千葉市登戸地域情報

千葉市IT化推進を目的とする、登戸金曜会の情報紙

2016年 千葉市登渡神社神輿渡御  その3 208回

2016年09月13日 | TOPページ

2016年 千葉市登渡神社神輿渡御  その3

  • 登戸2丁目公園をを出発した神輿は、勢いを増しながら進みます。宮入までの迫力ある画像をご覧ください。

  • この動画はスマホ・タブレットでもご覧いただけます。

 


地域の伝統はいつまでも続いてもらいたいものです。

登戸地域には色々な歴史が息づいており、これからこの文化はどう発展をしていくのだろうか? 昔の千葉市の住民が築きあげてくれたように。今の住民が新しい文化をどう取り入れ、新しい街造りを行っていくのだろうか? 

地域の自主的な団体(ちば登戸金曜会)が作ったこの3部作のブログを見て、少しでも考えていただけたら登戸地域の将来のために嬉しいことです。

文化を守る人、文化を拡張していく人、新しい文化に接する人、文化を利用する人、これらの考えを持っている人々を協力し合わせながら、どう新しい地域を作ろうかと昔の人も直面したに違い入りません。

地域の文化や活動を自由に公開できるこのようなこの様なブログの「地域回覧板」が積極的に住民の自主的力で作成され、住民が皆で地域をもり立てる環境が出来る環境が大切だと思っています。このブログが登戸の「新しい神輿」作りのきっかけにとなってくれれば幸いです。

またこのような力が、子育てをしている方々、福祉関係者とも協働・共有し新しい方向付けを出来ることも「ちば登戸金曜会」は真剣に考えております。

 

 

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2016年 千葉市登渡神社神輿渡御 その1 206回

2016年09月11日 | TOPページ

 2016年 千葉市登渡神社神輿渡御  その1


  • 登渡神社例祭神輿渡御は、9月5日時々雨のあいにくの空模様でしたが、祭を支える多くの方々・神輿を迎える各町内の方々に見守られ、盛大に行われました。

  • 地域と地域をつなぎ、伝統文化を守り継承していく人々の姿を、私たち(ちば登戸金曜会)はストーリー風動画に作成しました。

  • 今年は3部に分けて作成いたしました。その1・その2 は続けてご覧いただけます。その3はしばらくお待ちください。

 

 

「登渡神社」は正保元年(1644)九月五日、千葉家の遺族、登戸権介平定胤が祖先を供養するために千葉妙見寺(現在の千葉神社)の末寺(白蛇山真光院、通称登戸妙見寺)として守護させたのがそのはじめであると伝えられております。

当時は「妙見信仰」が盛んな頃で、妙見の紋所「千葉氏の九曜の紋」が掲げられ、神輿を担ぐ人々はこの紋章をはっぴに飾り威勢を上げます。

戦国時代末期に伊達氏より養子を入れ、 伊達氏の一門となって以来、千葉氏の家紋とされる月星紋から伊達氏の紋であった「竹雀紋」に 変えてはいましたが・・。


今では下記の左の九曜の紋を幡の紋になっています。このような妙見信仰や千葉氏の紋章などにも興味を持ってもらいたい例大祭です。 

九 曜 /満月に九曜(十曜?) /三日月に九曜(半月に十曜?)


例大祭    9月5日

その2へ つづく

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2016年千葉市登渡神社神輿渡御 その2 207回

2016年09月11日 | TOPページ

 

2016年千葉市登渡神社神輿渡御 その2


  • 神社を発御した神輿は各町内を回ります。祭りが地域を一つにしてつながっていきます。

  • 今回は登戸3丁目・登戸4丁目・汐見春日(西千葉駅 三和会館)
    新千葉3丁目・登戸新千葉2丁目です。

千葉町の「港町」、江戸時代の登戸は栄ました。(昔の千葉より)

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江戸時代の千葉町は散村で、佐倉藩の蔵があった寒川や一般の旅人が船で乗り降りしていた登戸の方が栄えていました。

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江戸時代後期の「登戸の浜」の様子では<此のあたりを総て袖しが浦といふ。海辺より四方十一箇国の山々見ゆ。江戸迄海上の道のり六里あり。晴天の日には、品川高輪御殿山まで見ゆるなり。>とあります。

この登戸の浜から江戸湾(東京湾)を挟んで富士山を始め関東の島々が遠望することができ、また、江戸町の品川・高輪などの町並みも見渡すことが出来たといいます。

登戸の集落は、登渡神社(通称登戸神社)下から河岸への街道沿いに広がっていました。

登渡神社は、正保元年(1644)9月に千葉介重胤の弟・登戸権介平定胤が祖先を供養するため、千葉妙見寺(千葉神社)の末寺として僧定弁を開祖として創建したものです。

神社の入口前を通る道が旧道で、台地の上を通り黒砂・稲毛方面に向かっていました。現在の国道16号(千葉街道)は、明治19年(1886)に寒川片町(港町)にあった元佐倉藩米蔵を使用していた千葉監獄の囚人たちを使って開いたのが始まりです。

この神社下から登戸河岸に向かう街道沿いには、旅人相手の茶屋・荷宿・船宿や回漕問屋などが軒を連ねていました。

江戸時代には、荷宿として大坂屋・武蔵屋・木村屋・富士見屋・まさご屋・大野屋、河岸には金七丸・菓子屋などの船宿や三四郎丸・伝八丸・徳久丸・おっさん丸・権次丸・虎丸・神明丸・八幡丸という回漕問屋がありました。

荷宿の木村屋が最も大きく、房総に遊ぶ文人墨客の多くが宿泊し、船宿の金七丸は金七河岸と呼ばれるほど有名でした。

明治初年には、金七船・善七船・菓子屋船などの船宿の他、荷宿の亀屋・木村屋・米金などがあり、回漕問屋には上総屋・相模屋・伊勢屋・越後屋があり、「船持四十三軒、船八十」があったといいます。

この賑わいを見せていた登戸は、明治27年(1894)に千葉・東京間の鉄道が開通すると、急激に衰えました。


新しい千葉駅と共に新しい街づくりが期待されている知恵も必要になってきている時代に来ています。

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2016年西登戸子ども神輿 205回

2016年09月02日 | TOPページ

2016年西登戸子ども神輿 205回

  • 2016年8月27日、西登戸子ども神輿が行われました。自治会の皆さんや子供会のご父兄のご協力によりたくさんの方が参加して行われました。私たちの住んでいる西登戸に石尊神社があります。この子ども神輿は、石尊神社のお祭りです。
    どうぞ動画をご覧ください。


2016年西登戸子ども神輿





石尊神社のゆかり
 
私たちの住んでいる西登戸には石尊神社があります。
この石尊神社は、一体何時頃、どんな縁があってこ地にた建てられたのでしょうか?

石尊神社のゆかりを知るには、田村吉右衛門(後、田村正顕と名乗る。)さんという方を知らねばなりません。

田村吉右衛門さんは江戸時代(1778年)宮野木の能勢家に生まれ、後に穴川を開発し田村家を名乗りました。

田村吉右衛門さんは四十六歳の時、文政七年(1824年)の時当時千葉町、登戸村、寒川村、黒砂村などが草刈り場としていた穴川の原野を開発すべく、その時の領主堀田駿河守に開墾のお許しを願い出ました。

しかし高台で水にも恵まれず土地が痩せていたので集まって来た農家の人々も去っていく有様です。

田村吉右衛門さんはなんとかしようと思い、原野を区分し木を植え、道路を作り、井戸を掘り、移住者を保護したりして開墾に邁進しました。
天保大飢饉も乗り切り素晴しい開拓地にしたのです。

開発に尽力して下さった青木安太郎と手代白藤佐衛門両氏を左右に領主堀田相模守正睦公を中座に祭り「福寿石尊」と崇め穴川鎮守社を建設したのです。

田村吉右衛門さんは1847年の8月、六十九歳で亡くなりました。西登戸に穴川石尊神社の末社を作りそのすぐ前に葬られました。ここれが西登戸石尊神社のゆかりです

鈴木富治氏の文書より
 
 

 

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