gooブログはじめました!キリヤ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
コジキジゲン

白文のトリの考察交

2015-09-08 18:34:24 | 古事記字源

 ・・・「白文鳥の考察交・三重吉と駕籠、小鳥、千代、漱石」・・・昨日の夜7時ころ、三笠市の従姉から電話があって、隣町のホーマックに息子の車で買い物に行くが、序でに必要なモノがボクもあれば、同乗して行かないか、とのコト。従姉のハナシでは畑仕事をしている最中に「嘴が赤で、身体が白」の小鳥がやってきて人懐っこくマトワリつくのだ、と云う・・・追い払っても戻ってきては肩や腕、手に乗ってしまうらしい・・・どうやら飼い主がいる小鳥が逃げてきた、とのこと・・・それで、もしかして、飼い主が見つかるまで「鳥篭」を買って様子をみてみたいとのコトだった・・・従姉は以前、オフクロが黄色の「インコのピーコ」を飼っていたのを思い出したらしく、その「ピーコの鳥篭」がまだあるかどうかを訊いてきた。確かに、ガレージの奥にその「鳥篭」をしまってある。さっそく、捜して、庭の水道の水で、汚れを洗ってみた。充分に使用可能である・・・それで、従姉と息子を来るのを待っていた。彼らがボクの家に到着したが「ホーマックの営業時間は夜の8時」らしい、とのコトだったが、綺麗にした「ピーコの鳥篭」を従姉に見せ、兎に角く、目的地に行くコトにした・・・
 車の中で、「嘴が赤で、身体が白の小鳥」の経緯を訊いたが、不思議に思える。子供のころにオフクロが「紅ひわ」を買ってくれたこと、犬の「ポール」、そして、「ツガイの十姉妹」を飼ったコト、そして、「三毛猫のチコ」を飼ったコト等などのコトを従姉と思い出しながら話し合った・・・お祭りで買ってきた「ヒヨコ」を育てたコトには触れなかったが・・・
 今現在の「モモちゃん(牝の黒猫)」は「猫エイズ」で体毛は斑(マダラ)に抜け落ち、歯もボロボロだが、前肢の左足は回復しつつあり、食欲もあり、ナントカ持ちこたえている・・・
 兎に角、飼った生き物とはコッチがエゴで生きているかぎり、生き別れ、そして死に別れが宿命である・・・
 ホーマックの閉店までは10分くらい・・・ボクは緑色のカーペット2枚とモモの缶詰を10個を買った。従姉は店内で「鳥篭」を捜していたが断念して、「ピーコの鳥篭」を使うコトにし、序でにボクはホーマックの隣の隣の薬屋で「はやめのパブロン」を買った・・・この間、風邪なんだかどうなんだか、右咽喉がヤケに痛い・・・
 それで、昨夜はオワリだったが・・・
 「嘴(くちばし)が赤で、身体が白の小鳥」とは「?」で・・・「?」をブログで検索しして調べてみた・・・
ーーーーー
 ハクブンチョウ
 (白文鳥・Java Sparrow)
 小鳥(体長13cm・体重25g程度)
 身体は白色で、
 口ばしは赤く、
 足は淡紅色
 発祥の地は
 愛知県海部郡弥富町
 ↓
 ハクブンチョウ
 (白文鳥)
 スズメ科カエデチョウ類
 寿命・・10~15年程
 稗(ヒエ)
 粟(あわ)
 米(こめ)などを好む
 ハクブンチョウ(白文鳥)
 体表色が白い
 スズメ目
 カエデチョウ科
 ブンチョウ属
 の小鳥
 全身が
 白く、
 嘴と目の周囲が赤く、
 身体に丸みがある
 人に慣れ易く
 「手、頭、肩など」に乗る
 飼い主に付いて廻る
 名前を呼ばれると
 鳴いて返事をし、
 やってくる
 文鳥に限らず、
 鳥は犬や猫と同じように
 人間の言葉を理解できる
  ↓
 日本には江戸時代「中国」から輸入
 長崎出島を通じて、
 文鳥が日本に輸入された
  ↓↑
 文鳥(ブンチョウ)の歴史と品種
 http://www.bunchoya.com/setsu/syu.htm
  ↓↑
 18世紀半ばの記録
 (「花蛮交市洽聞記」)、
 日本での繁殖も18世紀後半には始まっており
 (1773年「唐鳥秘伝百千鳥」
