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奈良のマロ・・・恵美のオシカツ・・・

2017-10-05 20:59:54 | 古事記字源

 ・・・ジュウでランシャ・・・なんか、調べているうちに・・・「サカのウエのクモ」・・・「橘-奈良麻呂(のラン)」、「藤原-恵美押勝(のラン)」・・・「立場の名」は「奈(いかん・いかんせん・いかんぞ・なんぞ・いかんとも(どうにも)・これ以上は奈何ともしがたし・これ以上はどうにもできない)・大体の場所や不明の位置を示す・どのあたり・どこ・疑問、反語の助字)」の「良の麻呂(わたくし)」・・・「エミで訓化通(おしかつ)」・・・「坂上石楯(さかのうえ の いわたて)」・・・ボクの脳ミソも混乱したハナシになって行くが・・・兎に角、文献を調べている研究者にはアタマがさがる・・・
 でも、本当なのカナ・・・ブンケン・・・
 紀元前660年2月11日
ーー↓↑ーー
 神武元年=辛酉年春正月庚辰朔・先勝・土曜日
 紀元前660年2月11日(グレオゴリ)
 紀元前660年2月18日(ユリウス)
 ↓↑
 BC660年 辛 酉(グレオゴリ)
   002月 庚 寅
   011日 庚 辰

 BC660年 辛 酉(ユリウス)
   002月 庚 寅
   018日 庚 辰
 ↓↑
 神武二年一月六日=紀元前659年2月06日
         =紀元前659年2月13日・赤口・火曜日
 ↓↑
 BC659年 壬 戌(グレオゴリ)
   002月 壬 寅
   006日 庚 辰
ーー↓↑ーー
 時系列は
 乙巳の変
 645年7月13日(皇極天皇四年六月十二日)・大安・日曜日
 645年 乙巳               代案・比庸備
 007月 癸未
 013日 戊申・寅卯=空亡
        飛鳥板蓋宮で
        中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我石川麻呂
        佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田
        らが実行犯となり
        蘇我入鹿を暗殺
        翌日(14日・己酉)
        蘇我蝦夷が自害
ーー↓↑ーー
 大化の改新
 646年(孝徳天皇二年=大化二年春正月甲子朔)
=西暦646年1月25日(グレオゴリ)
           =西暦646年1月22日(ユリウス)
乙 巳
己 丑
甲 子
ーー↓↑ーー
 白村江の敗北
 663年10月(天智二年八月)
ーー↓↑ーー
 壬申の乱
 672年7月24日~8月21日
 壬申・丁未・辛巳
 (天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日)
ーー↓↑ーー
 長屋王の変
 729年3月16日
 (神亀六年二月十二日=天平一年二月十二日)
ーー↓↑ーー
 橘奈良麻呂の乱
 757年(天平宝字元年)七月四日
 藤原仲麻呂の暗殺計画
ーー↓↑ーー
 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
 764年(天平宝字八年)九月十一日
 西暦764年10月14日(グレオゴリ)
    甲辰・甲戌・乙巳
 西暦764年10月10日(ユリウス)
ーー↓↑ーー
 平安京遷都
 794年11月22日(延暦十三年十月二十二日)
    11月22日=十月二十二日・・・?
 甲戌・乙亥・辛酉
ーー↓↑ーー
 紀元前660年2月11日
ーー↓↑ーー
 神武元年=辛酉年春正月庚辰朔
      天皇即帝位
      於
      橿原宮是
      歳爲
      天皇元年
 磐余(いわれ)彦=神武天皇=彦火火出見(ひこほほでみ)
 ↓↑       神倭伊波礼毘古命
          狭野尊(さののみこと)
          神武天皇七十六年三月十一日死没
              丙子年辛卯月甲辰日
              偏官・劫財・偏財
              ↓↑\↓↑\↓↑
 ↓↑         辛酉年生-庚寅月生-庚辰日生・申酉
 ↓↑              寅(己・丙・甲)
 ↓↑               印綬・偏官・偏財
 氏姓は
 石村(いわれ)村主(すぐり)・・・?
