切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都市上京区 閻魔大王さんと釘抜地蔵さん

2017-07-12 00:13:02 | 撮影

 今日は朝からとにかく暑い、暑すぎる!天気予報では午後は曇りだったが、青空が続いていたので撮影に出ることにした。まだ行ってないところは少なくなりつつあるが、上京区にある引接寺・本久寺・石像寺の3箇所。

 猛烈な暑さの中を車の窓全開で走るものの、涼しい風どころかまるで熱風が吹き込んでくるようで、仕方なくクーラーを入れる。走りながら、運転しながら熱中症になってしまったのでは目も当てられない。爺になるとそういう心配もせんとあかん。確かにクーラー入れると快適にはなる。その代わり燃費がちょっと落ちる。まあそんなにケチケチせんでもええと思うけども。
 24号線から千本通に入る。京都市の西半分はまだ交通量はましな方だ。堀川通りと言う片側4車線の大通りがあるので、大概の車はそちらへまわる。それでも京都の奴等は、あまりにも路上駐車が多くて、片側2車線あるところは歩道側に平気であちこち駐車しているので、実質片側1車線のありさま。もっともっとこいつらの取り締まりをやれと思う。
 コンビニでおむすび昼食をとって、1番目の引接寺に到着。境内にそのまま駐車できる。ここは別名「千本ゑんま堂」と呼ばれ、そちらの方が有名である。地元の人以外、引接寺という呼び名は知らないだろう。境内は月極駐車場としても利用されていて、お寺にとってみれば貴重な収入源となる。日本の貧困な文化行政の実態からすれば、これも仕方のないことだろう。
 本堂に閻魔様が控えるが、今日は直接拝観はしなかった。社務所の人に頼めば説明と共に扉を開けて見せていただけるが、ちょっと時間が遅かったので、手前にあった写真だけに留めた。

   

 境内には紫式部を供養するために建立されたといわれている十重塔があり、南北朝時代の至徳三年(1386)、円阿上人の勧進により建立されたとの刻銘がある。国の重要文化財に指定されている。境内の奥には多数の石板の地蔵仏が並んでおり、なかなか壮観。見終わってからやはり、お寺の人に頼んで15世紀に作られたという閻魔大王を見ておくべきだったと後悔した。

     
 
 頂いた説明書きから一部を下に引用しておく。

『引接寺
 百人一首でも知られる小野篁卿(参議篁802-853)は、この世とあ の世を行き来する神通力を持っておられました。昼は宮中に赴き、夜は閻魔庁に仕えたという篁卿は、閻魔法王より現世浄化のため、亡くなった先祖を再びこの世へ迎えて供養する「精霊迎え」の法儀を授かりまし
た。この「精霊迎え 根本道場として、朱雀大路(現·千本通り)で当時、風葬地「蓮台野」の入口に、篁卿自ら閻魔法王の姿を建立しました。それが当ゑんま堂の始まりです。
 その後、寛仁元年(1017)に、比叡山恵心僧都源(えしんそうずげん)の門弟定覚上人が、藤原道長公の後援を得て、諸人化導引接仏道の道場として引接寺と命名され、開山されました。
 本堂は往古の閻魔王宮を模し正面中央に閻魔法王、右脇に司命尊、左脇に司録尊が安置されています。また壁面は、現存する地獄壁画の板絵としては我が国最大のもので室町・桃山時代に狩野光信等により描かれたものです。
 ポルトガルの宣教師ルイスフロイス(1532-97)の著書「日本史」の中にも、閻魔法王とこの壁画の事が記録されています。』

『本尊 閻魔法王
高さ2.4メートル 幅2.4メートル木製
ゑんま様は怖いお顔から、地獄の支配者のように思われますが、私達に最も身近な仏様です。
死んでしまった人間を、あの世のどこへ送るかを決める裁判長の役目を担っていらっしゃいます。ゑんま様は、人間を三悪道には行かせたくない為に、怒りの表情で、地獄の恐ろしさを語り、嘘つきは舌を抜くと説いて下さるのです。
京の都が火の海となった応仁の乱の為、当初の閻魔法王は焼失され、現在のお像は長享二年(1488)仏師定勢により刻まれ再現安置されています。』


 次に数百メートル離れた本久寺に行く 比較的小さなお寺。境内に入ってすぐ鐘楼があり本堂が見られる。本堂は建て替えられたのか、かなり新しい感じ。特に説明の立て札もなく情報が足らないが、16世紀の建立。

 


