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大井川の渡船と通船その3

(大井川通船の目印の幟り)

明治三年三月に、昨日紹介した、大井川通船の嘆願書が出されると、待っていたように、四月二十一日には通船を開く旨と、通船には目印の幟を立てるように絵入りで付達された。それに対して、四月二十三日には川越し側から「大井川通船差止方島田宿嘆願書」が出る。二日後という速さに危機感を感じる。これも、書き下したものを示そう。

  恐れながら書付をもって嘆願奉り候。
今般、大井川入山内より物産御運輸のため船御製造、御目印の幟りを立て、御通船遊ばされ候積り、もっとも往還川越場へ差障りなき様、御取締の儀、その筋へ御申し渡しに相成り候条、小前末々の者までも洩らさぬ様、聞き置くべき旨、御廻状の趣き拝見承知仕り候。

 ※「山内」-山の中、山中。「大井川入山内」-大井川を入った山中、くらいの意味。
 ※「積り」-意図。
しかるところ、当宿の儀は、大井川筋当時渡川場よりおよそ拾町余り、字向谷より川下が字砂山まで、川丈が弐拾六丁の間、本道渡瀬御定めの場所に相成り居り候に付き、右場所へ通船の儀、恐れながら御差し支え申上げ候。
 ※「渡瀬(わたせ)」-徒歩で渡れるような川の浅瀬。

このあと船を通すと川底を深く浚うため、近辺の農業用水の取水が難しくなると、かなり苦しい理由を述べる。(中略)

さてまた渡川方の儀については、一昨辰年十一月、細川越中守様御東下、大井川橋掛けまたは船にても持参仕り、御渡り成られ段、御同家御役人中より御話しを請け、川方役人共当惑仕り候折から、駅逓司奥田鎌助様、近宿御泊りに付き、取扱方御伺申上候処、大井川別段の儀に付、右様の儀元より相成らず、諸藩と相対をもって役人共みだりに橋を掛けあるいは船等取扱候義、決して相成らず、この後右様の儀これ有り候えば、役人共落度たる旨、厳重に仰せ渡され候に付き、即、細川様へその段申し出、御差し止め相成るほどの儀に付き、恐れながら天朝に為され置き候ても、御制禁に相成り候儀、存じ奉り候。
 ※「制禁」-ある行為を禁止すること。禁制。
右に付、本道に相成る場所ヘ船御差入れ儀、私共において御請け申し上げ置き候御儀に御座候。さてまた今般御廻文に、小前末々までも洩れなき様申し聞くべき段、仰せ出され候に付き、島田方川越六百余人、者どもへ申し渡し候ところ、この節当川間道筋、船等にて旅人夥(おびただ)しく越し立て、都(すべ)て本道より通行多く、中にも細島村前において船越し仕り候旅人引戻し候事件、宿で詰め御調え御訴え申し上げ置き候程の場合、先前より御取締下され置き、かつ天朝御新政相成り候いても、川場の儀は万事先程の通り相心得え御達しもこれ有り、なおまた昨巳五月中、間道越えの儀に付いても、厳重に御触れ流しこれ有り候義に御座候をも相犯し候次第、御取締り願い上げたく申し合わせ候。折柄、又候(またぞろ)川上通りへ通船出来候いては、右取締方、当今御定め御座候いても、恐れながら自然みだりに相成り、御武家は申すに及ばず、平旅人等まで船の方へ相廻り、川越ども渡世追々衰微相成るべく、不茲而巳(ここのみならず)、間道船通用便利と他国一般の風聞相立ち候えば、往来の旅人その方へ相廻り候儀は眼前の儀に付き、左候えば宿内茶屋・旅籠屋・煮売はじめ諸商人に至るまで、生活の途(みち)失い、自然一宿退転の基と相成り申すべき儀と心得、心痛仕り候。右之次第に付き、当宿事情御汲み分け、下た方難渋相免れ、永久御仁恵相蒙り候御所置、偏に戴き奉りたく、恐れながらこの段、宿川方一同連印書附をもって願上奉り候、以上。(以下略)
 ※「又候(またぞろ)」-「また」に「そうろう」が付いた「またぞうろう」の音変化。同じようなことがもう一度繰り返されるさま。またしても。またもや。
 ※「不茲而巳」-ここのみならず。「而巳」のみ。

