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コジキジゲン

ミカサのヤマ・・・諏得字葉務・・・掛素臥ナル・・・

2017-04-19 22:11:46 | 古事記字源

 ・・・昨日(4/18)のTVの「15:00・緊急取調室・天海祐希・刑事と被疑者の最後の戦場・取調室を舞台にした、かつてない緊迫の心理戦」の「冤罪」に巻き込まれた「人間のドラマ」が面白かったデス?・・・で、今朝のTVニュースにも「車のタイヤをパンクした男(?)」と警察、御近所の人々に疑われ、それ以来、「イイヒト(?)が変わったように御近所に大声で恐喝(?)、暴言を吐き出し、逮捕され、執行猶予の判決を受け、その後、再度の恐喝、暴言で再逮捕されたオトコ」・・・もし、「タイヤをパンク」させたのが彼でなかったら・・・時間的に彼は「容疑者」であり、「犯人」ではなかった。だが、「犯人扱い」だったのではないだろうか?・・・
 「取調室の訊問」・・・多分、「取調室」の警察官、検察官、取調官は「おまわりサン」ではない・・・多分、「容疑者に対するコトバ」も「ヤクザなみの暴言」であるカモ・・・「容疑者」は「犯人」ではないが、「犯人の可能性」のボーダーライン(border line)に立たされている・・・「犯人」ではなくても「容疑者」は、警察の「お客」ではないから、「おもてなし」が無いのは当然ある・・・
 「ミのケッパクを証明」デキル手立てはあるのか?、「茸(きのこ)採取」での「テロ共謀罪」・・・「自由-民主-トウ」は自分の「トウメイ」を「凶暴罪」に貶めるつもりらしい・・・北海道には「集治監」と云う「監獄」があった。ここには「明治時代の自由党員」が多数収監された・・・「自由民主党」、自分の首を絞めている?・・・多分、「毒キノコ」を喰う以前に、「キノコ採り」で「熊」に襲われるのは春の恒例事件である・・・
 以下は資料として「ウイッキペデア」や、他の「ブログ記事」から原文を改作して重複添付したモノ・・・
 ナンの「資料」って?・・・ム(私)の私的な資料デス・・・
 「政治犯、国事犯」の「末路」の「集治監」の「漢字音」の同音異字漢字の
 「所為字葉務(セイジハム)・国字葉務(コクジハム)」の「魔通賂(マツロ)」の「習字=シュウジ=修辞」・・・
 ↓↑
ーーーーー
 三池
 集治監
 ↓↑
 地方監獄とは別に、
 国が管理する重刑者を収容するための監獄施設
 三池集治監は
 明治16(1883)年に設置
 西日本では
 三池にのみ設置
 当初西日本各県の監獄より
 刑期12年以上の囚徒が集められた
 三池に集治監が設置されたのは、
 当時国が管理していた
 三池炭鉱での安定的な労働力を確保するため
 2000人の囚人が収容され、
 三池炭鉱での採炭作業に従事させられた
 その後
 三池監獄、
 三池刑務所と改称
 宮原坑の閉坑に伴って
 昭和6(1931)年に閉庁
 ↓↑
 三池集治監~三池刑務所
 ↓↑
 明治16(1983)年4月14日
 三池集治監が開庁
 囚徒442人
 西日本各県監獄より
 刑期12年以上の囚徒を収容
 獄舎3棟
 七浦坑の採炭に就役
 ↓↑
 明治16(1983)年5月5日
 囚徒を三池炭鉱の採炭への使役開始
 明治28(1995)年
 レンガの外塀が完成
 三池に
 小菅集治監のレンガ工が送り込まれ、
 三池の囚徒によってレンガがつくられた
 明治36(1903)年
 三池監獄に改称
 (全監獄の司法省直轄に伴う集治監の廃止)
 大正11(1922)年
 三池刑務所に改称
 (監獄から刑務所への用語改正)
 昭和6(1931)年3月
 三池刑務所が閉庁
 ↓↑ ↓↑
 監獄制度の変遷
 江戸時代の刑罰の中心は追放刑
 明治になると近代的自由刑が採用
 自由刑とは犯罪者の社会生活の自由を奪う刑罰
 自由刑=犯罪者を監獄に拘禁
     犯罪者を社会生活から隔離し
     社会を防衛
     監獄で強制作業を通じて
     犯罪者を教育・改善する・・・更生
 ↓↑
 存在しなかった長期の収監施設が必要