  1799年「諸鳥飼法百千鳥」)、
 19世紀となると一種のブーム
 菅茶山の随筆集
 「筆のすさび」によれば、
 「備中備前に文鳥を畜う(やしなう)ことはやり」
 と言い、
 1808年刊行の
 「飼篭鳥」と言う本に拠れば、
 数百羽ずつカゴに入れて
 大阪や江戸に出荷する
 大規模な生産者まで現れた・・・
 この文鳥飼育の流行は、
 江戸の末期に至っても続いていた・・・
 1847年刊行の
 山本亡羊
 「百品考」に拠れば、
 「世人好んでこの鳥を畜い(やしない)」、
 ついには京都の街中を
 野良文鳥が飛び交っているような状況となっていた・・・
 文鳥の原種(ノーマル)
 江戸時代の文鳥の姿は、
 佐竹曙山の
 「椿に文鳥図」には、
 すべて頭とアゴと尻尾が黒く、
 頬とお尻が白、
 胴体は少し青みがかった
 銀鼠色で、
 下腹部が桜
 鼠(さくらねず)色をした原種の姿・・・
  ↓
 1697年刊行の
 「本朝食鑑」という書物が記録初見
 江戸時代中国を経由して入り、
 明治九年初め
 突然変異により,
 「白文鳥」が誕生・・・
 日本の独自の小鳥
 「Japanese Rice Bird」
 と呼ばれ輸出
 原種は
 「ライスバード(Rice Bird)・米鳥?」の呼称
 愛知県弥富「白文鳥」・・・白文の調(帳)?
 の
 特産地・・・・・・とくさんち
          訳句纂知?
          解句纂知?
  ↓
 明治の
 「夏目漱石」の
 「文鳥(1908年)」に登場する「白文鳥」、
 「1月坑夫・6月文鳥・7月夢十夜・9月三四郎」
 を朝日新聞に連載
 ・・・六(陸)月=(水無月)に「文鳥」・・・
 その弟子の名随筆家
 内田百輭の
 大正期の作品
 「漱石山房の夜の文鳥」に登場する「白文鳥」、
 明治末期から大正期には、
 文鳥と言えば「白文鳥」を指すといった状況・・・
  ↓
 インコと比べると、
 性格は文鳥の方は強く、
 気性が激しく、
 飛んで廻る
 インコは
 大人しく床を歩いている事が多い
ーーーーー
 ・・・らしい・・・
 ・・・「舌切雀」は「わらべ草子」だが「スズメの恩返し」である・・・「ツルの恩返し(音解詞)」は「夕鶴」である・・・
 ・・・ボク的には「文鳥」はどうやら幕末の「長崎出島」の輸入産物(1697年=犬公方の徳川綱吉の時代)、そして「白文鳥」は明治九年ころに命名された「小鳥の名前」で・・・「子取りの名は白い文の調(帳)」です・・・
 中国では
 「色彩豊か」=「文」+鳥=文鳥・・・らしいが
         文
        (アヤ=彩)模様の文様
         綾・絢・彪・亜矢の
        「蛙哉」で、
        「文字、文章」自体の「文」では無い・・・
         字形は本質であるから、
        「文=亠(音略の字)+乂(かる・おさめる
                     ガイ・ゲ)」
           音声を刈ったモノの画意(ガイ)
              借ったモノの解(ゲ)である
  ↓↑
 以下は「文鳥の歴史」から参考、参照し、抜粋・・・
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/bun2/syunokigen/history.htm
  ↓↑
 大化三年(647)
 オウムが新羅から送られた
 11世紀
 平安貴族たちは、
 小鳥合(コトリアワセ)、
 持ち寄った
 小鳥の鳴き声や
 羽の色を競う遊び
 (『日本史小百科?動物』、
  『鳥の日本史』など参照)、
 清少納言も
 「すずめの子がひ」
 がお気に入り
 14世紀
 兼好法師は、
 「空を飛ぶ鳥の翼を切って
 籠に入れるなんてかわいそうだ」・・・
 (『徒然草』第121段)
  ↓↑
 前近代に中国で
 ジャワ雀が・・・ジャワ・・・邪和・邪話・蛇羽(葉)?