この嘆願書の筆者は通船に差し支えを申しながら、時代の流れは解っており、放って置けば間道の渡船に旅人がどんどん流れていくことも承知のうえで、せめて地域内の渡船の用は自分たちに独占的に請けさせて欲しいと嘆願している。まだまだ曲折はあるが、一年後には大井川の本道の渡船が川越し衆によって行われることになる。
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大井川の渡船と通船その2

(庭のジンチョウゲ咲く)

「大井川通船の儀に付製塩方宛川根住民願書」の書き下したものを以下へ示す。

   恐れながら書付をもって願い上げ奉り候。
大井川通り川根在の役人ども申し上げ奉り候。私ども村々の儀は極く山中谷間の在所にて、地味宣しからず、焼畑山仕り、稗、粟等を仕るに付、渡世仕り候えども、夫食引き足り申さず、殊に猪鹿に食い荒され、尚また違作打続き難渋仕る。

 ※「夫食(ふじき)」-江戸時代、農民の食糧のこと
 ※「引き」-動詞に付いて、その動詞の示す動作・作用を強める意を表し、また、語調を強めるのに用いる。
 ※「違作(いさく)」-農作物のできが予想より悪いこと。不作。凶作。
靜岡よりは凡そ八九里より十里余り相隔て、島田宿より梅地村までは十八九里もこれ有り、牛馬の通りもこれ無く、極く嶮岨の山路を打越え、誠に深山にて、米穀塩味(噌)その外何品に限らず人歩にて背負い来る。しかるところ、さる寅年、まれなる大地震に付、山々谷々道筋難所多く、大風雨の節は山崩等致し、四五日宛も留るに相成り、小前末々の者まで日々凌ぎ方差し支え極く難渋仕り、実を以って道宜しからず。
 ※「小前(こまえ)」-江戸時代、田畑や家屋敷は所有するが、特別な家格・権利を持たない本百姓。小作などの下層農民をさす場合もある。小前百姓。
米は三斗弐升入り壱俵、諸色は拾弐貫目を壱荷と定め、金壱分壱朱より弐分壱朱位の駄賃相掛け、窮屈の土地に御座候。村役人共打寄り種々勘考相談仕り候ところ、外に手段これ無く、上り下り通船御差し免じ下され置き候はば有難く存知奉り候。
 ※「諸色(しょしき)」-必要ないろいろの品物。
かつ所有の朽木、枯木は申すに及ばず、炭薪等に仕立て、売り捌き方仕り候いても、奥村より向谷までは十三里余、同所より海辺までは三里余これ有り、何れも算引合い申さず、とかく村々助成これ無く、難渋の次第に御座候。かつまた川下まで通船願い上げ奉りたく存じ奉り候えども、御上様御関所同様の場所に御座候間、この段恐れ入り奉り候。山中の便利のため、島田宿在向谷村、遠州金谷宿在横岡村より、水上桑野山村まで凡そ十四里の場所、川船運送御差し免じ、成り下され候様、願い上げ奉り候。御冥加永の義は船数をもって御上納仕りたく存じ奉り候。かねて年来の志願に御座候。
 ※「冥加永」-冥加金。「永」は永楽銭の略。後に、便宜的に年貢・物価などの計算基準として用いられた銭貨の名目的な名称。
今般、嘆願奉り候通船の儀に付いては、右村々は申すに及ばず、大井川筋山中御用御荷物これ有り候節は、右船をもって運送仕り申したく、恐れながら存じ奉り候。何とぞ格別の御慈悲をもって、山中便利のため通船運送御差し免じ仰せ付けられ、成り下され置き候わば、一同相助け莫大の御仁恵と有り難き仕合せに存じ奉り候。これによって村々一同恐れながら願い上げ奉り候。以上。(以下略)

時代の流れでもあり、冥加金や御用荷物にまで言及されれば、差許さない訳には行かない。しかし、既得権者の抵抗は大変大きい。通船の実施にはまだ曲折がある。
(明日へ続く)
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大井川の渡船と通船その1