 そのために作られた施設が集治監
 集治監は内務省直轄の刑事施設
 府県の管轄する監獄とは別に設置され、
 長期刑の
 国事犯、
 政治犯が収監された
 明治14(1881)年制定の
 第一次監獄則では、
 「徒刑・流刑・禁獄の刑に処せられた者を
  (集治スルノ所)と定められ」ている
 明治36(1903)年
 地方監獄も含め
 全監獄が司法省直轄
 集治監も監獄に改称
 ↓↑ ↓↑
 略年表
 明治2(1869)年
 獄制大改革。囚人に労働を課す「徒刑制度」を採用。
 明治5(1872)年
 監獄則并図式を公布
 監獄を既決監と未決監、懲治場に区分
 翌年財政的理由等から施行を中止決定
 明治12(1879)年
 内務省直轄の集治監を小菅と宮城に設置
 明治13(1880)年
 刑法施行
 明治14(1881)年
 第一次監獄則
 未決監
 (留置場・監倉)と
 已決監
 (徴治場・拘留場・徴役場・集治監)を設定
 (フランス・ベルギーの行政制度に倣う)
 明治22(1889)年
 第二次監獄則
 集治監と仮留監(内務大臣管理)
 と
 地方監獄・拘置監・留置場・懲治場(知事等の管理)に整理
 (ドイツの苦役懲戒方式を取り入れる)
 明治33(1900)年
 監獄事務の司法省移管
 監獄費用の全額国庫負担
 明治36(1903)年
 全監獄の司法省直轄
 集治監は監獄と改称
 明治40(1907)年
 刑法改正
 明治41(1908)年
 現行の監獄法の施行
 ↓↑ ↓↑
 三池以外の
 集治監
 ↓↑
 最初に設置された集治監
 中央監獄ノ
 東京小菅
 と
 宮城
 ↓↑
 明治16(1883)年設置の
 三池集治監以外、
 全て北海道に建設
 重罪流刑者を集禁すると言う目的の他に、
 囚人を北海道開拓にあたらせるという国策
 そのため
 三池集治監の囚人が
 三池炭鉱の採炭に使役されたように、
 北海道各地に建設された集治監の囚人も、
 地域の農業開拓や道路建設などに使役された
 ↓↑
 北海道の集治監のうち囚人が採炭に使役されたのは、
 幌内炭鉱に隣接する
 空知集治監
 幌内炭鉱での囚人労働も
 明治27(1894)年に廃止
 ↓↑
 北海道の集治監
 明治19(1886)年
 北海道庁設置で
 一旦内務省から北海道庁に移管されたが、
 明治28(1895)年
 再度内務省に移管
 ↓↑
 東京集治監・宮城集治監
 明治12(1879)年
 内務省直轄の集治監が
 小菅
 と
 宮城
 に設置
 佐賀の乱(M7.2.4)
 熊本神風連の乱(M9.10.24)
 秋月の乱(M9.10.27)
 萩の乱(M9.10.28)
 西南戦争(M10.2.15)
 東京周辺での国事犯等の増加に対処
 長期刑の
 国事犯
 政治犯
 が収容された
 建設は、
 フランスの
 中央監獄制度(メーゾンカーテラル)が参考にされた
 ↓↑
 樺戸集治監
 明治14(1881)年
 北海道の月形町に開庁
 明治19(1886)年~明治27(1894)年に
 囚人を使役した道路開削
 収容人数は通常
 1,300人程度
 明治22(1889)年
 2,365人が収監
 樺戸監獄署
 北海道集治監樺戸本監(1891)
 樺戸監獄(1903)と名称変更
 大正8(1919)年1月に廃止
 大正9(1920)年~昭和47(1972)年まで
 月形町役場として使用
 ↓↑ ↓↑
 空知集治監
 明治15(1882)年6月
 北海道
 三笠市に空知集治監が開庁
 明治12(1879)年に開坑した
 幌内炭鉱で受刑者を使役するために建設
 明治23(1890)年には
 3,248人を収監
 受刑者の
 1,000人程度が幌内炭鉱の採炭労働に、
 他は道路建設などに従事
 幌内炭鉱
 明治22(1889)年
 北海道炭礦鉄道に払い下げられ、
 その後も炭鉱での囚人の使役は継続
 囚人労働中止は、
 明治27(1993)年末
 明治23(1890)年には
 3,248人を収監
 明治36(1903)年に廃止
 ↓↑
 釧路集治監=標茶(シベチャ)集治監
 明治18(1885)年
