映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ベルヴィル・ランデブー(2002年)

2015-09-02 | 【へ】



 フランスのとある村で暮らすおばあちゃんと孫のシャンピオン(シャンピオンの両親は亡くなったらしい)。

 内気な(?)孫のため、おばあちゃんは、まず子犬をシャンピオンにプレゼントする。シャンピオンは喜ぶが、どうもイマイチらしい、、、。一体、この孫の興味のあるものは何なのか。

 テレビでピアノを弾いている男の画面に見入る孫を見て、おばあちゃんは埃を被ったピアノを孫に弾かせようとするが、やっぱりイマイチらしい。

 が、ある日、孫のベッドメイキングをしていたら隠されていたノートを発見したおばあちゃん。ノートには自転車の切り抜きが一杯。そうか、孫は自転車に興味があるのか、と、プレゼントしたのは三輪車であった。

 それから幾星霜。孫は自転車競技の選手として、ツールドフランスに向け、特訓中。孫の特訓をしているのは、あのおばあちゃん。でも、シャンピオンは、どうもツールドフランスではお呼びでないレベルらしい、、、。そして、そこから話は思いもよらぬ方向へ、、、。

 見ていて不快感を覚えるほどのデフォルメキャラと世界観、そして抑圧されたシャンピオン……。なんか、ぐったり、、、。

 
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 シルヴァン・ショメ作品です。まあ映画通というかアニメ通の方々は、本作からショメ作品は入り、『イリュージョニスト』(アニメ)→ 『ぼくを探しに』(実写映画)と進むんだと思いますが、私の場合は、 『ぼくを探しに』がショメ作品との出会いでして、逆流して本作へ辿りついたので、ちょっと受け止め方がヘンかも知れません。

 というのは、本作を見て、ショメさんの生い立ちがもの凄く気になってしまったのです。この人、実は幼少期、ものすごい抑圧されて育ったのではないでしょうか。 彼の詳しい生い立ちが紹介されているものが見当たらず、『ぼくを探しに』のパンフも改めて読み直したのだけれど言及はないし、本当の所は分かりませんが、もしかして、幼い頃に両親を亡くされているのかも、、、。

 なぜなら、『ぼくを探しに』と、本作の少年の設定が驚くほど似ているからです。どちらも両親が既に亡く、本作では祖母に、『ぼくを探しに』では伯母姉妹に育てられている少年が主人公です。まあ、本作の真の主人公は、おばあちゃんですが。

 でもって、どちらの育ての親も、ものすごく少年を抑圧しているのです、しかも善意でね。これがものすごく厄介な影響を少年に与えているのも同じ。何か、見ていて苦しくなってきてしまった。『ぼくを探しに』の主人公は、言葉がしゃべれなくなって、幼少期の記憶も失っています。もちろん、特に記憶の喪失については伯母姉妹だけの影響ではないんですけどね。

 で、本作ですが。アニメとしての云々は後述するとして、、、。

 シャンピオンが閉じこもりがちな少年なのは、どう見たって、幼いうちに両親を失っていることが大きく影響しているからであり、おばあちゃんに三輪車をプレゼントされても、おばあちゃんの家の庭でおばあちゃんの傍でぐるぐる・ぐるぐる三輪車で円を描くように回っているだけです。外へ自発的に出ていこうとしない子です。

 そして、青年になったら、おばあちゃんに尻を叩かれて自転車競技のためのシゴキを受けている。おばあちゃんは三輪車に乗って笛を吹き、シャンピオンが漕ぐ自転車に傘の柄をひっかけて急こう配を上って行く、、、。つまり、シャンピオンにとって、とてつもなく重い存在になっている、ってことじゃない? しかもシャンピオンはそれに気づいていない所がまた哀しいというか、可哀想というか。

 本作の評は、概ね、このおばあちゃんの孫を思う気持ちゆえの豪快な冒険譚が好意的に解されているものが多いのですが、私にはとてもそんな風に受け止められませんでした。ツールドフランスで、全然お話にならなかったシャンピオンは、(アメリカと思しき)異国のマフィアに誘拐され、異国に連れ去られますが、おばあちゃんは海を渡ってシャンピオンを救出に行きます。まあ、救出に行くのは分かるけれど、、、。

 青年になって以降のシャンピオンは、もうほとんどキャラとしては抹殺された存在です。どこまでも受身な存在としてしか描かれていない。マフィアの賭博道具とされ、ひたすらエアロバイクを漕いでいるだけ。意思も何も感じられない。これはつまり、「生きている」のではなく「生かされている」ということ、ただの道具として。青年シャンピオンの目は、死んでいます。

 最終的に、おばあちゃんは孫を救い出すことに成功しますが、ラストシーン、老いぼれたシャンピオンはおばあちゃんの家に一人でいます。壁にはおばあちゃんと犬の写真が、、、。彼の最後のセリフは「おしまいだよ、おばあちゃん」。もうこの世にいないおばあちゃんに言うのです。……そう、彼は、独りなのです。

 彼の人生は、一体何だったのか。ものすごく暗い気持ちにさせられました。おばあちゃんはいいですよ、そりゃ。孫をずっと手元に置いて、愛していると思って生きていたんでしょうから。しかし、シャンピオンは、おばあちゃんの方だけを見ていた人生で、果たして彼にとってそれが意味のある人生だったと言えるのか。考えようによっては、それでも彼は十分幸せだったとも言えるでしょう。でも、人生とは、詰まる所、自分のために生きてなんぼだと思っちゃうのですよ、私は。

 シャンピオンにとって、彼の人生の何分の1が彼自身のために生きたと言えるのか。そう思うと、私はおばあちゃんが憎らしくてたまらない。あのメガネを直す仕草、無茶苦茶ムカつくんです。ツールドフランスを目指して特訓したのは本当に彼自身のためなのか。もしかしたら、彼は、両親が亡くなった瞬間からもう、彼自身のために生きることを止めざるを得なかったのではないか。そんな風に思えて切ないのです。

 ラスト、老いぼれシャンピオンの背中にエンドマークが出る前に、“両親に捧ぐ”という献辞が出ます。これが意味深です。ショメ監督のご両親、健在なのでしょうか。それとも、、、。

 そんなわけで、ショメ作品の最初に本作を見ていたら、ゼンゼン違う感想だったと思うけれど、逆流したせいで、イロイロと屈折した見方をしてしまったような気がします。

 アニメ映画としては、本作の世界観が私は、あまり好きじゃないかも。キャラも、意図は分かるけれども、ちょっと不快感を覚えるほどのデフォルメで、正直、終始嫌な気持ち、、、というか、気持ち悪いと思って見ていました。素晴らしいんですけどね、その世界観も、それを表現する手法も音楽も。それはそうなんですが、私の感性には合わなかったです。『イリュージョニスト』の方が好きだなぁ。

 特典映像で、ショメ監督と高畑勲の対談があったけど、な~んか話が噛み合っていないような。そこでショメ監督は、とにかく既視感のある作品を作りたくなかった、観客を裏切る展開にすることだけを考えた、みたいなことを言っていました。まあ、確かに、ストーリーは見ている者を裏切る展開になっています。でも、気持ち良い裏切られ方じゃなかったです、私には。ひたすら、苦しかった。

 あ、でも、オープニングのショーのシーンは面白かった。アステアやジョセフィン・ベイカーが出てきたのはビックリというか、驚きました。動きも面白い。あと、音楽はホント、素晴らしい。音楽だけ聞いていたら、十分楽しめると思います。

 ショメ監督、もしかして、心に結構深い闇を抱えていらっしゃるのでは。もちろん、それをクリエイティブなエネルギーに昇華させているのでしょうけれど。次作での設定が、ちょっと見ものです。見るのが怖いような、、、。





世界観も絵も話の内容も屈折し過ぎで苦しい




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