治を執り始めると、
 武則天政権の一翼を担う
 690年
 母の
 則天武后
 皇帝に即位
 武周王朝を建国し
 太平公主
 も隠然たる勢力を持っ
 母が病に倒れた後
 その愛人であった
 張易之
 張昌宗
 兄弟が専横していたが
 705年
 太平公主は
 張兄弟を倒し
 兄の
 中宗を即位させた
 宰相
 張柬之
 により
 武則天は退位(705年2月22日)
 唐王朝に復帰
 張兄弟
 と組んでいた従兄弟の
 武三思
 が
 張柬之
 を失脚させ
 安楽公主(中宗と韋皇后の娘)
 と結び
 701年
 不倫の暴露を恐れた
 安楽公主
 が
 韋后
 と組んで
 中宗を毒殺
 ↓↑
 韋后
 が
 温王
 李重茂(殤帝)
 を擁立し傀儡としたのを危ぶみ
 太平公主は
 甥の
 李隆基(玄宗)と謀り
 韋后
 安楽公主
 その一族を誅殺
 隆基
 の父の
 相王李旦(睿宗、太平公主の同母兄)
 を即位させた
 ↓↑
 皇妹としての
 太平公主
 の権勢は
 宰相の
 姚崇
 張説
 を左遷させるなど専権
 次第に
 皇太子
 隆基(玄宗)と対立
 ↓↑
 712年
 睿宗
 が皇太子
 隆基
 に譲位
 皇帝(玄宗)
 と
 太平公主の対立が激化
 公主は
 玄宗の廃立を図るが
 陰謀が露顕
 713年
 皇帝自ら兵300余を率いて
 太平公主一派を倒し
 公主に死を賜った
 以後
 玄宗の独裁体制が確立
 「開元の治」
 と呼ばれる
 唐朝の最盛期へ
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 韋皇后(イコウゴウ)
 ?~唐隆元年六月二十日(710年7月21日)
 唐の
 中宗の皇后
 韋玄貞の娘
 京兆万年(陝西省西安)出身
 韋后とも呼ばれる
 ↓↑
 神龍元年(705年)
 武則天より譲位され
 中宗が復位
 武三思
 らと結託し、
 従兄の
 韋温
 とともに朝政を掌握
 景雲四年(710年)
 自らの即位を意図し
 娘の
 安楽公主
 とともに
 中宗を毒殺
 温王
 李重茂(殤帝)
 を皇帝に擁立したが
 李隆基(玄宗)
 が政変を起こし
 彼の父である
 相王
 李旦(睿宗)
 が復位
 韋后は殺害され、
 身分も庶人に落とされた
 ↓↑ ↓↑
 韋后の
 子女
 男子
 李重潤(太子)
 女子
 長寧公主
 永寿公主
 李仙螵(永泰公主)
 李裹児(安楽公主)
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 韋貴妃(イキヒ)
 597年~665年9月28日
 唐の太宗
 李世民の妃
 名は珪
 字は沢
 本貫は
 京兆杜陵
 紀王
 李慎
 や
 臨川公主
 を産み
 紀国太妃・・・・紀国の太の妃?
 に立てられた
 ↓↑
 韋貴妃は
 韋円成
 の娘として生まれ
 北周の
 太傅
 韋孝寛
 の曾孫
 前の夫は
 李萊
 良家の娘として選出され
 李世民の妃
 627年4月1日
 貴妃に冊立
 650年1月29日
 紀国太妃
 に立てられ
 665年
 河南の
 敦行里
 の邸で死亡
 666年12月29日
 昭陵に陪葬
 ↓↑
 中宗
 唐の
 第4代・第6代皇帝
 諱は顕
 高宗の七男
 周王に封じられ
 後に
 「英王」・・・・・・「英王」とは何か?
