東アジア歴史文化研究会

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大東亜戦争は昭和20年8月15日に終わらなかった(加瀬英明コラム)

2017-10-03 | 日本の歴史
今年の8月17日は晴れたので、主催者の1人としてほっとした。私たちは午後2時前に、市ヶ谷台にひろがる防衛省の構内の一画に建立された、スディルマン将軍の像の前に集合した。

インドネシアのアリフィン・タスリフ駐日大使一行も、到着された。この日は、インドネシア共和国の独立を記念する72周年のよき日だった。定刻に、インドネシア独立戦争の英雄であるスディルマン将軍の銅像への第2回目の献花式が始まった。

会衆は50数人だった。はじめに藤井厳喜代表が像の前に進んで献詞を述べ、つぎにタスリフ大使が挨拶文を読まれた。

インドネシア タスリフ駐日大使の挨拶

大使は、先の大戦中に日本軍政下で、インドネシア独立へ向けてインドネシア壮丁を募って、郷土防衛隊(ペタ)が結成され、1944年にスディルマン将軍が総隊長となったが、日本が大戦に敗れた2日後に、インドネシアが独立を宣言すると、オランダ軍がインドネシアを再び植民地にしようと、イギリス軍とともに侵攻してきた時に、スディルマン将軍が総司令官としてペタを中心とした独立軍を率いて戦い、オランダもついに1949年にインドネシアが独立国であることを承認することを強いられたと、日本への感謝を滲ませながら、述べられた。

偉大な国民はその国の英雄を称えます

大使が冒頭で、「偉大な国民は、その国の英雄を称えます」と前置きをされたので、私たちは全員が愕然として、深く恥じた。私たちは今日の日本で、日本の英雄を賞讃することがあるだろうか。日本は二流の国民に落魄れてしまったのだ。

そのうえで、藤井代表とタスリフ大使が並んで用意された、上が赤、下が白の花輪を持って、将軍像に捧げた。献花がすむと、山本ともひろ防衛副大臣、 内閣総理大臣補佐官の柴山昌彦参議院議員、山田宏参議院議員が挨拶された。

小野寺五典防衛大臣が参列される予定だったが、ワシントンで2+2が催されたのに出席されたために、山本副大臣が出席された。

私は献花式の呼び掛け人として挨拶したが、インドネシアの首都ジャカルタの軍事博物館に、日本の2枚翼の九五式初級練習機が展示されていることに、触れた。

胴体の日の丸の下の部分が、新生インドネシアが国旗として定めたメラプティ(紅白旗)として、白く塗り替えられているが、大戦中に日本の航空兵の訓練が、石油資源が豊かなインドネシアで行われた時に、インドネシアの青年にも飛行訓練を施したことから、オランダ軍の上空から、手掴みで爆弾を投下した。

私は「メラプティ旗を仰ぐたびに、日の丸が二重映しになります」と、述べた。

旧陸軍の九五式練習機は、“赤トンボ”の愛称によって国民に親しまれたが、ジャカルタに展示されている“赤トンボ”が、今日、唯一つ現存する機体である。

昭和20年8月 2000人の日本人の志

日本が昭和20年8月に大戦に敗れると、2000人の日本軍将兵が帰国することを拒んで、日本国民が幕末からいだいてきた、アジア解放の一途の願いを果そうとして、インドネシアに残留して、独立軍に身を投じて戦った。このなかで1000人が、アジア解放のために戦死され、インドネシア国立英雄墓地に葬られている。

大東亜戦争は昭和20年8月15日に、終わらなかった。インドネシア国民が戦い続けたのだった。

献花したばかりの赤と白の花が輝いて、両民族の生命(いのち)をあらわすように、目に沁みた。

市ヶ谷台はアメリカの占領下で、不法な東京裁判が行われて、東條首相以下7人が「アジアを侵略した罪」によって裁かれた場所である。あの無法な裁判が進められていたあいだに、裁判を行ったアメリカ、イギリス、フランス、オランダ諸国が、何をしていたのか。

オランダはイギリス軍の援けをかりてインドネシアを、フランスもベトナムを再侵略して独立軍と戦い、イギリスはインパール作戦によって覚醒したインド国民が、独立を求めて全土にわたって蜂起したのを、空から機銃掃射を加えるなど、鎮圧をはかっていた。アメリカは白人による支配を復活させようとして、これらの諸国に武器弾薬を供給していた。

スディルマン将軍は病いをおして戦ったが、独立軍が最後の勝利を収めるのを眼にすることがなく、その直前に病没した。今日、インドネシア最大の英雄の1人として、全国各地に銅像が建立され、肖像が紙幣にもあしらわれている。

その独立の英雄の銅像が、市ヶ谷台を睥睨(へいげい)していることは、東京裁判が“偽りの復讐劇”であったことを、雄弁に証している。

私の父俊一(としかず)は、開戦から終戦に至るまで、外務省北米課長をつとめた。終戦の9月2日にミズリー号艦上で催された降伏調印式に、重光葵全権の随員として、出席した。

母の心は日本と共にあり

私は母に連れられて、長野県に疎開していたが、四谷にあった自宅が戦火によって焼かれたために、父は母のか津とともに、信濃町の借家に移っていた。

か津が調印式に出席する前の晩に、父にあらたまった口調で、「ここにお座りなさい」と命じた。父が正座すると、「私はあなたを恥しい降伏の使節として、育てた覚えはありません。明日は行かないで下さい」と言った。父が「この手続きを踏まないと、日本が立ち行きません」と、理を尽して説明したが、か津は納得しなかった。

か津は隣室へゆくと、父のために翌朝の新しい下着を揃えはじめた。父は母が泣き伏す大きな声が伝わってきたと、後にこの晩のことを記している。

私は10月に、母とともに東京に戻った。上野駅で降りると、目の届くかぎり焼け野原だった。父が夜遅く戻ってくるまで、起きていた。私は「こんなに東京がひどく壊されてしまったけど、日本は大丈夫?」と、たずねた。

父は「アメリカは日本全部を壊すことができる。しかし、日本人の魂を壊すことはできない」といった。

日本人の魂を壊すことはできない

中学に進んだ時に、私は父に「どのような想いで、ミズリーの甲板を踏んだのか」と、たずねた。すると、父は「日本は戦闘に敗れたけれど、数百年も白人の支配のもとに苦しんでいたアジア民族を解放したから、戦争には勝ったという誇りを胸に秘めて、甲板に立った」「重光も同じ想いだった」といった。

スディルマン将軍の銅像は、鳩山由紀夫内閣の時に、インドネシア国防省から防衛省に寄贈された。

防衛省が退役したヘリコプターを1機置いている構内の片隅に、設置した。私は当然、防衛省が年に1度、インドネシア独立記念日か、スディルマン将軍の命日に省内で献花を行っていると思ったが、ただ放置されていた。

そこで、私は一昨年有志男女を集めて、インドネシア独立記念日に献花することを思い立った。親しい国際政治学者の藤井氏に代表を引き受けてもらい、40人ほどの有志を募って、献花したところ、インドネシアのユスロン・イザ・マヘンドラ駐日大使(当時)が聞いて、制服武官をはじめ館員を連れて、参加してくれた。

その日は弱い雨が、私たちを濡らした。マヘンドラ駐日大使が喜んで、新しい大使に交替しても、代々申し継いで参列することにしたいといわれた。

献花が公式行事に

昨年7月に、私たち有志が赤坂のレストランを借り切って、翌月の献花式の打ち合わせを行ったところ、マヘンドラ大使一行も参加された。ところが、防衛省に申し入れると、像があった場所に、PAC3を常時配備するために、像を梱包して倉庫に納めているということから、延期することを強いられた。

今年、像がよりよい場所に移設され、献花式が防衛省の公式行事として、格上げされた。
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