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終わりに

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 最後に三炭町を去る前、私は記念に何か欲しいと思い、骨董品やさんの本山さんを訪ねました。このお店ともぜひ「働きます」をやりたかったのですが、いつもお客さんがいらっしゃって成立致しませんでした。ご主人温厚な方で、覚えていて下さり話を致しました。私 「あのー、記念に何か欲しいんですけど・・・・、1,000円ぐらいで買えるものがありますかー?」などとバカなお尋ねをしてみました。店内は茶道具のいいものばかりです。私だって見たら分かります。なさそう・・・です。「そのー、割れた破片でもいいんですけど・・・」またバカなことを言ってしまいます。(あー恥ずかしい) そうですねえ、と言って教えてくれた中国の陶器の手のひら大の蓋付きの入れ物なら2,000円ですねえ、とおっしゃって下さいました。1,000円オーバー。それも中国。「三炭町のないんですよねえ。」 実はある人に「解体されるアーケードのボルトとか破片とかとってて欲しい」と頼んだのですが、「今頃溶鉱炉行きでインゴットになってる」・・・とか言われて実現しませんでした。んー、半分妥協、でも手に入れました。 写真はそれとは違います。 あんまり可愛かったんで写真だけ撮らせていただいた置物です。 幕末の頃のものだろう、着けてる布が縮緬だそうです。ブログの最後の画像として、今までずーと三炭町でしたから、こんなもので終わるのもいいんではないかと(天邪鬼です)思いのっけました。皆様、またはじめて訪れていただいた方も、今までお付き合い下さりありがとうございました。ひとりでも読んでくださる方がいらっしゃることが励みでした。ここで、ほんとに「宇部三炭町と私・働きます」終了いたします。ありがとうございました。

● 今後ブログは以下のブログにバトンタッチされます。(まだ続くんかいな)

「記憶を収集する」プロジェクト  →→→  http://blog.goo.ne.jp/kioku_1959/

まだ準備中です・・・。そのうちUPします。

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再訪 2007.1

  1月某日 アーケードが解体撤去された街を訪ねました。それは、わたしが最後に締めくくりとして残しておいた仕事でした。アーケードが解体撤去されたら、最後に見にいってその時の気持ちを書いて、ブログを終わろう・・・と思っていたからです。それで、宇部の仕事はほんとうに終わりなります。

今まで、仕事のために高速を通っていたのをこの日、2号線を走って宇部に入りました。今まで、街の人の厚意で駐車させていただいていた車も三炭町に程近い100円駐車場に止めて、三炭町にむかいます。

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 このベンチ、「お買い物は三炭町で」・・・と書いてあったのですが、それまでも外されていました。

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 秋田さ~ん

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 私が展示で使わせていただいたショーケースです。実は通りに放ってあったものを大掃除して使ったんです。元にもどりました。

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戸別では工事続いています。

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 かねなかさんとこ看板なくなってしまいました。

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 この日私の気持ちは静かでした。アーケードのなくなった街の姿は、この街に通い始めた頃から、もう私には見えておりましたから。 もう興奮はありません。 いちばん最初に出会ったあのアーケードとは、充分過ぎるほどお付き合いをさせていただいて、すっかり私の記憶に織り込まれています。 あのアーケードの下で育った人がいます。 あのアーケードと共にあった商いの日々を懐かしむ人もいます。かっては信じられないほどに多くの人を引きつけた時代も去っていきました。彫刻展で多くの人が三炭町(アーケード)と再会してくれました。あのアーケードとは、いったいなんだったのでしょう?  

再び訪れた街は、とうに私には見えていた街を、ただ確認するだけの一時間にも満たないわずかな時間でした。何処の町にもある、あの100円駐車場に止めた自分の車に、足早に急ぐだけの自分でした。

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 運ぶこと ・ とどまること ・ 断片と持続 ・ 離れるとき  

●● 諏訪眞理子さんの三炭町商店街のプロジェクトを歩いて

        

                            田中 修二

 1 運ぶこと

 

最近、諏訪眞理子さんとは日本アートマネジメント学会の全国大会が大分で開催されるにあたって(2006年11月25日)、その準備作業をご一緒することになった。そのとき当日会場で参加者に配布される『予稿集』の表紙のデザインを諏訪さんが担当してくださった。出来上がったものは、彼女が2006年1月に大分の久住高原で行なったプロジェクトの様子を撮した写真をもとにしたものだった。