         爪哇・耶婆提
         闇婆達・社婆
         Java→ジャバ←Jawa
          volks-    wagen
          フォルクス-  ワーゲン
          V v=ファオ
          Vater=ファーター・父
          viel=フィール・多くの
          ドイツ語「w→v」、「v→f」
          と音韻変化
          オランダ語でも
         「v」が無声化して「f」で発音
         「v=音素はv」が標準
          とされており、
          音韻変化は不完全
 飼われていても、
 野生のものを捕まえて
 輸入したものだった可能性が高い
 「文鳥」という言葉の由来
 『大漢和辞典』の「文鳥」の項によれば、
 「文鳥之夢」という四文字熟語がある?
  ↓
 鳥の夢・・・ユメ=喩目・諭女・喩愛・喩芽・癒痲?
 「中国古代の占夢」から参照、参考で添付・・・
  ↓↑
 「鶏は武吏たり、冠距有ればなり。
  夢に雄鶏を見るは、猶ほ武吏の如く」
 「鶏は武吏たり、冠距有ればなり。
  夢に雄鶏を見るは、猶ほ武吏のごとく」
 「伯労は(口舌)たり、声悪むべければなり。
  夢に伯労を見るは猶ほ口舌のごときなり。」
 「夢に鵁䪐を見るは、猶ほ双せざるなり。
  婦夢に之を見る、此れ独居なり。
  婿夢に之を見る、恐らくは妻を失ふなり。
   (本書付録二、虫鳥類第59、60、57)」
 「雄鶏の戦闘好きは周知。
  雄鶏のとさかは戦士のしるし」
 鳥占いとは
 「蒼頡(ソウケツ)」で
 古代文字の発明者
 「制字先師」
 「黄帝の記録官」
 「鳥獣の足跡から文字を発明」・・・とは
 「メソポタミアの楔形文字」だろう・・・
 「文鳥占い」は台湾ですか・・・
 かって、子供の頃
 お祭りの境内で
 「小鳥(種類は?)」がお御籤(くじ)を
 嘴に加えて曳いてきてくれる「小鳥占い」があった・・・
  ↓
 この『文鳥』というのは
 「文彩の有る鳥」、
 つまり模様の有るきれいな鳥という意味・・・
 「ジャワ雀」の事だけを指す言葉ではない
 現代の中国南部の人が、
 野生の文鳥(並文鳥)を
 「灰文鳥」と呼んでいる
 (『ブンチョウの飼い方・ふやし方』)、
 「灰(はい・カイ)」をつけるところを見ると、
 いまだに『文鳥』が
 ジャワ雀固有の名詞となっていない・・・
 彩色の有る鳥=「文鳥」
 と中国人が説明したのを、
 『文鳥』という種類の鳥なのだと誤解した・・・
 ジャワ雀が
 日本で
 文鳥と呼ばれるようになる
 発端なのではないか・・・
 『日本鳥名由来辞典』によれば、
 清国では
 「瑞紅鳥」・・・「瑞光・随行」トリ(訳理)
          瑞高ならば
          高野長英の
        号は瑞皐(ズイコウ)である・・・
  を
 文鳥と表記していた・・・
 中国では、元々
 ジャワ雀は
 「文鳥」ではなく
 「瑞紅鳥」という別の固有名詞を持っていた・・・
 過去も中国で
 「文鳥」が文鳥という
 品種をさす固有名詞ではなかった・・・
ーーーーー
 ・・・バード中尉の所有していた「英和辞典=箋」・・・第20連隊第2大隊所属の「ロバート・ニコラス・バード中尉(23歳)」・・・
 1864年
    鎌倉事件
    元治元年10月22日
    (1864年11月21日)
    相模国鎌倉郡大町村(神奈川県鎌倉市御成町)で
    イギリス人士官2名が
    日本の武士に斬殺された事件
    横浜駐留中の
    イギリス陸軍
    第20連隊第2大隊所属の
    ジョージ・ウォルター・ボールドゥィン少佐(34才)
    と
    ロバート・ニコラス・バード中尉(23歳)
    が殺害された

ーーーーー
 ・・・バード中尉の所有していた「英和辞典=箋」・・・第20連隊第2大隊所属の「ロバート・ニコラス・バード中尉(23歳)」・・・
 1864年
    鎌倉事件
    元治元年10月22日
    (1864年11月21日)
    相模国鎌倉郡大町村(神奈川県鎌倉市御成町)で
    イギリス人士官2名が
    日本の武士に斬殺された事件
    横浜駐留中の