 ↓↑   石村の同姓の人物
 ↓↑   石村検校
      寛永十九(1642)年九月二十四日死没
      京都室町時代末期 (16世紀末) の盲人の音楽家
      文禄 (1592~96) 頃、琉球に渡り
 ↓↑   胡弓を三味線に改良
      石村近江(十一代)
      ?~1865年
 ↓↑   江戸時代後期の三味線製作者
 後に
 坂上(さかがみ)忌寸(いみき)となる
 ↓↑ 作掛臥視- 意味記?
       秦-忌寸-朝元?=左大臣橘卿、謔れて云はく
              「歌を賦するに堪へずは
               麝をもちてこれを贖へ」
               麝=鹿+射→入鹿=いるか=海豚
                 ジャ・シャ
                 じゃこうじか
                 シカ科の哺乳動物
         麝香・麝煤(ジャバイ)=麝墨(ジャボク)
 ↓↑        においのよい墨(すみ)・麝墨
 石村(いわれ)村主(すぐり)は
 鎮守府軍曹・・・石村の石楯?
 官位は
 従五位下
 勲四等・・・・勲=かほる=香保留・薫・馨(声殳香)
 出羽介・・・・出話(デワ)の介(すけ・カイ・ケ)
 ↓↑
 父は石村高足・・・石村(いわれ)の
          高(たか)の
          足(あし・たり)
 母は不詳
 妻は紀多継・・・・・紀(キ)を多(おほ)く継(つ)ぐ
 男子は坂上氏成
 女子は坂上秋穂・・・秋穂=安芸(藝)補?
 妻は多藤木姫・・・・多藤木姫=タトウキ=多唐記比?
 男子は坂上身毛・・・身の毛・・・毛人=蝦夷人
 ↓↑
 石村氏
 三河国・・・三河=参河国(參河國)=三川国=水河國
         =愛知県東半部
 碧海郡に定着した・・・逢妻村(愛知県碧海郡)
            阿乎美村・旭村(愛知県碧海郡)
            古代木簡出土=鹿乗川流域遺跡群
 漢系渡来氏族
 仁徳朝に渡来した
 阿智使主・・・・・・阿(おもねる)智(智慧)の使い主
 に随い来日した者に
 石村村主の祖にあたる人物・・・
 後漢第七代皇帝
 少帝懿・・・皇帝としての即位は認められていない
       父は済北恵王・劉壽
       第3代皇帝章帝の孫
       第6代安帝の死後
       皇后の閻氏によって擁立されたが
       即位後200日ほどで病気により死去
       後、宦官の
       孫程たちにより閻氏一族は殺され
       劉懿は皇帝の位を剥奪
       王の礼をもって葬られた・・・
 の後裔
 阿智使主に随い来日した
 石村古那・・・石村の古の那
 を祖とし
 石村(いわれ)の呼称は
 大和国
 磐余(いわれ)の地に
 因むものとされる?・・・逆だろう・・・
 ↓↑
 石村石楯
 ↓↑
 天平宝字八年(764年)
 藤原仲麻呂の乱
 (恵美押勝の乱)
 敗北した
 恵美押勝と
 その妻子3、4人が船で
 琵琶湖上に逃れたのを捕らえ
 これを斬り、
 押勝の首を京に運んだ
 石楯はこのとき軍士(一兵士)
 大初位下から
 従五位下に昇叙
 天平神護元年(765年)正月
 勲二等~六等までの乱の功賞の中で
 石楯は
 勲四等を与えられた
 ↓↑
 四月二十六日
 左京人
 石村石楯・・・石村石楯
 ら3人と、
 参河国
 碧海郡の人
 従八位上
 石村押縄・・・石村押縄
 ら9人が
 坂上忌寸の姓を賜与された
 石楯が
 三河国碧海郡の
 石村氏と同族関係にあり
 かつ自らは
 左京の人であった・・・
 ↓↑
 藤原仲麻呂の乱では
 坂上苅田麻呂も功を立て
 石村(村主)氏は
 遠縁の
 坂上氏の下に組み込まれ
 姓を改めた・・・
 ↓↑
 天平神護二年(766年)五月十日
 百済文鏡・・・百済の文の鏡(金竟)=かがみ=鑑
        竟=長時間の経過後=立+日+儿
          おわる・ついに・わたる
          今か今かと
          期待、危惧したりした状態になるさま
          色々な過程を経て実現したさま
          とうとう、ヤッタ・・・畢竟・究竟・終竟
 が
 出羽守に任命された同日
 石楯は
 出羽介に任ぜられ
 宝亀五年(774年)五月
 中衛将監
 宝亀十年(779年)五月一日
 妻の紀朝臣多継
 息子の坂上忌寸氏成・・・坂上の忌寸の氏の成
 娘の秋穂
 の三人が
 故父石楯の厚恩に報じるために
 大般若波羅蜜多経1部600巻を
 写経して納めた
 このうちの巻176が
 唐招提寺に残り
 跋語によってその
 事情が伝わっている
 石楯は
 宝亀十年(779年)
 までに没した・・・
ーー↓↑ーー
 藤原仲麻呂
 天平宝字二年(758年)八月
 大炊王(淳仁天皇)即位
 大保(右大臣)に任ぜられ
 恵美押勝(藤原-恵美-朝臣-押勝)
 の姓名を与えられ
 天平宝字四年(760年)一月
 史上初の
 太師(太政大臣)になった
 ↓↑ 
 藤原仲麻呂の乱
 光明子が死去し
 孝謙太上天皇が
 道鏡を信任し
 天平宝字六年(762年)六月
 孝謙太上天皇は出家して尼になり
 「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え
  国家の大事と賞罰は自分が行う」
 と宣言
 天平宝字七年(763年)九月
 孝謙太上天皇は
 道鏡を少僧都に任じた
 ↓↑
 押勝は
 天平宝字八年(764年)九月
 新設
 「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」
 に任じられ
 諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定だが
 600人の兵を動員するよう
 大外記
 高丘比良麻呂・・・高丘(コウキュウ)の比良(ひら)の麻呂
 に命じ
 軍事力で政権奪取を意図
 太政官印の確保に成功
 九月五日
 仲麻呂は
 船親王・・・船(親)王=知太政官事
          舎人親王(崇道尽教皇帝)の子
          官位は二品・信部卿
          神亀4年(727年)
          二世王の蔭位により
          無位から従四位下に直叙
 と謀議
 池田親王は
 夏頃より兵馬を集結
 両親王ともに
 仲麻呂が擁立した
 淳仁天皇・・・淡路廃帝
        諡号は明治時代に付けられた
        名は大炊 (おおい) 王
        舎人親王 (崇道尽敬皇帝) の第七皇子
        母は皇太夫人、当麻山背
 の兄弟
 高丘比良麻呂
 は後難を恐れ
 孝謙太上天皇に動員計画を密告
 陰陽師の
 大津大浦
 押勝の叛乱を知り
 密告
 和気王も反乱計画を伝えた
 ↓↑
 九月十一日
 孝謙太上天皇は
 少納言
 山村王を
 淳仁天皇のいる中宮院に派遣
 皇権の発動に必要な
 鈴印(御璽と駅鈴)を回収させ
 押勝は子息の
 訓儒麻呂に・・・・・訓は儒の麻呂?
