東アジア歴史文化研究会

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう
歴史の書き換えはすでに始まっている

日本は言葉によって支えられている ことばこそ生命だ(加瀬英明コラム)

2017-01-06 | 皇室関係
読売新聞だった。12月1日付朝刊の大見出しを見て、今日の日本がもはや私が知っていた日本ではないのだと覚って、体から力が抜けてゆく思いを味わった。

見出しは、「退位容認9人慎重7人 有識者会議年明け論点整理」というものだった。

そのうえ、この記事のすぐわきに「デジタル教科書容認 紙が基本 20年度から小中高で」という、見出しがあった。

「退位容認9人」——「容認」というのは、天皇陛下を目下にしているものだ。

新聞の使命を再認識してほしい

私は読売新聞と産経新聞を、保守派の新聞として購読しているが、読売新聞までもかと思って、落胆した。どうして編集局のなかで、誰も気付かなかったのだろうか。
 
言葉は人と社会のありかたをつくる、もっとも強い力を持っている鋳型である。

天皇を上からの目線で、見降ろすことがあれば、日本という国が溶解してしまう。読売新聞社の編集局には、おそらくそのような意図がまったくなかったにちがいない。そうだとしたら、もっと恐ろしいことだ。

「有識者」は意味不明の言葉

「有識者」という言葉も意味不明で、正体が分からない。その証拠に、私たちは日常会話のなかで特定の人を指して、「あの人は有識者です」ということがない。意味がないのだから、言葉といえないだろう。

それなのに「有識者」という言葉が、大手を振って闊歩している。

私もこれまで何回か、政府の諮問委員会に連なったり、「有識者」として意見を求められたことがある。それでいながら、私は自分に対して、「有識者」という言葉を説明することができなかった。

かなり以前のことになるが、1回、2万円か、3万円か日当を支給されたことを、記憶している。すると「有識者」は、「政府から1回3万円貰って、意見を述べる人」と、定義するべきなのだろうか。

天皇のありかたという、国家にとって重大事を、一握りの「有識者」の意見によって、決定してよいものだろうか。「年明け論点整理」というが、そんなに急ぐ必要があるものだろうか、と思う。

「新嘗祭」の歴史と意義

11月23日は、戦後の日本では「勤労感謝の日」と呼ばれる休日とされているが、正しくは秋の収穫に感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」である。

天照大御神が1年を通じて日本に降臨されて、天皇と共食される日が1日だけある。11月23日の新嘗祭だ。

天皇は、皇居の宮中三殿の賢所(かしこどころ)に降臨された天照大御神をはじめとする神々に、お手づから箸を使われて、新穀を皿に盛りつけられておすすめし、召し上がられる。

この時に用いられる皿は土器ではなく、柏の葉である。箸は2本の棒ではなく、竹を削いで、火で炙ってピンセット状にしたものであって、箸の原型といわれる。

今年(平成28年)も、陛下は午後7時から賢所において、新嘗祭の「夕(よい)の儀」を執り行われた。

柏の葉の皿と箸の原型

陛下が御高齢になられたために、午後11時から翌朝の午前1時まで斎行される「暁(あかつき)の儀」については、一昨年(平成26年)から掌典長が代行してきた。掌典は天皇にお仕えする神官である。

この祭典で、柏の葉の皿と、竹を炙ったピンセット状の箸が用いられているのは、日本という国が世界に類例がない、古い生い立ちを持っていることを、示している。

日本を日本たらしめている祭祀

超近代的都市である東京の真ん中に、緑の小島のように浮ぶ皇居のなかで、このような原始的な祭が行われている。

天皇はお元気であれば、宮中三殿において年間20回あまりの祭祀を、親しく行われる。これこそが、日本を日本たらしめている祭である。

ところが、これらの宮中祭祀は、現憲法のもとでは、天皇の「私事」として軽視されているために学校教育の場で、天皇が日本と世界の平和を真摯に祈られていることを、教えることができない。

それにしても、「勤労感謝」という言葉は、アメリカ語を訳したようで、私たちの胸から遠い、遠いところにある。奇妙な名がついた休日である。日本では働くことは、欧米と違って常態であって、勤労に感謝するという発想がない。

現行憲法は心を欠いている

現行憲法の第1章第1条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と、規定している。こんな軽薄なことで、よいのだろうか。

いま生きている日本国民が、日本の主権者だとされているが、いったい、日本はいま生きている国民だけのものなのだろうか? 日本はこれまで生きて、日本という国を築いてきた、全員のものであるべきだ。

天皇はいま生きている、日本国民の統合の象徴であるだけではない。日本という国が生まれてから、今日まで日本を統合してきた精神の要であってきた。

いまでは、「国民の祝日に関する法律」といって、占領下でアメリカ軍が「祭日」を否定したために、「祝祭日」という言葉がなくなった。

根のない国籍不明な国から脱出しよう

日本の伝統文化を捨てたために、クリスマスや、ハロウィーン、女性から男性にチョコレートを贈るバレンタインデーが、国民の祭になって、根のない国籍不明な国となっている。

マスコミは日本と係わりがないクリスマスや、ハロウィーンや、バレンタインデーを大きく報道しても、新嘗祭を取り上げることがない。

産経新聞に1ページ全面の「企画特集」として、「赤坂インターシティAIR、来年九月開業」という記事が、載っていた。

「緑あふれる新ランドマーク」という、見出しがある。

これが日本の首都なのか

目を通したら、「東京都の外国企業誘致プロジェクト『アジアヘッドクオーター特区』‥‥」という書き出しで、「ディベロッパー」「リフレッシュ」「オフィスエントランス」「オフィスラウンジ」「フリーWi‐Fiスポット」「イベント」「コンファレンス」「メディカルモール」「マスダンパー」「ホーマット バイカウント」という外国語が、日本語の注釈なしに、目白押しに出てきた。

これが日本なのだろうか? 私は赤坂の近くに住んでいるが、もう、こんなところには住みたくないと思って、慨嘆した。

「赤坂インターシティAIR」とは、何の意味なのだろうか。「AIR」はカジノという賭博場を認めるIR法が、衆議院を通ったところなので、「アカサカアイアール」の略なのだろうか。

きっと、海外からカジノ企業を誘致して、昼間から胴巻きに分厚い札束をぶちこんだ男たちが、血走った眼をして、鉄火場に出入りすることになるのだろう。いずれにせよ、カタカナの外国語ばかりによって埋めつくされた場所からは、遠ざかりたい。

言語障害を患う人は、正常な日常生活を送ることができない。今日の日本は言語機能を損ねた人に、似ている。

生半可な言葉を使うことによって、幼児化してゆく。日本は幼児化している。

民族の自分の言葉は生命なり

歴史を振り返れば、民族は自分の言葉を失うなかで力を失い、ついに亡びることを教えている。

先月、地方を訪れたが、地元の「文化振興協会」の役員から、「国際化に対応して、文化の振興に努めています」と、聞かされた。

私は「文化振興」という言葉が、欧米に存在しないことに気付いた。西洋列強の脅威に対抗して近代国家を建設した、明治の「文明開化」が生んだ言葉にちがいないが、そろそろ日本文化に自信を持ってよいのではないか。

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