    イギリス陸軍
    第20連隊第2大隊所属の
    ジョージ・ウォルター・ボールドゥィン少佐(34才)
    と
    ロバート・ニコラス・バード中尉(23歳)
    が殺害された
    ↓↑
ーーーーー
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kojiki55y.htm
 「1999年7月7日水曜日」の「中日新聞・夕刊・E版」の記事には「【ロンドン7日共同】幕末の鎌倉で(じょうい)浪人に殺された英国軍人の署名がある英和事典がこのほど、ロンドンの古書市場で見つかった。日英交渉史を研究している恒松郁生『ロンドン漱石記念館』館長が競売で入手した。」とある。この辞書の内側のページには「英国歩兵第二十連隊バード中尉、1864年8月13日」と書き込みがあるらしい。右から
 「安政四年稟准」、
 「井上修理校正」、
 「英語箋」、
 「一名 米語箋」、
 「村上英俊閲」
 と印刷されている。そして、英語で、
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・AN ・
  ・EINGLISH AND JAPANESE ・
  ・AND ・
  ・JAPANESE AND EINGLISH ・
  ・VOCABULARY ・
  ・COMPILED PROMANTIVE WORKS・
  ・BY ・
  ・W,H.MEDHCRST ・
  ・ ・
  ・BATAVIA ・
  ・PRINTED BY LITHOGRAPNY ・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 と印刷されている。ちなみにこの「バード中尉」は「1864年(元治元年)」の「十一月二十一日」に「鶴岡八幡宮前」で事件にあって死亡したらしいのだ。
ーーーーー    ↓↑

    下関戦争
    攘夷を唱える長州藩が
    関門海峡で外国船を砲撃
    報復でイギリス海軍が
    フランスなどと共に
    下関の砲台を占拠
    帰国した井上と伊藤は事態収拾に奔走
ーーーーー 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・・・ヒトの暴力事件は日常茶番だが・・・ダレのシナリヲ

2015-09-08 00:07:16 | 古事記字源

 ・・・小学校2年生の病み上がりの時、小樽のおばさんが訪ねてきてくれ、隣の町の映画館に母と3人で映画を観に行った・・・行く前に、おばさんは「この子は映画を静かに見ているコトができるの?」と、母に訊ね、母は「この子は映画が大好きだから大丈夫です」と応えてくれ、連れて行ってもらうコトにした。当時の娯楽と云えば「映画」と「ラジオ」、それに「お祭りの見世物と夜店の屋台」、時たま来る「どさまわりの芝居」だったが、「ラジオ」は家には無かった。街の会社(三井炭鉱)経営の映画館は毎日のように異なった月遅れの映画が1本、場所は炭鉱住宅区の5カ所で上映されていた。中村金之助の「新諸国物語(笛吹童子・紅孔雀・白鳥の剣士)」などの「正義の戦い」、そして「勧善懲悪」・・・殆んど毎日のように高校生になっても通っていた。子供には禁止映画も・・・映画館の札取りのおじさんが親戚だったのでフリーパス。多分、子供は入場料は「5円」・・・ラジオ、ボクは母の勤め先の病院に夕方ころに行っては子供番組のラジオを聞きかじっていた・・・母は映画が大好きで、仕事帰りにはボクは母に連れられて一緒によく映画館に行った・・・ボクが入院している時にも病院を抜け出し、母と一緒に「キングコング」を観に行った・・・
 で、小樽のおばさんと観に行ったのは「太平洋戦争・日本、かく戦えり」と云うタイトルの映画だった。当時のボクには、まったく、興味の無いもので、椅子にジッとして居られないモノだった・・・
 終了後、母親は、おばさんにボクが煩く愚図っていたのを謝っていた。
 ブログで調べたら、その映画の紹介記事があった・・・以下に添付・・・
ーーーーー
 太平洋戦争の記録
 日本かく戦えり
 Motion Picture History of the Pacific War
 原題
 製作国 日本
 製作年 1956
 配給  大映
 スタッフ
 製作  安田日出男(ヤスダヒデオ)
