このアルコル橋の右側に見えるのは市立病院です。ガイドさんの話だと、この市民病院は、近年建てられたそうで、そのせいで、セーヌの右岸からノートルダム大聖堂の屋根が見えにくくなったそうです。
そう言われれば、セーヌ川の右岸から、ノートルダム大聖堂は、見えませんでした。
パリの街造りでも、このようなことがあるのかと、疑問に思いましたが、
それにしても、商工裁判所、コンシェルジュリーと、全く時代が変わらないような造りはさすがですね・・・・(3枚目の写真)
この角度からは、真ん中奥に、前回のノートルダム大聖堂が見えます。
※アルコル橋由来ついて・・・・
シテ島と右岸を結びつける橋の中で最も上流にあるアルコル橋。
1830年の7月革命の際、市民と軍隊がアルコル橋で衝突、その時、1人の若者が三色旗ををかかげて、身を挺して橋の真ん中にまで進み、その旗を中央の橋桁の上に立てかけ「わが友たちよ、私の名がアルコルであることを覚えておいて欲しい」と叫ぶや、銃弾の前に倒れてしまう・・・。その若者の言葉に、人びとは彼が倒れた橋にその名を冠することで応じた。それがアルコル橋の由来だそうです。
このアルコル橋をノートルダム大聖堂側から渡った川の向かい側にある重厚なルネッサンス様式の
この建物は、パリ市庁舎です。
現在の、市庁舎は旧市庁舎が1871年に火災で焼失した跡に再建されたもので、冬には、広場にスケート場が設置されます。(見にくいかと思いますが、右側の白くなっている所がそうです。)
さらに、下流を見ると・・・
奥にに見えるのは、ノートル・ダム橋、背景にある建物は、左から先程の市立病院、商工裁判所、コンシェルジュリー。
今の橋の姿形からは想像もつきませんがが、16世紀初目の頃、この橋の上には、両側に3階建てで34軒づつ計68軒の家屋(両替商、貴金属商など)が立ち並んでいたそうです。当時のノートル・ダム橋は、まさにヨーロッパ第一の楽しく、魅力的な橋であったそうです。
1787年、橋の上から建物が撤去されて以降、この橋はありきたりな橋になったそうです。
※コンシェルジェリーについて・・・・
ここは昔フランス王の居住および執務の館でした。
シャルル5世がこの宮からサン・ポール館に移ろうとした時にここに王室司令部を置き、コンシェルジュ(門衛)を任命しました。
コンシェルジュは王の司令官として多くの権力と特権を持っていました。
ここはそのコンシェルジュの住居でもあり、コンシェルジュリーと呼ばれるようになりました。
建物は14世紀にフリップ美男王が建てさせたもので、3つの塔と3つの大広間からなります。
18世紀後半フランス革命が勃発。
1793年王政が陥落した後、国民公会によって設置された革命法廷はここに本拠を置きました。
そして、コンシェルジュリーは革命期に捕らえられた人々が死を待つ牢獄として使われました。
その数は2年間に2700名にものぼります。
死刑囚の多くは一般の民衆、貴族、学者、文学者でした。
彼らはここで、死までの時を過ごし断頭台へと上って行ったのです。
ここに入れられた囚人の中で一番有名なのがマリー・アントワネットです。
彼女はここの1室に収容され1793年10月16日処刑されました。
中には入らなかったのですが
マリー・アントワネットの牢獄が再現され、牢獄の中でも身分の差があったということです。
コンシェルジュリーに収容され刑を受けた人の名前が列挙されている部屋があります。
マリー・アントワネットの名前も、そこには書かれているんですね。
さらに下流に向かって歩いてみたいと思います。
下流から上流、ノートルダム橋を振り返った景色です。(この右奥にノートルダム大聖堂があるのですが・・・・見えませんね・・・)
つづく・・・・