和伎座天乃夫岐賣神社は、JR奈良線、棚倉駅のすぐ前にある。
鳥居をくぐると参道が東へ続き、北へ曲がると四脚門に到着する。結構広い境内を有しており、社殿や拝殿、本殿、社務所などが整然と並んでいる。かなり有名なこの神社のことを、つい最近まで全く知らなかった。
境内にはこの神社の説明書きの他に、取材を受けた新聞記事がそのまま掲示されていた。自分としては、京都府登録有形文化財の本殿や拝殿、また貴重な石灯籠などを目当てに行ってきたのだが、この神社はそれ以上に、国の重要無形民俗文化財に指定されている「いごもり祭」が非常に有名だということを、この場所に来て初めて知った。
写真を撮りながらなかなか凄いところだなと思っているところに、たまたま宮司さんがやって来られたので少し話をした。
やはり無形文化財に指定された「いごもり祭」の話が中心となった。
この祭りは、この地域周辺だけで長年行われてきたものだったが、京都の民俗学の父と言われる井上頼寿氏が中心となって、始めは精華町にある祝園神社の「いごもり祭」を調べに来た。その時に棚倉の方でも、同じような火を使った祭りがあるとの話が出てきて、こちらの方へも調査が入ったと言う。
その調査の結果、この祭りそのものが千数百年前から変わることなく、神事として同じ形で守られてきていると言うことがわかり、研究論文、書物にまとめられて世に知られるようになったと言う。後日、文化庁からの調査も入り、極めて貴重で珍しい祭りとして、重要無形民俗文化財に指定されたと言う。
祭りそのものは下の説明書きにある通りだが、そのきっかけの話が、「古事記」に出てくる武埴安彦命の霊を祀ることがきっかけだとのこと。とすれば、紀元前に起こった話のことが起源ということになる。
伝承によれば奈良時代の終わり頃に、この周辺の人々によっていごもり祭が行われ始め、宮座と呼ばれる複数の家筋の人々によって、千年以上、今に至るまで同じ系列の家の人々によって続けられてると言う。
宮座の中には消滅してしまったものや、本家、分家が分かれて宮座の範囲も複雑になっているケースもあるようだが、基本的には家筋は千年以上続いているのだと言う。実際にそれを示す古文書もあるとのこと。これ自体がすごい話だと思う。神事としての祭りは、その内容も形式も大昔から全く変わらずに行われてるとのこと。この現代文明の世の中に、そうしたものが継続されているというのは、民俗学的なテーマとしては大変興味深い壮大なものだと言える。
やはり経済的な問題もあって、各宮座の人々も決して余裕があって行なっているわけではなく、かなりな経済的な負担や努力が必要だと言う。今ではこの祭りもかなり知られるようになって、2月の当日にはかなりな人出があり、露店も出て賑わうとのこと。
(他HPより)
また神社の境内は、古代弥生時代の遺跡の上に位置しており、発掘調査によって多数の土器などが出てきており、古代遺跡の指定も受けている。
このようなことを知るにつけ、ますます興味がわき、すごい由緒のある神社だなと改めて思わされた。
神社の概要は以下の説明書きを全部載せておくので、それを読んでいただければと思う。
『(和伎座天乃夫岐賣神社の説明書きより)
一、神社名 和伎座天乃夫岐賣神社(通称 涌出宮)
二、御祭神 天乃夫岐賣命
田凝姫命(たこりひめのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
瑞津姫命(たきつひめのみこと)
三、涌出宮縁起(わきでのみや)
1 古来より天下の奇祭「いごもり祭」で世に知られる涌出宮は、JR奈良線棚倉駅前の鎮守の森に鎮座する古社である。(旧社格は「延喜式内社・郷社」)
2 創建は、今より千二百年余り前の、称德天皇の天平神護二年(七六六年)に、伊勢国度会郡五十鈴川の畔より、御祭神として此の地に勧請申し上げたと伝えられている。
社蔵の文書(和岐座天乃夫岐賣大明神源縁録によれば、御祭神天乃夫岐賣命とは、天照大神の御魂であると記されている。恐れ多く、神秘なるが故にかく称し上げたとある。後に田凝姫命、市杵
島姫命、瑞津姫命を同じく伊勢より勧請して併祀したとある。
尚、この三女神は、大神と素戔鳴命(すさのおの)との誓約(うけひ)によってお生れになった御子である。(涌出宮大明神社記に據る)
3 大神を、この地に奉遷した処、此の辺は一夜にして森が涌き出し四町八反余りが、神域と化したので、世人は恐くし、御神徳を称えて、「涌出の森」と、呼称したと言い伝えられている。
山城の国祈雨神十1社の1社として、た。清和天皇(八五九年)や、宇多天皇(八八九年)が奉幣使を立て、雨乞祈願をされたところ、霊験により降雨があったと記されている。