     小畑敏一(オバタトシカズ)
 構成  高木俊郎(タカギトシオ)
 音楽  加藤三雄(カトウミツオ)
 編集  栗林稔(クリバヤシ)
 スクリプター
 ロバート・シャーロッド 
 中野五郎 
 加藤和雄 
 (米海軍省戦史編集官)ロジャー・ピノー 
 (元海軍作戦課長)大前敏一 
 解説
 アメリカの著名軍事記者
 (現在、米国最大の週刊雑誌
  サタデー・イヴニング・ポスト編集局長)
 ロバート・シャーロッド
 及び
 太平洋戦史研究家
 中野五郎両氏共編の
 日米綜合資料にもとづく
 「記録写真太平洋戦争史」によって
 記録映画化されたもので、
 アメリカ国防総省の
 特別許可により
 日本で
 独占製作されたものである。
ーーーーー
 ・・・で、あるらしい・・・母の姉の夫である伯父さんはビルマ戦線まで行って帰還してきた人だったが、「戦争は無くならないモノなのだ」とボクが小学の5、6年生の時に云っていた記憶がある・・・そして、夏休み、ボクが学校の図書館で借りてきた「竹山道雄」の「ビルマの竪琴」を「ワシにも読ませてくれ」と、云って読んでいた・・・「戦争は終わらない」・・・竹山は「戦争を否定」しない「自由主義者」だったらしい?・・・本当のところはどうなのか・・・そもそも「自由主義者」の本質とは「国家枠のプチブル個人主義」だと思うが「ビルマの竪琴」の作者は「反戦」ではなかったらしいし、よって、立つ場所も「プチブル意識の人間」であったらしい、詰まる所、「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニカエロウ」・・・「作者」は「戦争体験の水島」ではなかった・・・「インテリ日本人」に帰ってしまったのだ。そして、「国家枠のプチブル日本人として生きていた人間だった」・・・らしい・・・?
 「トルストイの小説、英語の前置詞、擬人法、詭弁」等のコトバを、中学、高校で教えてくれたのは友人の同級生の「S君」だった・・・彼は既にこの世の人ではないが・・・高校時代、電車(汽車)の中で「S君」と彼の友達と、ボクの会話で、ボクが「戦争は無くならないし、それに、やられる前にヤつけなきゃ、殺される」と「自衛隊擁護の発言」をしたら、「おまえ、それは詭弁だョ、ッ」としたたか嘲笑(わら)われたが、ボクには、その「詭弁(キベン)」と云う未知なるコトバの意味が解らなかったし、それが、ボクに対する批判的なコトバであろうことに躊躇していた。多分、「危険なコトバの意味かも・・・」と、勝手に推測し、平生な顔をしていたが、その意味を彼らには訊かなかった・・・それにボクが知っていた「戦い・戦争」とは「時代劇や、戦争映画」で見ていた「正義の戦い」であったから、「悪人」をヤつけるのは当然と思っていた・・・だが、彼らは「思想・信念」に於いてボクの遥か先を進んでいた・・・彼らにとっては「センソウ」そのものが「ワル」だったらしい・・・
 ボクも理不尽に殴るよりは殴られる方がイイとは思うが、無条件ではない。逃げるのが鉄則だが、相手と状況次第である。
 だが、中二から高校二年までは随分、イイ子で我慢していた・・・保育園~小学校一年生まで病気で入院する前まではガキ大将で近所の子供を片っ端から泣かしていた。退院してから他人の痛みを「毎日の注射」で知ったから、六年生まではイイコにしていたが、中学一年生になって、同級生に無自覚に権威的な無暴力のイジメをやっていた。だが中学校、高校では先輩序列社会であり、しかも、番外の番長グループが存在していて、生意気な奴だと目を付けられては殴られていたが、反撃をするコトはしなかった。だが、当時の校内番長は他校生徒からの「暴力」に対する自校生徒の防衛隊でもあった・・・
 ・・・それでも「正当防衛の反撃は当然」とは思っていたが、当時の学校はどうやら「双方、理由の如何を問わず、喧嘩両成敗」で、「おまえ、ヤラレタからって、変な気を起すなよ」が生徒指導の先生で、「仕返しを禁止」していた・・・それに、その時期、母親が病に倒れて入院していたせいもあるが・・・
  ↓↑
 「仕返しを教えない」とは、「苛められた生徒の行き場所」は「自殺」で自己アピールしかないかも。子供社会では「苛め」は当然な成り行きである。子供の個々としての自己主張、自覚形成と対人協力のプロセスが「子供社会のイジメ」でもあって、アタリマエである。そして、「苛めの暴力」は「序列、グループの権力形成の一部」でもある。弱い者は「子分」に成らざるを得ない状況がある。
