切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

奈良の大仏さん・・・ただただ圧倒されて

2017-06-18 00:18:01 | 撮影


華厳宗大本山 東大寺

パンフレット記載の簡単な経緯

『「奈良の大仏様」と呼ばれる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とする東大寺。正式名称は「金光明四天王蓄之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」で、良弁僧正を開山とする。華厳宗大本山の寺院です。
 聖武天皇が夭逝した皇太子の菩提を弔うために建立した金鍾山寺 府、特に(きんしょうさんじ)がその起源。天平13 (741)年に「国分寺、国分尼寺建立の詔」が発せられたことにより、金鍾山寺が「大和金光明寺」 仏開眼とされ、これが東大寺となってゆきます。
 奈良時代は華やかであると同時に、政変や天変地異、飢饉、天然痘の流行などが相次いだ時代でもありました。そうしたなか、聖武天皇 中心は人々の心の拠り所となるよう慮舎那仏の造立を発願。「一枝の草、 一把の土」という僅かな力でも構わないとして心からの賛同をよびかけに尽力。時の国民の半数もの人々が協力し、大仏様は完成しました。さらに天皇は、建築、河川の整備、福祉、医療など、人々が安心して暮らしを迎えさせるような政治を行いました。また、聖武天皇の后 光明皇后も、貧窮者や孤児の救護施設である「悲田」や医療施設である「施薬院」を設置するなど、慈善事業を始めたことで知られています。
 東大寺を襲った最初の危機は、治承4(1180)年に起きた「南都焼討」。平清盛の命を受けた平重衡らの軍勢が、東大寺や興福寺と 宇ヵ蟲いった全良(南都)の勢力を攻撃し、大仏殿をはじめ、伽藍の大半が焼失しました。
 その際に復興事業を任されたのが、俊乗坊重源上人(しゅんじょうぼうちょうげんしょうにん)です。翌年、大勧進に任命され、鎌倉幕府、特に源頼朝の全面協力を得て、大仏の修理や大仏殿の再建などに着手。早くも文治元(1185)年には、後白河法皇を導師として「大仏開眼供養」が行われました。建設に従事する人々のために「大湯屋」を整備したのも、重源上人だといわれています。
 その後、室町時代の永禄10 (1567)年には、「三好・松永の乱」で中心伽藍のほとんどが焼失。その後の復興には公慶上人(こうけいしょうにん)が生涯をかけて諸国を勧進し、大仏の修復と大仏殿再興に尽力しました。
 以降も東大寺は明治の廃仏毀釈や戦争など、たびたび苦難の時代を迎えましたが、1998年には、「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコの世界遺産に登録。世界各国から人々が訪れています。
天平勝率(752)年から連綿と続く二月堂の修二会㈠ゆにえ)は、春を迎える行事「お水取り」として有名です。
 広い境内を歩くと、先人たちの功績を伝えるために建てられた堂宇が点在しています。そこには、創建の礎となった「全ての生き物を慈しむ思い」が、今もあふれています。』

 
        

 京奈和道を走って行ったのは、誰もが知る世界遺産の東大寺。(1週間経ってやっとUP)
 東大寺にはもう既に10回以上来ている。でもそのほとんどは校外学習などで、生徒を引率してきているので、大仏は見たものの ゆっくり見てる暇もなく、まして大仏殿以外の場所はほとんど見たことがない。ということで今回は、広大な境内の主要なところを回った。
 もちろん国宝南大門から中門、そして同じく国宝の大仏殿。盧遮那仏。まあとにかくものすごい人。やはり 欧米の外国人が目立つ。 そして中国人、日本のツアー団体客、更に各地からの修学旅行生たち。何と韓国の中学生の修学旅行も来ていた。
 境内があまりにも広いので、混雑という感じはしないが、やはりものすごい人だ。引率で 十分に見られなかった大仏様をじっくり見て、いろんな角度から写真におさめる。もちろん外国人達も巨大な大仏に見とれて、シャッターを切っていた。
 柱の穴をくぐると良いことがあると言われる場所は満員で、修学旅行生や外国人も穴をくぐっていたが、 太めの人は途中で諦めて、後ろから抜いてもらっていた。みんなゲラゲラ笑って、ここだけほんと楽しそうな場所になっていた。
 国宝の大仏殿の中で、お店が出ていて東大寺グッズを沢山売っていた。もちろんお守りと仏像の写真絵葉書を買う。
 次に坂道を登って法華堂、いわゆる三月堂。ここには国宝や重文の巨大な仏像がずらりと並ぶ。見応え、迫力十分。
 さらに四月堂、そしてお水取りで有名な 二月堂、その後一休みして 大仏殿との間にある、国宝の鐘楼と巨大な梵鐘。その他いろんな 重要文化財の建物があるが、名前が覚えきれない。また坂を上がったり下がったりで、暑くて疲れる。修学旅行生たちはさすがに元気一杯で、キャーキャー言いながらあっち行ったりこっち行ったり、鹿を相手に大いに楽しんでいた。
 合計3時間弱。これでも全部回りきれていないので、いつかまた来なければならない。またすぐ近くには興福寺と春日大社がある。ここもいずれ行かなくてはならない。こうしてみると奈良も本当に大したもんやと思う。この一帯は清水寺並みに、あるいは嵐山並みで、決して負けてはいない。もちろん世界遺産だけのことはある。

 
 
 
 
 

(他HPからの引用)

(建長五年の刻銘) 
 
 
 
 


 東大寺の歴史、沿革については、語る必要がないほどネット上にも情報が溢れているし、一番いいのは東大寺のホームページを見ると、知りたいことのほとんどが載せられている。どうしても巨大な盧遮那仏に注目が集まってしまうが、それ以外の貴重な多くの仏像にも 目を向けるべきだし、境内のあちこちにある色々なものが、思いがけない程のものであったりもする。たまたま法華堂の近くにあった、大分形が磨り減ったような石灯籠を見てみると、奉納(?)された年代が「建長五年」と記されていて、すぐ調べてみると、なんと鎌倉時代のものだった。普通の寺院であればこれだけで、何らかの文化財指定になるほどのものや。東大寺はでかすぎて、文化財が多すぎて、石灯籠一つにまで目が向かないのかも知れない。とこの時は思っていたが、帰ってから調べると、やはり重要文化財指定だった。こういうものをじっくり見ているとまる1日かかりそうな感じ。
 東大寺はあまりにも有名なために、特に宣伝する必要もなく、国内外から大勢の観光客がやってくる。そういった意味では、説明の看板に英語や中国語も一緒に書かれていてもいいと思う。単に目の前の文化財を見るだけではなく、ある程度その背景について知ることができれば、見る目もさらに豊かになると思う。修学旅行生たちは多分事前学習してくるだろうけど、その年代で 受け止める印象と、大人になってから感じる思い、あるいはシニアになってから改めて受ける思い、というのはみんな違うだろう。そういった点からも、歴史的な背景、当時の人々の思いや願いといったものにまで、心を及ぼすことができれば、より一層深く見ることができると思う。



 先に記したとおり、何度も来ているが、その都度圧倒される。気持ちの中に何か、爽快感のようなものが湧いてくる。境内の広大さもあって、心広々・・・・まぁしかし、爺の脚にはいささかしんどいものもある。カメラももっと軽い物を用意せねば。
 次回はもう少し細かなところも見てみよう。またミュージアムにも入らねば。

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