 本久寺のすぐ隣が石像寺。ここも別名の方が有名で、釘抜き地蔵と呼ばれている。千本通りに面しているが、参道を奥の方へ進み境内に入ると、すぐ本堂が目につく。
 その本堂の両側面にびっしりと八寸釘と釘抜きがセットになった絵馬が貼り付けられている。なかなか壮観と言える。なぜ釘抜地蔵と呼ばれるようになったのかは、社務所でいただいた縁起に書かれているのでその文章を以下に載せておく。

     

 本堂の裏に回ると、鎌倉時代につくられた石像弥陀三尊像が鎮座しており、これは国の重要文化財に指定されている。比較的小さなお寺ながら、見所がいっぱいの寺院で参拝者もかなり多いらしい。
 元々の弘法大師さんによる、人の苦しみを和らげてあげよう、抜いてあげよう、という「苦抜き」がいつしか釘抜きと転じて、多くの人々の信仰を集めている。社務所で住職の奥さんかどうかは分からないが、おばさんと暑いですねなどとお話をしているなかで簡単な話も聞けた。再来年が創建1200年になるというすごい歴史のある由緒あるお寺だということを改めて思った。

   

 今日の気温は多分36度ぐらいだと思う。境内を少し歩き回ってるだけで汗が吹き出してくる。他にも年配の参拝者がいたが、水分をとりながら行動してないと本当に熱中症になるかもしれないほどの暑さ。まあ今日は思った以上に収穫があった。

『釘抜地蔵略縁起
 当寺は弘法大師が弘仁十年(八一九)に開創せられたものであります。
 本尊釘抜地蔵尊は大師が唐より御帰朝の時に、舟に積んでこられた石に、地蔵菩薩の尊像を、自から刻みたまい、日夜に衆生の諸悪、諸苦、諸病を救い助けんと御祈願された御丈三尺六寸の石像でございます。
 その当時は種々の苦しみを抜き取り下さる御地蔵様というところから、苦抜地蔵尊と申し上げていたのであります。
 釘抜地蔵尊と申し上げる因縁は、後奈良天皇の御代、弘治二年(一五五六)の頃、油小路通上長者町のあたりに紀の国屋道林という人が居りました。この人はその当時の京都で有数の大商人でありましたが、四十才の時、何事もないのに両手が非常に痛み、その痛み堪難く、いろくと治療をつくしましたが、その効果少しもなく苦しんでおりました。その吃当寺の地蔵尊が霊験あらたかに渡らせ給う由を聞き、願をかけて祈りましたところ、満願の夕べ、道林は夢の中にて地蔵尊が道林に次の如く告げてのたまうのを聞きました。
「汝この度の痛みは常の病にあらず、前世に人を怨み、仮の人形を造り、その両手に八寸の釘を打ち呪いたることあり、その罪かえりし汝が身にその苦しみを受く汝幸に吾に残報を祈る。故に吾神力をもってかの昔の怨み釘を抜き取れり。これを見よ」
と11本の釘を示したまう。道林は夢さめてみると両手の痛みはたちどころになおりました。急ぎ当寺に来り寺僧に乞いて御厨子の前に進みて伏して拝みたてまつれば、不思議や、尊像の御前に朱に染まった二本の八寸釘がありました。道林をはじめその他なみいる諸人は身の毛もよだつばかり驚きました。道林はそれより百日を期して日参し、その恩の万分の1にもと奉謝したと伝えられております。その時より本地蔵尊を釘抜地蔵尊と申す次第であります。
 これについては御詠歌集に次の御詠歌が出ております。
 世々ふとも ゆるぎもやせじ 怨み釘佛のみ手に取るぞかしこし
 当寺は弘法大師の開創の時は光明遍照院石像寺と申され八町四方もあったといわれます。藤原家隆卿が落髪されて入寺されてより家隆山と申しました。現在では詳しくは家隆山光明遍照院石像寺と申すわけでございます。藤原の大歌人、定家,家隆、寂蓮の三卿は当寺に住され、現在も御墓がございます。境内には弘法大師が自からお掘りになられ、加持祈、また日夜これを汲んで御供養されたという、京都三井の一つと伝えられる有名な井戸があります。なお地蔵堂の背後には重要文化財の石像弥陀三尊像が安置されております。
 この弥陀三尊には造像銘があり、鎌倉時代初期の元仁二年(一二二五)に開眼されております。これらの石佛は、一尊を台座、光背共に一石で作り出した石像としては全国的に最も古い年号をもつ像であるだけでなく、花崗岩石佛の美しさをこれ程まで見事に示しているものは非常に稀であります。』


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