 それは深く雪の積もった林の中で、一人の女性が大きな雪のかたまりを抱えて歩いている姿を撮した写真で、とても印象の深いものだった。その印象の深さとはなんなのだろうかと考えてみる。「林」「人間」「雪」「かたまり」「抱えること」「歩くこと」「運ぶこと」「さらにそれを写真に撮すこと」。それぞれの要素がつながっていく中で、なにかがどこかに強い印象として刻まれてくる。

 もちろん山の中で雪を運んだからって、それはなんの役にも立たなくて、ただそれはきっと美しいだけだと思う。多分、「美しい」のだろう。それは雪を運ぶ彼女にとって。その場を生み出し、それを写真に撮った諏訪さんにとって。そしてその写真を見る私(たち)にとって美しいのだろう。

 その「美しい」理由を、別の言葉できちんと説明し、厳密に確定させることはきっとできないのだろうが、その点では「美しい」とは無責任な、無意味な言葉でもある。

 ただ、私たちは生きていく中で、その「美しさ」「無意味さ」に賭けねばならないことがあるようにも思う。私たちが生きていくということは結局そういうことなのだなどといってしまうつもりはないのだけれど、でも私たちが「芸術」などという語/概念を作り出して、それを大切にしていることのうちには、そんな要素も大きく含まれているのではないだろうか。そしてそれを大切にするからには、その「美しい」理由をなんとか言葉で伝えようとする姿勢が必要なのだと思う。そうしないと「美しさ」は場合によってはとても恐ろしい言葉にもなりうるから。

 たとえば、「運ぶこと」について。

 私たちが決してなにかを「無」から作り出せないのだとすれば、それはある場所にあったものを別の場所に運んでいるのにちがいない。たとえばある地層の中にあった大理石を切り出して、運び、別の場所でそれが彫刻作品となるように。そのときある場所からなにかが失われて、別の場所になにかが存在することになる。ただし芸術作品とはその別の場所に(新たに)存在するなにかだけなのだろうか。失われたこととは芸術作品にとって意味をなさないものなのか。

 もしその失われたことを大切にしようとするならば、私たちはきっとその「運ぶ」という行為へと目を向けることになるだろう。その視線はか弱い、優しすぎる、ときに哀れみを含んだものであるかもしれないが(その優しさが優越感の裏返しであることもありうるのだが)、とはいえ「運ぶ」という言葉の響きには力強さも感じられよう。その力強さに、失われたことを思いつづける意志を托すことができないものだろうか。

 2 とどまること

 

「国民文化祭・やまぐち2006」の一環として、宇部市で開催された「彫刻展」で諏訪さんが発表された《宇部・三炭町(さんたんまち)と私 「働きます」》は、宇部新川駅からほど近い「三炭町商店街」でのプロジェクトだった。

 この「彫刻展」は15名・グループの美術家がそれぞれ、主に宇部市中心部の商店街を舞台に作品を制作・発表するものだった。宇部市といえば戦後の都市復興の中で、その後全国的に拡がった「彫刻のある町づくり」の活動の先駆となる「町を彫刻で飾る運動」を行ない、現在も2年に1度、「現代日本彫刻展」をコンクール形式で開催している。

 けれど興味深かったのは、今回の「彫刻展」での作家たちの制作・発表のほとんどが、そうした「彫刻のある町づくり」からははずれた場所で行なわれた点である。その主催者側の意図がいかなるものであったのかはいまのところ判断しきれないのだが(というのは、主催者の側でその意図に全くぶれがないのかどうかわからないということもあって)、私にはそれがとても意味深いものに思えた。

 その興味深さ、意味深さとは次のようなことである。これまで開催されてきた「現代日本彫刻展」で選ばれた屋外彫刻作品は、その多くが市内の公共施設や主要幹線道路沿いに設置されてきた。たとえば市の中心部から少し離れた常盤公園には野外彫刻の展示場があり、またその公園と市の中心部との間に位置する運動公園にも作品が設置されている。さらに市の中心部では、そのメイン・ストリートである国道109号線沿いと市役所の脇を流れる真締川沿いの遊歩道に数多くの作品が設置されている。しかしそれらはいずれも、市民の日常の生活空間から少し離れた印象が(少なくとも今回初めてそこを訪れた私にとっては)あって、それに対して今回の「彫刻展」は「商店街」というその日常の生活空間へと近づいていく試みだったからである。

 ただしここで「日常の生活空間」と簡単にいってしまってよいかどうかは本当は問題で、しばしばニュースなどで耳にする「地方都市の中心部の空洞化」の例に漏れず、宇部市の中心部の商店街もシャッターを下ろした店舗がとても目につく。