 苛められた子はこのグループに靡かなかった「既に自立心の持ち主」か、
 親が極端な
 「基督教精神の信者」か、
 「ガンジー主義者」か、
 それとも、まったく、
 「理不尽(理由なし)にターゲット」にされた子供か、
 いずれにしても、
 結局、孤立し、自殺するコトで
 学校、社会の「権力・権威」の仕返しを期待しているのかも・・・
 教師は
 「今に見ていろョッ」の
 「人間としての仕返しの内容」を、
 そして、
 「喧嘩の仕方」を、
 「逃げ方」を噛み砕いて教えろ・・・
 「苛めグループのボス」には、
 その「組織の協力性」の意味内容を、
 「弱者を助けるモノ」として、砕いて教えろ・・・
  ↓↑
 ・・・「S君」や彼の友人が云っていたように、「戦争(暴力)には正義も悪義も無い。理屈も、屁理屈も無い。殺傷が在るのみ」である。そして、結果、「怨恨」が「正義の幻想」となっていく・・・映画の中「正義(仇打ち)の主人公」にはなれない世界である・・・「ハムラビ王(紀元前1792年~1750年・ハムラビ法典・Code of Hammurabi)」は気付いていたかも・・・だが、階級序列を払拭するコトなく、「怨恨」も「カネと序列の枠」で解決しようとしていた・・・
 「目には目、歯には歯(タリオの法・196、197条)」・・・「目には文字、把には葉」、そして、「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」・・・「強者」とはナニか?・・・「正義」とはナニか?・・・
ーーーーー
 「エズラ記」・・・ですか・・・その前に「ペルシャ」を調べなければ、ネッ・・・「重事等記」だから・・・
ーーーーー
 「エズラ記・1章」は「歴代志・下巻36章」と重複・・・
 ↓↑
 ペルシャ
 伊蘭・伊朗・意蘭
 イランの歴史時代は
 紀元前3000年ころ
 源エラム時代・・・・重等務
 アーリア人・・・・・蛙阿亜理吾訊
 の
 到来以降、
 王朝が建設
 ハカーマニシュ朝・・・葉掛蛙万似取
            破瓜海女似種
 (アカイメネス朝)・・・蛙甲斐(蝦夷)目音素
             赤い目音素
 紀元前550年・・・・・・紀元前五百五拾年
             起源繕語比訳語重撚(念)
 キュロス大王が・・・・究賂素
 メディア王国・・・・・目出意蛙
 を滅ぼして
 ペルシアを征服し、
 ペルシアから諸国を征服して
 古代オリエント世界の・・・織理縁訳
 ペルシア帝国を建国
 紀元前539年
 バビロン捕囚にあった
 ユダヤ人を解放
 ゾロアスター教・・・添賂蛙素他阿
 アケメネス朝・・・・蛙懸目音素
 マケドニア王国・・・万懸土似蛙
 アレクサンドロス大王・・・Alexander
              亜歴山
              有例句纂度賂素
 に
 紀元前330年・・・・・・・参百参拾
              纂比訳算重撚
 に滅ぼされた
 ディアドコイ戦争・・・・・出異蛙土拠意(故意)
 帝国は三分割
 セレウコス朝・・・・・・・施例得拠素
 (紀元前312年~紀元前63年)
 の支配下
 シリア戦争・・・・施利蛙
 紀元前247年
 ハカーマニシュ朝・・・葉掛蛙万似取
 ペルシア帝国を受け継ぐ
 アルシャク朝・・・・・蛙留試訳(借)
 (パルティア)・・・・葉留弖(出)意蛙
 が成立
 ローマ・シリア戦争
 セレウコス朝・・・・・施例得拠素
 が敗れると
 パルティアが離反
 パルティア滅亡後
 226年
 サーサーン朝・・・・・作蛙(阿)差吾務
 ローマ帝国と軍事衝突
 259年、260年
 シャープール1世は・・・写蛙附得留
 親征してきた
 ウァレリアヌス帝を・・・得阿例理蛙奴素
 エデッサ・・・・・・・・重出通差
 の戦いで打ち破り、
 捕虜にした
 イスラーム期に先立つ
 アケメネス朝以降
 帝国はオリエントの独自の文明を発展
 ローマ帝国やイスラム帝国に
 文化・政治体制などの面で
 影響を与えた・・・
ーーーーー
 旧約聖書
 エズラ記
 ・・・本日はサボリ・・・

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする