生石高原・紀伊の風

紀州和歌山の季節と自然のフォトページ

わが町・和歌浦[Ⅰ]

2010-01-12 | 季節は今






年々、正月気分が早く抜ける…と言うより“やれやれ”となるのは世の様変わりの影響なのでしょうか…人日の節供(春の七草)、十日戎、成人の日も終わり、時節は「小寒」の次候「水泉動」(すいせんうごく)となりました。

そこで、皆さまには

     寒中のお見舞いを申し上げます。

さて、今回は玉津嶋神社神殿の裏側(西)にあって、“鏡山”の倍ほど高い奠供山(てんぐやま)から和歌の浦の朝景、夕景のご紹介です。
奠供山も万葉ゆかりの山で、聖武天皇が和歌の浦にご行幸の折り、山頂に神を祀ったとされます。その山頂には“望海楼の碑”があるように、東方向には名草山(紀三井寺)、和歌川…南向きには藤白、マリーナシティから片男波…西方向には紀伊水道、沖ノ島、高津子山などが一望出来ます。もちろん生石高原も薄っすらと見えます。 昔は海に浮かんでいた…と誰もが想像できる岩肌には、ウバメガシ、クロマツなどが彩る急峻な岩山です。明治時代には日本で初めてと言われるエレベーターで山頂の茶屋まで客を運んだそうです。

高津子山の元には観光ホテル街がありましたが、倒産、廃業で主だった旅館は殆ど無くなり、芸者さんの検番もそれより早くなくなりました。温泉の出ない観光地の悲哀でしょうか。
和歌浦漁港の近くでは昔より蒲鉾など魚の練製品製造の盛んな町でしたが、これも数軒残すのみとなりました。また、和歌川では海苔養殖が盛んで“和歌海苔”のブランド名で活況だったのですが、現在では途絶えて久しくなってます。古くからの地場産業が衰え、それに伴うベッドタウン化とともに静かな、いや沈滞した町になりつつあるように思われます。
この上は観光にウエイトを置こう…と以前よりとり沙汰されますが、ファインダーを覗けば電柱、看板等々折角の史跡物、景観を害する余計なものが目立ち過ぎ、中途半端で雑多なのがよく判ります。今からでも住民等が率先して景観などに過剰と思われるほどの目配りと実践を覚悟しなければ先細りの感は否めません。

和歌浦は現在では和歌浦東、西、南、中と4地区に分れますが、以前は新旧合わせて14の町区で構成されてました。子供の頃など野球、駅伝競走などその“字”(あざ)別対抗の催しが行なわれ、大人も子供も顔馴染で大よそどの町区の人であるか分ったのですが、十数年の間に移り住む人が増え見知らぬ人が多くなりました。



      高津子山に朝焼け雲…左水平線上に沖ノ島


        




観海閣とともに“不老橋”(太鼓橋)は和歌の浦の象徴です。前にも述べましたが人口砂浜の片男波海水浴場へのアクセス橋で塞がれてしまいました。いくら掘っても貝など採れない砂浜へ行くために…残念でなりません。広島県の“鞆の浦”も景観問題が生じてます。和歌浦の二の舞とならないよう祈るばかりです。

不老橋は紀州徳川家10代藩主治宝(はるとみ)の命により嘉栄4年(1851)に、家康を祀る紀州東照宮の祭礼“和歌祭り”の際、徳川家や東照宮関係者が御旅所に向う“お成り道”に架けられたものです。
肥後熊本の石工集団の製作で、勾欄のレリーフは湯浅の石工石屋忠兵衛の作と言われてます。この時代にアーチ型の橋は九州以外ではたいへん珍しいとのことです。向こうの神社は鏡山の洞に祀られた塩竃神社で、安産の守護で知られます。





        

和歌川には幾つかの顔があります。潮の満ちた時、干潮の干潟、無風の水面とさざ波の風情…今はユリカモメ(都鳥)、カモですが、アオサギ、シラサギ、シギ…と、季節と共に代わります。また時折、タカの仲間のミサゴがやってきて上空から翼を縮めて急降下で水中に突入し、魚をゲットする光景も見ることが出来ます。
昔はハゼ(鯊)ウナギの稚魚など無数に生息してましたが、水質悪化で一時全く無くなりました。このところ何匹か見られるようになり、懐かしい友に出会ったような思いになります。他にはワタリガニ、チヌ(黒鯛)、カレイ、大物ではスズキ、驚きのノコギリガザミにアサリ、ハマグリ等々子供たちの遊び相手でした。
そんな人間の感傷も気に留めることなく、大食漢の“鵜”がたらふく“イナ”でも食ったのか、今日もスッ呆けた面で羽を乾かしてます。