 諏訪さんがその《宇部・三炭町(さんたんまち)と私 「働きます」》を制作・発表された場所である「三炭町商店街」は、宇部市の中心の駅である宇部新川駅から歩いて10分もかからないところにあって、ただし市内の商業地域の中では最も西端に位置する。いわゆる「繁華街」はそこから東に向かって「銀天街」、さらに真締川を渡って「新天町」の商店街沿いに形成されている。だからこそ、「三炭町」は町の中心部よりももっと庶民的な雰囲気を漂わせている。より正確にいえば、「漂わせているところだった」のだろう。

 その場所で諏訪さんがやったこととは、まず空き店舗の目立つ商店街の中の1つの建物を使って、そこを事務所兼作業場兼展示室といった感じの拠点とすることだった。「拠点」を「観測点」と言い換えてもよいだろう。あるいは「出発点」とも。そこに展覧会の会期以前から数ヶ月間とどまることで、彼女は商店街の人びとと交流し、その中に自らの「作品」を作り上げていった。

 その経過を私は実際に見たわけではない。私が行ったのはすでに展覧会の会期中で、商店街の靴屋さんにはいつも売っている靴に混じっていろいろな人が手作りしたカラフルな靴が置かれ、時計店のショーウインドーには金色の葉っぱが積もっていて、ほかのお店では今回のために作られたTシャツや絵葉書を売っていた。喫茶店ではお客さんに黒い紙で作られた《三炭町の靴》という「小さな彫刻」を手渡してくれる。そして彼女の「拠点=観測点=出発点」である建物の室内に置かれたガラスケースの中には、昔、たくさんの人たちがそこで買い物をして賑わっていたころの様子が写し出された古い写真類などが置かれ、その隣の部屋にはそこに暮らす人びとの声が流れていた。

 3 断片と持続

 

それらはみな、いろいろな「断片」でしかない。市販の靴や雑貨にまぎれて、あるいはここで生活をしている方々の写真アルバムの中から1枚ずつ取り出されて、また《三炭町の靴》や絵葉書などのように誰かの手に渡っておそらく多くはすぐに忘れられてしまう、そういったものである。ただしよくよく考えてみれば、私たちはそんな「断片」の中で、あるいはさまざまな出会ったものをそんな「断片」にしていきながら、生きているのかもしれない。

 諏訪さんが今回行なった行為とは、しかし、そんな「断片」をさらに生み出しながらも、それらをかき集め、あるいは手渡しし、なんとかつなげていこうとすることであったように思える。1つの場所にとどまって、プロジェクトのタイトルにあるように「働きます」というのは、手探りしながらなんらかの「持続性」を見つけ出そうとする行為とでもいってもよいだろうか。このことは、冒頭で述べた雪を「運ぶ」ことともつながっていると考えられる。

 それはとてもかすかな行為でしかないかもしれない。他の人が働いていることを私たちは全く気にする必要もない。しかもそれは「日常」において一般的な意味では必要のない「働き」であろう。ただしその商店街が、ほかの市民たちにとってどこまで「日常」なのかも難しいところではある。そこに1人の作家の、つまりは商店街の人でもほかの市民でもない「他者」の意志が介入する。もしもともと「働く」ことが一種の匿名性をもっているとすれば、作家とはその匿名性をひっくり返す。そんないくつものかすかなずれによって、わずかにでも未来に開かれた糸口のようなものがそこにのこったとすれば、それはなにか大切なものであるようにも思う。

 4 離れるとき

 

日本の近現代の彫刻史について研究していて、とても恥ずかしい話ではあるのだけれど、私にとって宇部を訪れたのは今回が初めてだった。さきに述べたようにそこは戦後の彫刻を考えるうえで欠かすことのできない場所なのである。

 大分から東京への出張の帰り、宇部の空港に降りて、そこからバスに乗って常磐公園に行き、まず公園の中に設置されたいくつもの屋外彫刻作品を見て回った。さらにバスで町の中心部へと向かい、車窓から大通りに沿って設置された彫刻作品を眺めつつ終点の宇部新川駅で降りた。それから今回の「彫刻展」を見て歩いたのだが、それをひととおり見終わったあとは、再び市役所の横を流れていく川沿いに設置された屋外彫刻作品を見ていって、最後に戦前の近代建築の代表作の一つである《渡辺翁記念会館》まで足を伸ばして、その敷地内にある高さ8mの台座に立つ朝倉文夫作の《渡辺祐策翁銅像》(1936年)を見て、もう一度諏訪さんのところに戻った。

 そんないたるところに彫刻が設置された宇部の公園と町を歩いてみて、とくに戦後1960年代から設置されていったいわゆる「野外彫刻」の数々を見て、とても失礼な言い方であるとは思うがあえて率直にいえば、「彫刻の墓場」という言葉が頭の中に浮かんだ。その理由とその言葉が意味することを本当はここでちゃんと説明するべきなのだろうけれど、いまは許してもらおう。ただしそれを単に否定的なニュアンスでいっているのではないことは念のために断っておこうと思う。