4 山城の国祈雨神十一社の一社として、昔から朝野の崇敬を集めてきた。清和天皇(八五九年)や、宇多天皇(八八九年)が奉幣使を立て、雨乞祈願をされたところ、霊験により降雨があったと記されている。
四、社殿・建造物など
1 本殿は社蔵の「堂社氏子僧遷宮記」によれば、現本殿は元禄五年(一六九二年)の造営で、三間社·流造り」で屋根には、「千木·勝男木」を置くとある。
2 それ以前には中世の戦火で度々焼失し、源頼朝や、後小松朝、後柏原朝の御代にも再建された。
3 昭和五十年には、本殿の屋根が檜皮葺から銅板葺に変わり、現在の形となった。
4 平成三年には、氏子、崇敬者の浄財攄出により、神楽殿、社務所が全面改築新装された。
5 涌出森境内一帯は、弥生期の住居跡として、弥生式土器・石器等が出土した。また、社務所改築前の発掘調査では、竪穴式住居跡も確認された。 昭和五八年 京都府指定・涌出宮遺跡
五、主な神事
1 涌出宮の宮座行事-国指定・重要無形民俗文化財(昭和六十年)
○近畿地方で行われる宮座行事の中でも、当神社のそれは、氏神祭祀の古風な儀礼をよく保存する典型的な例として重要である。(指定基準の辞)
○いごもり祭 与力座の運営により、古川座・步射座(びしゃ)・尾崎座が参画して祭祀が行われる。
室町期の農耕儀礼と古代神事をよく温存していると言われる祈年祭である。
二月十五日 午後八時頃 門の儀・大松明の儀
二月十六日 午後二時頃 勧請縄奉納の儀
二月十七日 午後二時~四時 饗応の儀・御田の式
ⓧ(備) -他見をはばかる神事-
二月十五日 午前一時~十八日 午前五時
森廻り神事・野塚神事
御供炊き神事・四ツ塚神事
○女座の祭 岡之座・中村座の女衆が大根で作った擬物の前で会食をし、後それを神前に供え、神楽を奉納する。
春の彼岸中日 午後三畤頃
○ア-エ-の相撲
大座・殿屋座と岡之座・中村座から夫々男児二名を出し、子供相撲を奉納する。
九月三十日 午後二時頃
○百味御食(秋祭)
大座・殿屋座・岡之座・中村座が各戸から、集めた野山の収穫物を供物として神に奉納する。
十月十七日 午前九時
2 月次祭 毎月一日 午前十時より ※正月は七日(七草祭)
3 元旦祭 一月一日午前零時より
4 新嘗祭 十一月二十三日
六、いごもり祭(居籠祭·齋居祭)起源など
1 天下の奇祭「いごもり祭」の起源については諸説の伝承がある。
祟神天皇の御代に、天皇の庶兄で、当地山城地方を任せられていた、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の軍が、大和朝廷軍と戦い敗北して安彦は非業の最期を遂げた。その後、数多くの戦死者の霊が祟り、この辺りに悪疫が大流行して人々を悩ませた。村人達は齋みこもって悪疫退散の祈祷をし、かくして悪霊が鎮まった。
これが、いごもり祭の起こりと芎われている。(日本書紀)
因に、木津川対岸の祝園神社でも、いごもり祭を齋行されている。伝説では、安彦が斬首されたとき、首は川を越えて祝園まで飛び、胴体は棚倉に残ったと言われている。
祝園神社では、安彦の首を型どった竹輪を祭に用い、涌出宮では胴体を型どった大松明を燃やすのだ、との言い伝えもある。
2 昔、鳴子川へ三上山から大蛇が出てきて、村人を困らせたので義勇の士がこれを退治したところ、首は祝園に飛び胴体は棚倉に残ったとの言い伝えもある。
3 「いごもり祭」は、昔は「音無しの祭」と言われ、村中の人達は、家の中に居ごもって年乞の祈りが成就されるまで一切音を立てなかったという。
4 現在では、「いごもり祭」は、室町期の農耕儀礼を伝える豊作祈願の祭と言われ、更に春を呼び幸せを招く、除厄招福諸願成就の祭として、大いに世人の注目と信仰を集めている。
七、宝物・遺文・その他
1 本殿・拝殿(元禄期)-京都府登録有形文化財
2 四脚門(室町期)-山城町登録有形文化財
3 本殿棟札十二枚-京都府登録有形文化財
4 石造燈籠(南北朝一基、室町期一基)
5 古文書 ・涌出宮大明神祝詞(室町期祈年祭祝詞)
・和岐座天乃夫岐賣大明神源縁録-年代不詳
・涌出宮大明神社記-年代不詳
6 出土品 ・境内地出土弥生期の石器・土器並に縄文土器
・神社周辺の古墳時代の出土品
八、涌出の森とイチイガシ
鎮守の杜を中心に涌出宮の境内地全体が「環境保全地区」に指定されています。
この鎮守の森に多く見られる大木、イチイガシは、日当り、風通しが良く、水も豊富な清しき環境の中で育つといわれ、そのイチイガシの群生は涌出の森そのものを物語っていると言えるでしょう。
「学者の談より」 』