 山村王
 の帰路を襲撃させ
 鈴印を奪回
 孝謙太上天皇は
 授刀少尉
 坂上苅田麻呂
 と
 授刀将曹
 牡鹿嶋足
 を派遣
 訓儒麻呂を射殺
 恵美押勝は
 中衛将監
 矢田部老
 を送ったが
 授刀舎人
 紀船守に射殺
 孝謙太上天皇は勅し
 押勝一族の官位を奪い
 藤原の氏姓の剥奪
 全財産の没収を宣言
 三関の固関
 その夜
 仲麻呂は一族を率いて
 平城京を脱出
 宇治へ入り
 仲麻呂は彼の地盤となっていた
 近江国の国衙を目指した
 孝謙太上天皇は
 造東大寺司長官であった
 吉備真備を召し
 従三位に叙し
 仲麻呂誅伐を命じ
 討伐軍が仲麻呂の後を追った
 真備(70歳)は
 仲麻呂のため逆境にあったが
 在唐中に得た
 軍学知識を買われた
 山背守
 日下部子麻呂
 と
 衛門少尉
 佐伯伊多智・・・佐伯の伊の多の智・・・いたち=大分?
 の率いる官軍を先回りさせ
 勢多橋を焼き
 東山道への進路を塞いだ
 仲麻呂は子息
 辛加知(しかち・からかち・シンカチ)?
     藤原仲麻呂の八男
     母は陽候女王
      (新田部親王の娘)=陽候氏は隋王朝の
                煬帝の末裔
     官位は従五位下・越前守
 が国司になっている
 越前国に入り再起をはかろうとし
 琵琶湖の湖西を越前に向い北進
 淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は
 自派の元皇族中納言
 氷上塩焼(新田部親王の子)
 を同行し
 「今帝」
 と称して天皇に擁立
 自分の息子たちに
 親王の位階である
 三品を与えた
 奪取した太政官印を使って
 太政官符を発給し、諸国に号令
 孝謙太上天皇側は、
 仲麻呂を討ち取った者に
 恩賞を約束するとともに
 北陸道諸国には
 太政官印のある文書を
 信用しないように通達
 ↓↑
 官軍の
 佐伯伊多智は
 越前に馳せ急ぎ
 事変を知らぬ
 辛加知を斬り
 授刀舎人
 物部広成
 らに
 愛発関(近江と越前の国境の関所)
 を固めさせ
 仲麻呂軍の先発隊精兵数十人が
 愛発関で敗れた
 辛加知の死を知らない
 仲麻呂は
 愛発関を避け
 舟で琵琶湖東岸に渡り
 越前に入ろうとするが
 逆風で舟が難破しそうになり断念
 塩津に上陸し陸路
 愛発関の突破をはかった
 ↓↑
 佐伯伊多智が防戦し
 仲麻呂軍を撃退
 仲麻呂軍は退却し
 三尾(近江国高島郡)の古城に籠もった
 討伐軍は三尾を攻め
 仲麻呂軍は応戦
 九月十八日
 討賊将軍に任ぜられた
 備前守
 藤原蔵下麻呂・・・蔵の下の麻呂
 の援軍が到着し
 海陸から激しく攻め
 仲麻呂軍は敗北
 仲麻呂は湖上に舟を出し
 妻子とともに逃れようとするが
 軍士
 石村石楯・・・石村(いわれ)の石楯(いわたて)
 に斬られ
 一家も皆殺しにされた
 氷上塩焼も殺され
 仲麻呂の勢力は政界から一掃され
 淳仁は廃位され
 淡路国に流された
 代わって
 孝謙太上天皇が重祚し
 孝謙・称徳天皇
 ・・・「孝謙=コウケン=後見(後付け・後から付け足すこと・理由を後付けする)」・・・「稱德=称徳=ショウトク=症訳句・背負う訳句」・・・「和気清麻呂」を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に改名させた・・・
 ↓↑
 橘 奈良麻呂・・・・たちば-な-なら-まろ?
           橘=キツ=吃・喫・桔・詰・吉・乞
 養老七年(721年)?
  ~
 天平勝宝九歳(757年)七月
 左大臣
 橘諸兄の子・・・橘の諸(諸々)の兄(蛙似)?
 官位は正四位下・参議
 贈正一位・太政大臣
 二代目
 橘氏長者
ーー↓↑ーー

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