 けれど驚いたのは、その後宇部に行った話を東京の親しい彫刻家のかたにお話ししたとき、彼の口から全く同じ言葉が出てきたことだった。もしかしたら宇部の人たちのうちにも、それと同じようなことを考える人がいて、そのことが、つまりいままで自分たちがやってきたことのあり方を問いなすことが、今回の「彫刻展」につながっているのではないかとも、ふと思ってしまう。前述のようにそれは「彫刻のある町」の「彫刻のないところ」で行なわれたものだった。

 ただしいまここで話したいのは、たとえその町が「彫刻の墓場」であったとしても、そこに立つ1つひとつの屋外彫刻作品の存在することの強さであった。それは「見られつづける」ということとは(残念ながら)直接は関係なく、「ありつづけている」ということの凄さ、壮絶さだった。一方で「彫刻のないところ」で開かれた「彫刻展」は、会期が終われば、少なくともその物質としての存在は失われてしまうものなのである。

 そのときどうするのか、それでよいのかが、諏訪さんの作品もふくめ今回の「彫刻展」の、さらにいわゆる「現代美術」の多くの部分がもっている性格(たとえばインスタレーション的なものなど)についての、やはり考えておかねばならない問題なのだと私は考える。とはいえ、それでよいのかもしれないとも思うことがあるし、こうあるべきだといったような答は私も用意していない。

 聞くところによれば、今回の「彫刻展」のときにはまだ架かっていた三炭町のアーケードは、その後撤去されることになっているという。その長い屋根という物質的な存在は、おそらく1つの商店街というまとまりを維持しつづけてきたうえでのとても大きな役割を担っていたと思う。それがなくなったとき、その空間はまだありつづけるだろうか。すべては「断片」化されていくことにならないだろうか。諏訪さんの作品は、1年後、10年後、あるいは100年後になんらかの痕跡をのこしているだろうか。そのときには、さきに述べた「糸口」が、赤い血を吹き出しつづけるような、それとも膿を出しつづけるような「傷口」となっていてもかまわない。その時間の長さが、彼女の作品の「持続性」を試していくようにも思うのである。

 田中 修二(たなか・しゅうじ) 

1968年京都市生まれ。成城大学大学院文学研究科美学・美術史専攻博士課程後期修了。博士(文学)。現在、大分大学教育福祉科学部助教授、屋外彫刻調査保存研究会運営委員。主な著書・論文に、『近代日本最初の彫刻家』、『彫刻家・新海竹太郎論』、共著『すぐわかる日本の美術 絵画・仏像・やきもの&暮らしと美術』、共著『カラー版 日本仏像史』、共著『海を渡り世紀を超えた竹内栖鳳とその弟子たち』など。

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ありがとう。

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 いそむらさん(いそむら生花店)  一番最初にお会いした人、最後まで陰で支援していただきました。

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● ふじいさん(彫刻推進室) 商店街に入っていくお膳立てを全てしてくれました。 せんださん(ナガト画房)   銀天街でしたのに三炭町のこともありがとうございました。最後まで。

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 あきたさん(千成堂)  これ会ってすぐの頃の写真。 今全然表情ちがいます。 いや~・・・ですよ。

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 もりしたさん(森下時計店)  振り返ると、ほんとに時計職人さんでしたね。

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 ふじいさん、かねなかさん(モケイ・玩具かねなか)

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 もりもとさん(森本仏具店)  嫁にきたてで茶粥が食べられなかった話よく覚えていますよ!

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 ふじいさん  机の上かたずけてください。

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 ふじいさん(藤井食堂)  相変わらず?でしょうね。

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 やまださん(旧ホープクリーニング)  暑かったよね。 

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 かねなかさん  ・・・ほー。・・・ほー。年中無休です。 あの看板何処行ったんですか?

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 ししゃさん(四車理容室)  お子さん大学卒業までがんばってください。

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 よしむらさん(純喫茶水蓮) 帰る日のおいしいコーヒー・・・ごちそうさま。  

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 しばたさん(柴田ガラス店)   いちばんいろいろ実際たすけていただきました。

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 さっかさん(目書道教室)  お体たいせつにね。

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 にのみやさん(丸二センター)  今月で店閉めるって・・・聞きました。おつかれさまでした。ありがとうございました。美穂さんによろしく。

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 しばたさん

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 ふじいさんもおつかれ!