 に改封
 ↓↑
 同母兄である
 李弘
 の急死
 李賢
 の廃立の後、
 代わって立太子され
 高宗の崩御により即位
 ↓↑
 即位後
 生母の
 武則天
 に対抗すべく
 韋皇后
 の外戚
 韋后の父である
 韋玄貞(元貞)
 を
 侍中に任用するつもりが
 武則天が信任する
 裴炎
 の反対に遭い
 中宗
 は怒りの余り、
 希望すれば
 韋元貞
 に天下を与えることも可能であると発言
 この発言で
 即位後54日で廃位
 湖北に流された
 ↓↑
 代わって
 同母弟の
 李旦(睿宗)が即位
 690年
 睿宗を廃立し
 母親の
 武則天が自ら即位
 武周時代となった
 ↓↑
 699年
 李顕は
 武則天により
 再び立太子され
 705年
 武則天は
 李顕
 に譲位
 唐の国号を復活
 ↓↑
 中宗(李顕)は
 韋后を信任し
 朝政に参加させ
 その父を王に封じ
 韋后との間にもうけた
 安楽公主
 も朝政に参加させ
 安楽公主
 は自ら
 皇太女
 皇帝
 となることを狙い
 韋后も
 武則天に倣い
 帝位を求めた・・・
 ↓↑
 710年
 韋后の淫乱な行為が告発され
 韋后は追及を恐れ
 安楽公主
 と共に
 中宗(李顕)を毒殺
 末子
 重茂(殤帝)
 を擁立
 ↓↑
 1ヵ月後
 李旦(睿宗)の息子
 李隆基(玄宗)
 に
 韋后
 と
 安楽公主
 は殺害され
 殤帝
 は廃位
 中宗は定陵に埋葬
 ↓↑ ↓↑
 后妃
 ↓↑
 和思趙皇后・・・和を思い、趙の皇后
 韋皇后・・・・・韋(イ)→葦(あし・よし)=蘆?
 ↓↑
 貴妃楊氏
 淑妃于氏
 徳妃于氏
 昭容上官婉児
 昭儀陳氏
 充儀閻氏
 充容陸氏
 修儀崔氏
 ↓↑
 男子
 譙王 李重福
 懿徳太子 李重潤・・・懿徳=日本の第四代天皇
            和風諡号
            大日本彦耜友・・・彦=亠八厂彡
(おおやまとひこすきとも)
大倭日子鉏友
 節愍太子 李重俊・・・・・・愍=民攵心=あわれむ・ミン・ビン
 北海王 李重茂(殤帝)・・・北海王・・・北海道?
 ↓↑
 女子
 新都公主
 宜城公主
 定安公主
 長寧公主
 永寿公主
 永泰公主 李仙螵
 安楽公主 李裹児
 成安公主 李季姜
ーー↓↑ーー↓↑
 韋貴妃
 阿史那忠墓誌(阿史那貞公墓誌)・・・阿史那の忠?
               突厥族(匈奴の別種)
 によると
 陳州
 刺史
 円成の娘
 韋孝寛
 の孫
 隋の戸部尚書
 李子雄
 の子の
 李萊
 にとつぎ
 娘ひとり
 (定襄県主、阿史那忠の夫人)・・・阿史那の忠?
              突厥族(匈奴の別種)
 を産んでいる
 韋貴妃は再婚者であった
ーー↓↑ーー
 安楽公主
 嗣聖元年(684年)
  ~
 唐
 隆元年六月二十日
 (710年7月21日)
 唐の
 中宗の娘
 母は
 韋皇后
 本名
 李裹児・・・李の裹(うら・リ)の児(こ・ジ)
 ↓↑    出生時に
       中宗が自らの衣服を脱いで
       安楽公主を包んだことより
 ↓↑    命名
 聡明で美人
 韋后より寵愛され
 成年後
 武三思・・・武の三の思?→武の纂(簒)を思考、思惟、思索
 の子
 武崇訓・・・武の崇の訓?→タケルをウヤマウ、タタル?
 に下嫁
 武崇訓
 の死後
 安楽公主
 は
 武延秀・・・武を延(のば)し秀(ひいでる・比意出留)?
 と私通
 後に
 武延秀へと嫁ぐ
 自らを
 皇太女に封じようと計画
 魏元忠・・・魏(ギ)の元(もと)に忠(ただし)=中+心
 の諫言により中止
 生活は奢侈
 武崇訓
 との間にもうけた息子を数歳にして
 太常卿・・・太(おほの)常(ところ・つね)の卿
 鎬国公・・・鎬(しのぎ・なべ・コウ)国の公
 に封じ、
 姉の
 長寧公主
 定安公主
 と共に
 民間の子女を攫(さら)い
 奴婢にした
 これを知った
 左台侍御史
 袁従一・・・袁(ながそで)に従(したが)う一(はじめ)
       袁=長衣
 は
 安楽公主の逮捕を計画するが
 中宗の詔勅に阻まれ、不問に付された
 ↓↑
 安楽公主
 は
 韋后
 と共謀し
 中宗
 の殺害と
 唐朝の簒奪を計画
 710年
 中宗が両者により毒殺され
 臨淄王
 李隆基(玄宗)
 が兵を挙げて
 韋后を殺害
 逃亡した
 安楽公主も殺害
 それぞれ
 韋庶人、悖逆庶人
 と
 庶人に落とされた
 ↓↑
 高祖 618–626・太宗 626–649
 ↓↑
 高宗 650–683
 韓国夫人
 武順(武則天の姉妹)
 魏国夫人
 賀蘭氏(武順の娘)
 ↓↑
 中宗 684・睿宗 684–690
 中宗 (復辟) 705–710・殤帝 710
 睿宗 (復辟) 710–712
 ↓↑
 玄宗 712–756
 蜀州司戸の
 楊玄淡の娘たち
 楊貴妃(玉環)の姉妹
 韓国夫人
 虢国夫人(二女)
 秦国夫人(三女)
 ↓↑
 粛宗 756–762
 代宗 762–779
 徳宗 780–805
 順宗 805
 憲宗 806–820
 穆宗 821–824
 敬宗 825–826
 文宗 826–840
 ↓↑
 武宗 840–846
 ↓↑
 宣宗 846–859
 懿宗 859–873
 僖宗 873–888
 昭宗 888–904
  (徳王 900–901)
 哀帝 904–907
 ↓↑ ↓↑
 爵位
 制度?
