切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府木津川市 岡田国神社、新旧二つの社殿

2017-06-17 00:17:48 | 撮影
木津川市の岡田国神社。


 京都から奈良へ通る国道24号線のところに、赤い鳥居がある。その下をくぐって神社が建設した陸橋を渡ると、岡田国神社の比較的新しい社殿が現れる。30年ほど前に、新たに再建された拝殿や本殿、社務所など一式。綺麗すぎるほど綺麗に整備されている。境内に入ったすぐのところに、社殿の再建の経緯が記された石版がある。かつては古い社殿があったものの、諸般の事情で全く同じ形態で新たに建てられたというもの。取り敢えず神社のパンフレットにあった沿革を載せておく。

『・創祀概略.
 岡田国神社の創祀は遠く飛鳥時代、斉明天皇の白雉五年(六五四)に生国魂尊を祀ったのが始まりと伝えられています。後年、境内敷地を発掘調査したところ、奈良時代前後の土器などはもちろん、はるか一万三千年前の石器までもが多数出土しました。
 奈良・平安時代に編纂された六つの官撰国史のひとつ「三代実録」によれば、清和天皇の貞観元年(八五九)、岡田鴨神社(従五位下)、岡田國神社(従五位上)奉授とあります。また平安時代、醍醐天皇の勅命により編纂された「延喜式」では、月次新嘗大社に列せられています。明治六年五月、郷社に列せられ、同十一年三月には「延喜式」内岡田國神社として確定されました。
 応仁天皇を祀った八幡宮の創祀は天慶元年(九三八)丁酉十一月と伝えられています。平安時代に入り、天神信仰が高まりつつあるのに従って菅原道真公を合祀以後は天神宮と称され、木津郷五ケ村の氏神として信仰を集めながら今日に至っています。また明治九年には稲荷社および恵美須社が字池田二十三番地より、厳島社が字雲村四十一番地よりそれぞれ遷宮され、現在の当神社の姿ができあがりました。このように千三百年以上もの歴史を刻んできた岡田国神社。その名前は、「東院毎日雑記」の応永三十五年(一四二八)正月にも見いだすことができます。

・社殿等由来
 旧本殿は安永三年(一七七四)十一月同拝殿は元和六年(一六二O)五月に再建されたものです。旧本殿は現在空殿になっていますが、境内に能舞台を中心にした拝殿、南北氏子の詰所が配置された構成は京都府南部の相楽郡地域に伝わる社殿配置形態であり、山城地方における室町時代の惣の社の姿を伝える重要な遺構です。岡田国神社は現在もこの形式が保存されている希少な神社として、昭和六十三年四月十五日、京都府登録文化財に指定されました。
 さて、当神社の背後には広大な山林社有地が広がっています,この土地は徳川家康公より拝領したものとして、その由来が伝えられています。
 それによると、天正十年( 一五八二)六月二日,本能寺の変により泉州堺の徳川家康公が急遽、領国である三河へ向かったものの、田辺町草内飯岡付近で主従ともに身の危険を感じ、ここより木津川西岸を上って木津に到着。その地の天神社にて休息し、神主にそこから先の道案内を頼みました。神主は息子二人に道中の食糧の手配をさせながら、現在の国道一六三号線を東へ、島河原正月堂多羅尾の代官所まで案内し、主従は無事に三河へたどり着くことができたといいます。その後、慶長三年(一五九八)に豊臣秀吉が死去し、天下を我がものとした家康公は同九年(一六〇四)京都所司代板倉伊賀守をつかわして社号等お改めの上、堺脱出時の天神社神主の功績に対する褒賞として、十一万坪の土地を当神社に下付。ついで元禄十年(一六九七)"境内の山林社領が下付され、これが当神社の財産として現在に至っているのです。
 昭和四十九年十一月、日本住宅公団の求めに応じて社有地の一部一万五千坪を売却し、旧本殿の老朽化と立地条件などを考慮した上で、これをもとに新本殿建立を計画。従来の相殿をあわせて新ご本殿とし、完成を待って昭和五十八年十月、現在地にご動座願ったものです。
 ちなみに、本神社参道は専用跨線橋になっていますが、ほかに例のないものです。』

