切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府宇治市 恵心院・・・空海さんも源信さんも関わっていた

2017-09-20 23:47:31 | 撮影
  (他HPより)(江戸時代の宇治橋の図。中央右寄りに「恵心院」が見られる)

 恵心院は、宇治橋から宇治川を少し遡ったところにある。対岸には平等院。こちら側には宇治神社や国宝の宇治上神社などがあり、シーズンは大勢の観光客で賑わう。この日はシーズンオフで平日であったので、観光客もまばらではあったが、それでもそこそこ人が来ている。ほとんどの人が上記の有名な寺社に行ったり、川べりを散策したりしているが、恵心院はわずかに横道を入るので、中には気がつかない人もいるみたい。
 小さな表門を入ると、数人の観光客が来ていた。ここは別名「花の寺」と言われ、シーズン各々に様々な花が、境内のあちこちに咲く。これほど多くの樹木や花が密集している境内も珍しい。自分は植物はさっぱりわからないので、綺麗な花が咲いているな、と言う程度のレベルでしかない。
 
 石畳の通路を順路に沿って進むと、思いの他、広い境内を周回することができる。表門を入ってすぐに本堂が現れる。延宝四年(一六七六)に建立。京都府指定有形文化財。多分この中に本尊の、木造十一面観音立像があると思うのだが、この日は公開していなかった。平安時代の作で、宇治市の指定文化財。
 お寺に来た時にはなるべく本尊を見たいとは思うのだが、比較的小さなお寺では、期日限定で公開というケースが多く、普段は公開していない、或いは事前に電話で予約する必要があるところも多い。普段は拝観料は取っていないが、本尊公開とか花のシーズンなどには、拝観料を徴収して公開する場合があるようだ。まあ近いので、そういう時に改めて来ようと思う。
     
 沿革については説明書きがあって、それを下に掲載しておく。その説明にある様に、弘法大師によって創建されたと言われており、後年、恵心僧都源信によって再興されて、その名前から恵心院となったと言う。
 先日、奈良国立博物館で源信の往生極楽及び地獄の展示を見てきたが、その源信の関わっていたお寺が近くにあったとは思わなかった。恵心院には今まで何度も境内に入って写真を撮ったりしてきたが、寺の名前など気にもしてなかった。去年あたりから寺院や神社の様々な由緒などに関心が向き始めて、改めて興味深く見ることができた。境内は広くとも社殿は少ないが、宇治川の流れの音を聞きながらゆったり見て回ることができる。ベンチもあるので落ち着いた時間を過ごすのも良いと思う。
 

『恵心院
 当寺のはじまりは、弘仁12年(821)に真言宗の開祖弘法大師によって開かれた古刹龍泉寺と伝えられていますが、やがて、「往泩要集」の編者として名高い恵心僧都源信によって再興され、恵心院と称するようになったと伝えられています。源信は、宇治川に入水した源氏物語宇治十帖のヒロイン浮舟を助け、新たな道を歩ませることとなった横川の僧都のモデルもいわれています。近世にはいると、春日局との縁故もあり、宇治茶師上林一門の後援を受けました。

本堂には平安時代後期の「木造十一面観音立像」が安置されています。
宇治市指定文化財  平成三年三月三十日指定
木造十一面観音立像  一軀  恵心院蔵
  一木造 古色 彫眼
  像高 九一 ·五センチメートル
  平安時代
(他HPより) 
(他HPより)
  
 恵心院は寺伝によれば、弘仁十三年(八二二)空海の創建になるという。初め寺名は唐の青龍寺に似ているところから龍泉寺と呼ばれたが、平安時代中期の寛弘年間(一〇〇四~一〇一一)に恵心僧都が再興して、以後寺号を恵心院と称するようになった。その後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けて諸伽藍の整備が行われたと伝える。現在は本堂、表門のみを残している。
 木造十一面観音立像は、恵心院の本尊である。ほぼ直立に近い姿で、太い頸、脇を締めた体型などやや重厚な感じをのこしている点や、衣文の数が少なく簡素な表現を示しているあたりに、十世紀頃の典型的な作風を見ることができる。
 宇治にのこる数少ない十世紀の作例として貴重である。
  平成四年三月
    宇治市教育委員会
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