切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

宇治にも厳島神社がある

2017-07-17 00:35:03 | 撮影

 今日も1日中暑く外をちょっと歩くだけでも汗が噴き出す。昨日に引き続いてまたもや、厳島神社へ行ってきた。と言っても我が家の近所にある同名の厳島神社で、車で10分足らずのところ。
  

 こちらも市杵島姫命を祀っており、これは水の神で、やはり広島の厳島神社を総本社としている。どこに水があるのか?
 この近くにかつて三室津という大阪湾から淀川を遡ってきた物資輸送のいわば、河川の港があったようだ。それに基づいて奈良時代後期に創建されたといわれている。今では場所も移ったようだが、昔はこの辺りの土地で人々から大きな支持を得ていたと思われる。
 今の本殿は元禄年間の建立のようで、石灯籠などにははっきりと「元禄」という年号が素人でも読み取れる。本殿の横に末社である新羅神社があり、大津の三井寺からの物らしい。
 
     

 いろんな情報を調べてみると、と言っても文献資料は持ってないので、あちこちのネット情報だけども、厳島神社についてはさまざまな古文書に記録があって、割と詳しいことが分かっているらしい。
 宇治市は人口約19万人で、観光産業のほか大手企業の工場もあるが、同時に京都、大阪への ベッドタウンとしての性格もあって、住宅密集地域でもある。でもこの神社の周辺はそんな市内の中でも比較的珍しく、農村の雰囲気があるような地域だ。多分市民のほとんどはこの厳島神社の存在を知らないだろうと思う。近くに三室戸寺や国宝の宇治上神社、同じく国宝の平等院などがあって、そちらの方が世界遺産でもあり圧倒的に有名で、いくら歴史ある厳島神社といえども地域住民以外にはなかなか知られようがない。
 細長い境内は鳥居の前にまで住宅が迫っているが、内部は非常に静かで落ち着いた雰囲気。地域の人たちによって綺麗に整備されていて、大事にされていることがよくわかる。本殿は宇治市の指定有形文化財となっている。まぁ後200年位すれば国の重要文化財ぐらいになるかもしれない。
 こういうところを訪れていると、ただ単に簡単な解説をその場で読んでいるだけではなく、総本社の厳島神社のことや海の神である市杵島姫命のことなども調べたくなってくる。そうなれば古事記などの文献も読む必要があるだろう。単なる神話として扱うのではなく、当時の人々がどのような思いや考え方の中からこのような物語が生まれ、さらに当時の実際に起こったことなども書かれていると思われるので、一度解説本を読んでみたいと思う。
 しかしそれにしても、遙か昔に名づけられた神の名が未だに各神社の祭神として残っているというのも、ある意味凄いもんだと思う。もちろん神話自体は全く信じていないし、あくまでも古代人たちの創作が、どのような当時の社会情勢のもとで生まれてきたのか、ということそのものに興味がある。そしてそれらが千何百年という長きにわたって、延々と受け継がれてきているということ自体に非常に興味がある。
 下の文は神社に立てられていた説明札のものを載せておいた。


『厳島神社
 当社は、江戸時代は弁財天社と呼ばれ、元禄年間に現在地に移るまでは、その西方三町ばかりのところにあり、古代の三室津の跡と推定される地に祀られた水辺の神であったとされる。
 当社のある旧大鳳寺村は、江戸時代を通じて智積院の唯一の寺領として、五百石に維持されていた。当社はその産土神として村人の座により支えられていたものらしい。近世の大鳳寺村は、宇治茶の主要栽培地であり、海神である市杵嶌姬命(いちきしまひめのみこと)を祀る当社
を祈雨の対象として崇めていたのであろう。
 境内には、造成された基壇の上に本殿と末社(新羅神社)が建つほか、別の末社(大神宮)も位置する。また、社頭には元禄十年(一六九七)、元禄十一年(一六九八)、寛延元年(一七四八)の石灯籠があり、更に拝殿がある。
 本殿は様式から見ると元禄年間の建立であり、その十年ころまでに完成したのであろう。つくりは良材でできており、正統的である。また、装飾細部の気分は、この時期としてはやや正統的すぎて保守的に感じられる。背面から見ると五間社であることがわかるが、向拝と身舎の正面は三間につくり、身舎正面は、吹流しとする。
 境内の森は、旧大和田村から三室戸へ通じる旧道に面しており、昔の茶師の家も近くて、良い環境が残されている。
規模形式五間社流造、柿葺(鉄板仮葺)』

『厳島神社本殿
 宇治市指定文化財

厳島神社の本殿は流造、鉄板葺で、切石を土台としています。
元禄十年(1697)の棟札の写しなどから、造営年次が判明します。
本殿前の灯籠・手水鉢にも同年の年記が刻まれます。
社殿を飾る彫刻が豊富になる直前の時期で、落ち着いた意匠の建物です。
五間規模の社殿は江戸時代でも数は多くなく、独特の平面形式も上質で、当初の主要部材がよく保たれています。
江戸時代には弁才天社とも呼ばれ、境内の寛延元年(1748)銘の灯籠から境内で雨乞いが行われていたことも確認できます。
現在は東から羆野・菅原・厳島・八幡・稲荷がまつられます。』

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