 標茶町に釧路集治監が開庁
 明治18(1885)年に
 772人
 明治23(1890)年に
 1,409人を収容
 収監された囚人は、
 川湯硫黄山での採掘、
 標茶釧路間の軽便鉄道敷設、
 厚岸屯田兵屋建設、
 釧路川浚渫などに使役
 硫黄山の採掘は、消耗が激しく
 明治20(1887)年11月に
 囚人の硫黄採掘作業中止
 明治27(1894)年以降
 付設農場での大豆栽培
 明治24(1891)年
 北海道集治監釧路分監に改称
 明治34(1901)年に廃止
 ↓↑
 北海道
 集治監
 網走分監
 明治23(1890)年
 釧路監獄署網走外役所として開庁
 明治24(1891)年6月
 釧路集治監網走分監に改称
 8月
 北海道
 集治監
 網走分監に改称
 明治30(1897)年に廃止
 明治31(1898)年
 北海道集治監分監出張所として再設置
 明治36(1903)年
 網走監獄と改称
 現在は網走刑務所
 北海道中央道路開鑿のために設置
 北見、網走間156kmの道路建設に囚人が使役
 半年間の道路工事に
 1,115人が出役
 死亡者186名
 罹病者914名
 ↓↑
 北海道
 集治監
 十勝分監
 明治26(1893)年
 釧路分監帯広出張所が、
 明治28(1895)年に
 北海道
 集治監十勝分監に昇格
 十勝地方の開拓で2年間で数百haを開墾
 石狩から十勝への縦貫道路の建設
 狩勝峠開鑿も囚人を使役
 明治36(1903)年
 十勝監獄と改称
 昭和51(1976)年
 市内別府町に移転
 ↓↑ ↓↑
 集治監(しゅうじかん)
 明治時代に設置された
 囚人の収容施設(監獄)
 東京、宮城、福岡、北海道に設置
 内務省直轄
 徒刑・流刑・終身懲役などの 囚人を収容
 監獄の長は
 「典獄」と呼ばれた
 ↓↑
 明治14年監獄則改正
 徒刑、流刑、懲役刑で
 12年以上の者を拘禁する
 集治監を北海道の地に設置
 囚人を使役し、
 北海道の北方防衛と開拓
 明治14年
 月形町に
 樺戸集治監
 明治15年
 三笠市に
 空知集治監
 明治18年
 標茶町に釧路集治監
 その分監として
 明治23年
 網走囚徒外役所が
 網走に設置
 ↓↑ ↓↑
 標茶(シベチャ)
 明治18年開設
 北海道の開拓を目的に、
 明治十四年
 樺戸集治監
 明治十五年
 空知集治監
 明治十八年
 釧路集治監
 が開設
 ↓↑ ↓↑
 標茶(シベチャ)
 収容囚人
 全国の監獄から送られてきた
 刑期10年以上の重刑囚
 行刑官史も最低190人~最高280人
 明治29年
 分監長1人
 書記9人
 看守長7人
 監獄医2人
 看守187人
 教誨師1人
 傭12人
 授業手(指導員)5人
 合計224人が任務
 明治32年の記録に
 560万坪の敷地
 庁舎1棟
 官舎18棟
 獄舎19棟
 工場5棟
 倉庫11棟
 監房は本造平屋造り中央に廊下
 看守教習所
 演武所
 精米場
 看守合宿所
 炊所
 浴場
 舟小屋
 93棟の建物
 ↓↑ ↓↑ 
 明治19年
 跡差登硫黄山で硫黄を掘削作業
 亜硫酸ガスの発生で
 明治20年11月
 硫黄採掘の労役中止
 ↓↑ ↓↑
 釧路川浚渫、
 標茶・厚岸間道路、
 標茶・釧路間道路、
 硫黄山・網走間道路、
 厚岸屯田兵舎、
 大津・伏古間道路、
 網走・上川間中央道路
 などの土木建築
 釧路集治監から釧路郡役所まで
 16里の電話線の架設
 ↓↑ ↓↑
 集治監
 開墾ばかりではなく自給自足のため、
 大麦、大根、小麦、牧草、黒麦、馬鈴薯、大豆
 などを栽培
 明治20年に
 水稲栽培の試作失敗
 明治28年
 再試作で失敗
 桑苗の栽培
 養蚕
 プラオやハローなどの器具
 馬などを使って農耕
 森林内の200万坪を
 牧場として、家畜の飼育
 明治30年
 農耕、
 乗馬用の
 馬が90頭、
 牛20頭
 明治32年には
 豚86頭がいた・・・
 明治27年以降
 大規模な外役はなく、
 農耕と内役が中心
 ↓↑ ↓↑
 大井上輝前
 と
 原胤昭
 ↓↑
 大井上輝前は釧路集治監の初代典獄