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 ささきさん(彫刻推進室)  ボストンがえりのメール印象的でした。いちばん話を聞かなきゃいけない人に実は・・・聞かなかったですね。(それは最後まで教えてくれなかったからですよ・・・。)

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 はやしさん(ボランティア)  この自転車、ペンキの黄色! かっこいい!

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 よしのさん(魚宗)  楽しめたでしょうか?展覧会。もちろんですよね。

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 たつかわさん  いつまでブログ続けているんだと言われそうじゃ。も終わる。

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● 山田さん  大好きじゃったね。私。

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アーケード解体工事記録 ② 2006.12.11~12.26まで

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● 2006.12.26

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アーケード解体工事記録  ① 2006.11.13~12.9まで

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● 2006.11.18

● 私が宇部の土地を離れるのを同時期にアーケード解体撤去工事が始まりました。当初アーケードは展覧会前に解体される予定でした。が様々なことがあり、結果的に彫刻展期間中まで、解体を免れ(まぬがれ)期間中多くの方の視線に触れることとなりました。私は気持ちの中では、誰も気づかないそのことこそが私のかろうじて出来たささやかな仕事のように思っていました。最後に、往時の賑やかさは取り戻せませんでしたが、皆がその下を歩いてくれ、そのアーケード下の空間を体験してくれた訳です。 きっと、・・・・アーケードは喜んでくれた・・・・・と勝手に思っています。

● それでも、大分に帰った以上は気になっていた解体の様子を見ることが出来ません。そこで、助けていただいたのがこのブログにコメントなどを書き込んでくださった三炭町を知る宇部出身の某地在住の方でした。私は素直にアーケード解体の様子を記録に残して欲しい・・・と頼んでみたのです。無理なお願いを聞き入れて下さり大変感謝しています。なにより、私の手を離れて宇部の方の手で記録に残して下さったことが、私にはうれしかったです。ありがとうございました。ここに掲載されるすべての解体記録画像はその方のご友人が撮っていただいたものです。(ご本人のもあり。)何よりもこのブログには欠かせない記事となりましたし、皆さんにぜひ見て欲しい記録写真です。写真がまたいいんですよ。

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● 2006.12.9

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図録できました。

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● 図録が先日届きました。 ありがとうございました。制作にかかわった方々、お疲れ様。

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2006年11月13日 帰路

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● 11月13日朝 私のすべての展示の搬出も、昨日夕方からいっきにかたずけてしまいました。柴田さん、柴田さんの会社の人、山田さんありがとうございました。助かりました。今朝は気持ちのいい朝です。挨拶のため商店街へ向かいます。いつも見ていた煙突の煙がまっすぐ上がっています。風がないんですね。

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● 猫も元の場所へ・・・。

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●とうとう、、、待っていたようにアーケード解体工事が始まりました。

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● 帰途、次の場所へ。 福岡県福津市津屋崎、玄界灘です。        

■ 旧玉乃井旅館 〈解体と再生〉プロジェクト 〈家〉最後の家族の物語

  http://g-soap.jp/TAMANOI/INFO.html

ん~、また解体現場だ。

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 「店プロジェクト」の酒百宏一さん

会期中 2006年11月3日~12日

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 座って何してるんでしょう?

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 んっ~、何してるんですか?

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 手が動いてるみたいですけど・・・・。

 酒百宏一さんも宇部に滞在しながら作品をつくられた作家です。私の「amnesia」の作品の部屋で作品製作中の酒百さん。作品(冊子)を交換いたしました。

 http://www.city.ube.yamaguchi.jp/choukoku/kokubun/artist/11a.htm

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障碍の茶室 和田千秋さん 中村海坂さん 坂崎隆一さん  in  三炭町 

● 会期中・2006.11.3~12

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今回新天町の空き店舗を使って行われた「障碍の茶室 Ⅳ 坑道を抜けて」

  http://www.city.ube.yamaguchi.jp/choukoku/kokubun/artist/14a.htm

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 三炭町を訪ねていただきました。和田千秋さん(総企画・美術家・左)、中村海坂さん(茶の湯指南・右)。(そうして坂崎隆一さん(空間設計・美術家)がいますが、このときは不在。)

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 三炭町のかねなかの店の中へ興味のあるものがあるらしく…。

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● 物色しています。

 グループ展といってもなかなか作家どうしの交流というのは実際のところそう簡単に実現しません。忙しさが違うのですれ違いが多いのではないでしょうか。わたしヒマだったので、期間中滞在もしてましたから、いろんな作家の横顔を少しですが拝見いたしました。

 和田さんたちとは偶然下見の時もいっしょになり、九州人だからでしょうか?なんどか愉快な話を致しました。

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