切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府相楽郡精華町 祝園神社・・・奇祭「いごもり祭」

2017-10-19 23:44:34 | 撮影

 祝園神社へ行く。

 相楽郡精華町はかつて勤務地があった町で、町内はほとんど知っている。祝園神社については当時から名前だけは聞いていたが、関心がなかったので、それ以上のことは何も知らない。担任していた生徒の家が祝園神社のすぐ近くにあったが、鳥居も見た記憶がない。退職して齢取って、こういったものにも目が向くようになって、改めて各地を回る中で、かつての勤務地にもあちこち行くようになっている。
 精華町ではすでに新殿神社に行ったが、今回は祝園神社。しかし行くべきところはまだある。時間ができたらまた行って来るつもり。
 神社は木津川の西岸の住宅と田畑が広がる中にある。神社そのものの由緒については、社殿の中に掲示されていたので、それをそのまま載せておく。けれどもなかなかちょっと分かりにくい。文章に「記紀参照」とあるが、これは「古事記」「日本書紀」のこと。由緒をたどるとこんな大昔の時代にまでさかのぼることになる。祝園神社の名前そのものは、古文書の中で登場する年代から、遅くとも奈良時代には存在していたことが分かっている。

   
 
 境内は非常に綺麗に整備されており、各社殿も綺麗な状態で保存されている。ただし、本殿は周囲全てを覆屋で囲まれ、全く見えないと言っていい状態。祝園という名前はこの地域一帯に広がっており、近くを走る近鉄京都線、JR片町線の駅名にも祝園が使われている。

    

 この地の現住所表記は正確には、「精華町祝園柞ノ森18」となる。柞ノ森は「ハハソノモリ」と読む。「祝園」と共に古来からの伝承に基づく地名で、由緒にも出てくる。
 元をたどると下の由緒書きにあるように、武埴安彦がこの地で討伐され、同時に多くの部下たちも殺されて、死体がここに埋められた。この地が羽振苑「ハフリノソノ」と呼ばれ、「ハフル」というのが、死体を「放る」の意味から、この言葉が今の「祝園」につながったと言われている。尚、柞ノ森「ハハソノモリ」についても、かつては「ハフソノ」と読んだという。
 そして武埴安彦の魂がこの地に止まって、人々を悩ましたと言う。武埴安彦が殺された時に、首がここの地に、胴体が涌出の森に埋められたと伝えられている。そして人々を悩ます魂を鎮めるために、ここの神社が創建されたといわれ、さらにその魂を撲滅させるために行われるようになったのが「いごもり祭」だと言われている。
 以前紹介した、東側に隣接する木津川市の棚倉にある湧出宮まではわずか3km足らず。この2つの神社で、ともにいごもり祭が行われているというのも、古代からの言い伝えによるもので、もちろんどこまで史実に基づいたものかは分からないが、現代社会に至るまでこのような催事が脈々と受け継がれていることにも、ある意味非常に感心させられる。
 

 今では両神社のいごもり祭はそこそこ有名になったが、数十年前までは両地域でひっそりと行われていて、地元の人しか知らないような催事だった。民俗学者が、火を使った希少な催事があるということを聞きつけて、祝園神社を調査に来て、そこで湧出宮でも同じようなことが行われていることを知り、調査に入ったという。様々な資料を見てみると、この件に関してはさらに他の伝承にもつながっており、興味深いものが色々とあるが、深みにはまる前にこの辺りで留めておく。


『祝園神社
鎮座地 精華町大字祝園小字森一番地
御祭神
 天児屋根命
 健御雷命
 経津主命
御由緒沿革
 人皇第十代崇神天皇の御代第八代考元天皇の皇武埴安彦が朝廷に反逆を企て遂に此の地に於いて討伐さ札れたが(記紀参照)亡魂柞ノ森に止り人民を悩ませしを第四十五代聖武天皇神亀年中にこれを撲滅せんとするも魂神の所業なれば人力にては如何ともなり難く、後年第四十八代称徳天皇の卸代神力を以てこれを撲滅せよとの勅命により、直臣、池田六良廣綱、宮城七良朝藤が祝部となり、神護景雲四年一月二十一日春日の大神を御勧請し創祠された。而して齋戒沐浴精進祈願に依り(これが今に伝わる、いごもり祭の始まり)神カの擁護の基に遂に悪霊撲滅の難業成リ廣綱朝藤の功と相俟って漸く悪病平癒人民安堵農家の繁栄商工業の隆盛を見るに至った。かかる霊験灼かなる神なれば貞観元年正月二十七日に神階位従五位下を授けられ後年延喜式内大社に列せられる。天正四年七月二十四日には天下泰平の国宜あり院參の官人及び武門武将の尊崇深く社殿の修造に寄進のが事しばしば見受けられ慶應三年八月には有栖川官家より夥しき御寄進を賜わり同宮家の御祈願所となる。明治六年郷社と定められ祝園村の産土神と決定した旨達せられる。
 昭和三十八年高松宮殿下より有栭川宮威仁親王殿下五十年祭に當り同殿下の筆録を御寄進有り。
 (境内説明書きより)

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