 明治18年から4年11ヵ月、
 標茶で任務
 明治22年1月
 川上郡役所が設置され
 大井上は
 郡長と
 川上警察署長、
 不動産登記官
 兼任。
 熊牛村の
 行政、司法にたずさわり、本町の基礎を築いた
 ↓↑
 原胤昭
 明治21年
 兵庫から釧路へ囚人を護送してきた際、
 大井上輝前にのぞまれ
 教誨師として着任
 「我が国監獄改良の第一人者」
 生涯を不幸な犯罪者にささげた人物で、
 キリスト教信者
 ↓↑
 硫黄採掘作業の囚人たちの惨状を知り、
 硫黄山から囚人を引き上げさせた
 ↓↑
 大井上輝前、原胤昭、
 空知集治監の教誨師で
 遠軽町に家庭学校を建てた
 留岡幸助
 らは、
 厳しい囚人運動の廃止、人権を守る運動を繰り広げた
 ↓↑
 明治18年
 釧路集治監
 明治21年
 釧路監獄署
 明治23年
 釧路集治監
 明治24年
 北海道
 集治監釧路分監と数度名称を変え、
 明治34年
 16年間にわたる歴史を閉じて
 網走分監に移された
 明治21年
 塘路にあった
 熊牛村外4ヵ村戸長役場を
 標茶の集治監内に移転
 警察分署、公立病院、郵便局、
 日本銀行
 熊牛支金庫などの官公署や公共施設が設置
 ↓↑
 集治監
 標茶のいしずえ
 ↓↑
 北海道
 川上郡
 標茶町
 川上・・・
 ↓↑
 1903(明治36)年
 特別な囚人を収容する
 「集治監」という施設が廃止
 ↓↑
 樺戸集治監は
 「樺戸監獄」という改称
 一般の監獄のひとつとして、
 司法大臣の直轄下に置かれた
 ↓↑
 大正期(大正元年=1912年)
 月形村への入植と開拓が進展
 監獄の存在が村の発展のさまだけになる
 監獄施設と監獄農場があるために
 一般の開拓民の入植が進みづらくなった
 ↓↑
 樺戸集治監設立=政治犯の収容
 北海道の監獄が
 囚徒の土木重労働との批判
 ↓↑
 明治の開拓初期、
 明治15(1882)年
 三笠
 空知集治監が設置
 刑期10年以上の重罪犯が収監
 炭鉱労働や開拓作業などの労働に使役
 空知集治監の収監者数は
 北海道内の集治監で一番多かった
 石炭を多く採掘することを目的とし
 炭鉱労働に囚人を用いた
 ↓↑ ↓↑
 空知集治監には
 政治犯も収監
 その中には
 「自由民権」運動に関わった者
 明治24(1891)年
 自由党総裁の
 板垣退助が慰問に訪れた・・・
 ↓↑
 空知集治監の建物の裏山が
 奈良の
 三笠山に見えることから・・・
 ↓↑ ↓↑
 三笠山 (みかさやま)
 奈良県奈良市の
 御蓋山(みかさやま)
 標高297m、春日山 (奈良県)
 奈良県奈良市にある
 若草山の別名
 標高342m
 三等三角点
 「三笠山」は若草山山頂にある
 三笠山 (三笠市)
 北海道三笠市にある
 別名、観音山
 奈良県の三笠山に似ているので名付けられた
 三笠山 (空知支庁)
 北海道三笠市と美唄市の境にある
 標高594m
 三笠山 (上川支庁)
 北海道上川郡美瑛町にある
 標高399m。
 三笠山 (宗谷支庁)
 北海道枝幸郡枝幸町にある
 標高173m
 三笠山 (網走支庁)
 北海道紋別郡遠軽町にある
 標高1291m
 三笠山 (青森県)
 青森県平川市にある
 三笠山 (長野県)
 長野県木曽郡王滝村にある
 標高2256m
 近くに
 小三笠山(標高2029m)もある
 三笠山 (安来市)
 島根県安来市にある
 標高230m
 三笠山 (雲南市)
 島根県雲南市にある
 標高302m
 三笠山 (岡山県)
 岡山県岡山市にある
 標高30m
 三笠山 (香川県)
 香川県小豆郡小豆島町にある
 標高800m
 三笠山 (花蓮県)
 花蓮県にある
 標高318m
 ↓↑
 どら焼きの別称(奈良の三笠山が由来)・・・?
ーーーーー
 ・・・「ドラ埜記」って「虎(寅・彪・勾・禽・囚)=とら・どら=銅鑼・鐃・錚」ヤキ・・・コ(虎)・ヒョウ(彪)・イン(寅)・・・

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