切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府宇治市 厳嶋神社~下居神社

2017-07-01 00:38:12 | 撮影

厳嶋神社
 このところ梅雨の雨で、撮影の方は全くできずに日々を過ごしていた。今朝はかなりな雨だったが、昼頃には曇り空となり、その後晴れそうな感じがしたので、久しぶりにカメラを持って出る。
 宇治橋の南詰にあるファミレスで昼食をとり、その後、厳嶋神社へ向かう。宇治市の莵道という地域にあり、昔からの住宅街の中。軽自動車1台がギリギリの細い道を右へ左へと曲がって到着。
 


 神社の入り口の方へ歩き、正面から写真を撮って境内へ入る。周りは水田が少し広がり、古い民家が立ち並ぶ。すぐ隣には安養寺がある。
 境内は地域の人たちによって綺麗に整備されている。誰一人いなかったが、年に1回秋祭りの時には子供神輿も出て、かなり賑わうという。
 鳥居をくぐり小さな末社があり、続いて本殿が現れる。本殿の横には新羅神社という末社が建っている。厳島神社の本殿は、宇治市の指定文化財。
 宇治市に限らず京都市や府下の市町には多くのお寺や神社があるが、やはり文化的な政策には力を入れていて、ここにも由緒書や宇治市による説明板が立っている。おそらくここの神社は地域の人以外はあまり知らないだろう。この神社を載せている地図も少ない方だと思う。
 本殿はそれを取り囲む社殿と共に、全体として小ぶりながら、何か風格を感じさせる堂々とした建築物。
 神社の沿革については説明板のものを以下に載せておくが、同時に他のホームページに掲載されていた説明文の一部を転用させて頂いて載せておく。
      

『厳島神社の本殿は流造、鉄板葺で、切石を土台としています。元禄十年(1697)の棟札の写しなどから、造営年次が判明します。本殿前の灯籠・手水鉢にも同年の年記が刻まれます。
 社殿を飾る彫刻が豊富になる直前の時期で、落ち着いた意匠の建物です。五間規模の社殿は江戸時代でも数は多くなく、独特の平面形式も上質で、当初の主要部材がよく保たれています。
 江戸時代には弁才天社とも呼ばれ、境内の寛延元年(1748)銘の灯籠から境内で雨乞いが行われていたことも確認できます。
 現在は東から熊野・菅原・厳島・八幡・稲荷がまつられます。』

『由緒
 厳島神社は江戸時代には弁財天社と呼ばれ、元禄年間に現在地に遷るまでは、西方三町許の所に鎮座していた。古代の三室津の跡と推定される地に祭られた水辺の神であった。
 当地は宇治茶の主要産地であり、弁財天を祈雨の神として崇敬していた。
 三室戸寺は明星山の北西部の山中にあり、観音菩薩を本尊とする。平安時代に天台宗の寺院として近江の園城寺の別院として創建された。従って、園城寺の新羅善神堂を勧請したもの。
 十八神社が三室戸寺の鎮守として祭られていた。ここに新羅善神堂の神が勧請されていたが、明治十年、厳島神社に遷座している。新羅明神については、「素盞嗚尊御子なり母は稲田姫尊、五十猛尊紀州名草の社、近江国新羅大明神是なり」とあると言う。』


下居神社
 


 宇治市役所前の交通量の多い幹線道路に沿ったところにある。鳥居が道路に面しているのですぐわかる。境内まで100m ほど緩い坂道を上る。木々に覆われた比較的小さな境内。すでに青空が広がっていたが、境内は鬱蒼とした感じで、太陽の光は直接は差し込んで来ない。
 境内に入ってすぐのところに、万葉集の歌人として知られる額田王の詠んだ歌碑が置かれている。 本殿は予想してた以上に小さく、周りの柵も狭く本殿を囲んでいる。本殿は京都府の登録有形文化財。間近で見ることができて、木材の組み合わせや細い彫刻の部分もよくわかる。
 境内には誰もいなかったが、やはり地域の人たちによって綺麗に整備されているようだ。ただ周囲の民家はいわゆる新興住宅街になっている。したがって昔からの古い民家は見当たらず、住民の人たちも比較的新しいと思われる。
    

 それにしても意外なほど小さな本殿ではあったが、縁起にはかなり歴史があることが記されており、この宇治という地域も、宇治神社や宇治上神社、平等院など、歴史的にも重要な建築物があり、歴史の中で大きな位置を占めていることが感じられる。
 以下に縁起の説明文を載せておく。

 尚、額田王については、飛鳥時代の女性の歌人ということ以外、詳しいことはわかっていない。その名前は、日本書紀、万葉集に登場する。大化の改新前後に生きた人物で、その生涯については様々な説があって、特に確定したものはない。下居神社の歌碑は次のもの。ただしこの歌も、額田王のものかどうかは完全に解明されてはいない。
 

「秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治のみやこの仮庵し思ほゆ」


『縁起
 当社の創祀時期は明らかではありませんが、古来この地は斎明(皇極)天皇が行幸の途中に行宮を営んだ跡地と言われています。
祭神として、伊邪那美命、速玉男命、黄泉事解男命が祀られているほか、男神一体、女神二体の木造神像三体が安置されています。
 また、「万葉集」巻(一)の額田王のうたに詠まれている「宇治のみやこ」の場所だと言われ
ており、境内にはその歌碑が建立されています。
 なお、緑ゆたかで幽玄に満ちた境内は昭和59年に、京都府文化財環境保全地区に指定されています。』

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