 上記のように、創建の年代ははっきりはしていないものの、遅くとも奈良時代には記録として残っている。社殿の形態は奈良地方によく見られるもので、京都の方ではあまり例のない珍しいものとされている。
 たまたま木津の丘陵地開発の波が押し寄せ、所領の一部が宅地開発ということで売却され、その資金によって新しい社殿が、旧社殿と全く同じ形態で再建された。新旧同じものが2つある状態となっている。
  

 境内にいて写真を撮っていると、そこに宮司さんがやってきて話しかけてきた。この宮司さんがとても気さくで、よく喋る元気な人。年齢79歳という。聞いてびっくり。どうみても70そこそこという感じ。この後二人で境内に立ったまま延々と1時間40分も話をすることになろうとは思わなかった。
 神社のことについては、上記の内容をほぼそのままよく回る口で説明してくれた。住宅公団に売却した資金で新社殿を作ったが、口ぶりでは総額5億くらいかかっているような感じ。
 しかも今現在、三重県に通じる国道163号線の渋滞解消用のバイパス建設が進んでいて、またしても神社の所有地を通るということで、その部分を売却せざるを得なかったと言う。神社のすぐ西側にバイパスの基礎工事が行われており、同時に周辺の発掘調査が行われている。何分にもこの辺りは、掘れば何らかの遺跡などが出てくるような場所。建設にはまだまだ時間がかかりそうだ。そういうこともあって、周囲からはあそこの神社は金持ちだ、というようなことを言われているという。
 実際には宮司さんは、ここを含めて計3箇所の神社を管轄していて、そのうち1箇所は老朽化が進んでおり、再建しなければならないと言う。そのために売却した資金を使うことになると言われていた。しかもこの売却した土地は、上記のように徳川家康から拝領されたもので、随分悩ましい判断をしなければならなかったらしい。でも逆に言えば、昔の先祖が良い行いをしたことによって、後世の人がその恩恵に預かることができるということで、今生きてる人も、できるだけ人に対して積極的にいいことをするべきだと言われていた。なるほど。
 神社そのものの話はこれくらいで、後はこの宮司さんが生きてきた79年の人生の物語を熱っぽく喋りまくった。その話の内容がなかなか面白くて、こちらも楽しんで聞かせていただいた。
 自分の年齢を聞くと、「なんや、そんなんまだまだ若いやんか」と笑い飛ばしている。子供の頃に木津の上空をB29が、大阪方面へ飛んでいくのをしょっちゅう見ていたという。ある時何かの間違いで、一発の爆弾がこの近くに落ちたという。
 戦後は建築士として、大阪の大手建築事務所に長い間勤め、様々な建築物に携わってきたという。その頃、第二室戸台風に襲われ、大阪中之島一帯がとんでもない事になった話や、いろんなエピソードを交えながら話をされ、とうとう今の政治状況についての話にもなった。今の政権は好き勝手やっとる。権力握ってしまうと、やりたい放題。こんなんやったらほんまに昔、日本が戦争に負けて良かったと思う。もしか勝っとたら権力を振りかざして、周りの国に多分めちゃくちゃしとるやろう。そんなことを言っているので、かなり反骨精神を持っていることがわかる。
 最後はお互いの健康の話になって、足腰しっかりさせて、元気な生活をするにはあーだこうだと、おじいさん同士の話になった。
 というわけで、こちらは足がかなりしんどくなってきたのに、宮司さんは全然変わらずに元気一杯。ほんまにたいしたもんやと思う。この後、所有地の山の中に木を切りに行くということでようやく別れた。
 やっとこさ写真撮影再開、そして旧社殿の方に行く。
     
 旧社殿はその珍しい形態から、社殿全体が京都府の指定文化財になっている。本殿は江戸時代の再建だが、何れは重要文化財になっていくだろうというなかなかのもの。すぐ間近で見ることができ、約300年の風雪に耐えながらまだしっかりと建っている。詰所などの建物は、一部屋根が歪んでいたりして、修復する必要があるように感じられたが、貴重な文化財としてぜひ維持して欲しいと思う。指定文化財なので、少しは補助金が出るだろうが、基本は所有者の神社が維持管理をしなければならない。今後とも長く整備されればいいと思う。
  

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