 該当、類似
 ↓↑
 婦(女性の爵位で巫女的な存在
   最高位だったが周代では格下げ
   士階層の配偶女性をさす言葉になった)=婦好
 子(王族の王子の意・婦に次ぐ高位の都市の領主
   周代には格下げ
   都市共同体の大夫階層をさした)=微子啓・孔子
 公(周代、侯の中の特別に格付けされた
   公と侯の字は当時も発音が同じ)=周公旦・召公奭
 侯(都市国家の首長)
 伯(殷代、王権の親衛隊的存在だった
   周では都市国家に従属する小都市の長)=西伯昌・伯邑考
 叔(諸侯の兄弟の意
   周代の都市国家に従属する小都市や村の長)=蔡叔度・唐叔虞
 亜(亜の字は王を取り囲む者の意
   殷王の親衛隊的存在・周王朝には無い)
 男(殷の下層首長を管理する徴税官的存在
   周では都市共同体の大夫階層)
 田(殷代、下層の首長層・周王朝には存在せず)
 方(邦の語源
    殷代には
    外国の王や異民族の首長
   『周礼』における子爵)
 の存在が知られている・・・
 ↓↑
 秦・漢の爵位
 秦では
 商鞅の第一次変法
 軍功褒賞制
 と
 爵位制
 が設けられ、
 二十等爵制として
 軍功により
 爵位を与えた
 爵位により
 土地の保有量
 奴婢数
 など生活水準が決められていた
 ↓↑
 前漢
 秦の軍功爵制を改め
 軍功に限らず
 身分に応じて
 軍功爵の爵位を与えた
 二十等爵の他に
 王爵を設け
 次第に皇族に限られることとなった
 爵位を持つ者は
 土地の保有を許可された
 ↓↑
 二十等爵
 第二十級の
 徹侯(後に武帝の避諱から通侯・列侯と呼ばれた)
 を筆頭に
 第十九級の
 関内侯
 第十八級
 の
 大庶長
 第十七級
 の
 駟車庶長
 第十六級
 の
 大上造
 と続き以下
 少上造、右更、中更、左更、右庶長、左庶長、五大夫
 と続いた
 ここまでが
 官爵であり
 十二等爵ともいい
 官吏に与えられた
 第八級の公乗以下、
 公大夫、官大夫、大夫、不更、簪裊、上造、公士
 までを
 民爵といい民に与えられた
 これらの上に
 諸侯王
 天子が君臨することから実質的には
 二十二等爵
 ↓↑
 漢武帝
 軍事費調達のために
 売爵が行われ爵位の価値が低くなった
 軍功による爵位として
 別に
 武功爵が設定
 第十一級の軍衛を筆頭に
 第十級の政戻庶長、
 第九級の執戎、
 第八級の楽卿と続き以下
 千夫、秉鐸、官首、元戎士、良士、輭輿衛、造士
 これらの武功爵も後に売爵の対象となった
 ↓↑
 後漢代に入ると
 爵位の価値は更に軽くなり
 列侯、関内侯のみが爵とされ
 列侯はさらに
 県侯、郷侯、亭侯
 などに細分された
 ↓↑
 魏晋南北朝の爵位
 曹魏に至ると
 秦漢以来の十二等爵を廃止
 儒教経典の
 公・侯・伯・子・男
 擬古的に復活
 文帝の
 黄初年間に
 王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯
 関内侯の九等の爵制
 222年(黄初三年)
 皇子を王に封じ
 王子を郷公に封じ
 王世子の子を郷侯に封じ
 公子を亭伯に封じていた
 224年(黄初五年)
 諸王の爵位が皆
 県王に改められ
 明帝の
 232年(太和六年)
 再調整されて
 郡王となった
 以上の九等の外に
 庶民や兵士に対しての賜爵もあり
 関内侯の下には
 名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯
 が創立
 ↓↑
 晋の
 武帝の
 275年(咸寧三年)
 王・公・侯・伯・子・男
 開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯
 開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯
 の爵制が定められた
 皇子でない者には王は封じらず
 宗室には
 公・侯・伯・子・男
 (郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)
 があり
 功臣には
 開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯
 開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯
 等があり、亭侯以上には封邑が与えられた
 五等爵の上に
 「開国」の2字を加えるのは
 西晋では少なかったが
 東晋になると多く用いられ
 常に古来からの五等爵と混称
 魏晋時代以降は
 民爵については有名無実化
 皇帝を頂点とした皇族と功臣の
 爵位制度となっていった
 ↓↑
 南朝の梁
 魏晋代に倣った爵制を定め
 陳では
 郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公
 侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯
 関中関外侯の十二等があった
 ↓↑
 北魏の
 道武帝の
 396年(皇始元年)
 五等爵が定められ
 404年(天賜元年)に
 五等から
 王・公・侯・子
 の四等に減らされ
 王は大郡
 公は小郡
 侯は大県
 子は小県
 が与えられた
 その後、再び
 伯・男
 の二等が加えられ
 皇子と功臣には
 王
 が封ぜられた
 500年(景明元年)
 王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯
 子・散子・男・散男
 の十一等の爵制が定められた
 ↓↑
 北斉では
 王・公・侯・伯・子・男
 の六等に分けられ
 ↓↑ ↓↑
 隋・唐・宋・遼・金・元
 の爵位
 隋の
 文帝の開皇年間に
 国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男
 の九等爵が設けられた
 ただし
 「国王」については
 従属国・朝貢貿易
 の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ
 君主が臣下に与える爵位とは異なる
 他文献には
 郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡
 県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯
 郷侯・亭侯・関中・関外侯
 なども見られる
 ↓↑
 中国の爵位は隋代以降基本的には
 王・公・侯・伯・子・男
 唐・宋代に完成
 金・元
 を経て、徐々に簡素化し
 明代には
 殷や周のころのように
 五等や三等であった
 清代も基本的に
 五等爵を基本とし
 等級を設けていた
 ↓↑
 外命婦の封号(女性の爵位)
 女性に与えられる爵位に順ずる封号
 基本的に
 皇族女子や夫・子によって授けられた
 ↓↑
 唐代
 皇伯叔母に
 大長公主
 皇姉妹には
 長公主
 皇女には
 公主
 皇太子の娘には
 郡主
 王の娘には
 県主
 王の母や妻には
 妃が授けられた
 皇室以外では
 夫や子の品階や爵位によって授けられた
 一品
 および
 国公
 の母・妻には
 国夫人・・・・
 三品以上
 の母・妻には
 郡夫人
 四品以上
 の母・妻には
 郡君
 五品以上
 の母・妻には
 県君
 散官
 や
 同職事には
 郷君
 がそれぞれ封ぜられた
 ↓↑
 宋代
 当初は
 唐とほぼ同様の制度
 公主から帝姫に
 一時期変更されていた
 郡君を
 淑人・碩人・令人・恭人
 県君を
 室人(後更に宜人)・安人・孺人
 に分けるようになった
 ↓↑
 明代
 公の母・妻は
 国夫人
 侯の母・妻は
 侯夫人
 伯の母・妻は
 伯夫人
 が授けられた
 一品は
 夫人が授けられていたが
 後には
 一品夫人と呼ぶようになった
 二品は夫人
 三品は淑人
 四品は恭人
 五品は宜人
 六品は安人
 七品は孺人
 がそれぞれ授けられた
 ↓↑
 母・祖母
 などには
 「太」
 の字が加えられた
 国太夫人
 郡太君
 伯太夫人
 など
 皇太后・太皇太后
 などの用例と同じもの・・・
ーーーーー
 随分と検索して添付したが・・・だから、ナニかワカったかな・・・「韓非子」の「郢書燕説(エイショエンセツ)」・・・???・・・

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 認識、思考、思惟する存在・... | トップ | 「大(一人)の國の主(ある... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

古事記字源」カテゴリの最新記事