(今年も庭のヒヤシンス咲く)

土曜日の午後、第9回「島田金谷の考古学と歴史」の講座に出掛けた。今日のテーマは「大井川通船組合から大井川鉄道へ ― 大井川の舟運と陸運 ―」であった。「明治の大井川川越し」の事情については「歳代記」の記事を解読して、1月28日から4回にわたって書き込んできた。資料が「歳代記」だけだから、幾つも疑問が生じたが、それは後日の課題に残していた。今日のテーマはまさに「明治の大井川川越し」の中で生じた疑問を明らかにするもので、越すに越されぬ大井川のその後を解明するものであった。今年受講した「金谷宿大学」の二つの講座、「島田金谷の考古学と歴史」と「古文書に親しむ」がここで初めて交差した。

明治3年、いまだ維新の熱気が覚めやらぬ時代に、一通の嘆願書が製塩方御役所に出された。「大井川通船の儀に付製塩方宛川根住民願書」という。この古文書を所蔵していたのは島田市神座の旧家で、よく見ると女房の親父の実家であった。どういうわけで嘆願書(おそらくその控えだと思う)が神座に残されていたのか、今一つ事情がつかめない。一度神座の親戚にたずねて見なければなるまい。

大井川に船が許されたときの事情を見ていくと、「渡船」と「通船」の二つの言葉が出てくる。「渡船」は文字通り渡し船で、大井川の川越しに変わるものである。これに対して、「通船」は山中から海まで、大井川の舟運を荷運びの手段として利用しようとするものである。

「製塩方」は徳川家が封じられた静岡藩70万石の産業を興すために、遠州中泉(磐田市)に置いた役所である。遠州の浜で製塩業を起そうと考え、役所を磐田に置いて、製塩方と名前を付けたのであろう。製塩方のトップは静岡藩役人の松岡萬(つもる)である。その名は「歳代記」にも何度か出てくる。

松岡萬は徳川慶喜の身辺警護をした新番組の隊長格として、慶喜に随行して静岡に来た。幕臣でありながら熱烈な尊王論者で、安政の大獄で処刑された頼三樹三郎の片腕を小塚原の刑場から盗み出し、神棚に供えて祀ったという奇行も伝わっている。静岡藩では幹部として産業の振興に力を発揮した。中条金之助らと牧之原開墾に尽力したのち、磐田郡幸浦湊浜(旧福田町)で製塩事業を進めた。地元農民からは「松岡さま」と感謝され、珍しく生前に、二社の神社(磐田市の地主神社と岡部町の松岡神社)に祀られている。
(「大井川通船の儀に付製塩方宛川根住民願書」については明日に続く)
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かなくん誕生

(庭の松と青空)

午後、パソコンの前に座って土曜日の金谷宿の講座のまとめを書き込んでいた。昼のニュースでは麻生内閣の支持率がまた下がって、9%と一桁台に下がったと告げていた。

午後2時過ぎに電話が鳴った。来たーという予感があった。女房の声で「生まれたよ」「そうか」「3350g、母子ともに元気、普通分娩‥‥」「‥‥けっこう掛かったなあ」そんな会話があったか。「豊岡と伊勢には知らせておいて」「判った」と言って、電話のそばに寄ってきた下の娘に変わった。午後2時前に名古屋の娘が男子を出産した。名古屋に居る女房からの電話であった。性別が会話に無いのは、事前に判っているからである。予定日より一週間遅れで、やきもきさせたが、昨日のお寿司とチョコレートフォンデュの前祝いが効いたようだ。二人目の孫、かなくんの誕生である。

さっそく豊岡と伊勢に連絡した。すでに決めているように話していたから、名前の説明までしていると、下の娘から、まだ正式に決めたわけではないのだから、その話はまだ早いといわれた。そういわれればそうだ。近所のおばさん達からムサシの散歩のたびに聞かれると下の娘が言っていたから、連絡しなくてもよいのかと聞くと、聞かれたら話すと冷静である。おっと、肝心な連絡を忘れていた。二階の長男に連絡していなかった。手に持った携帯で連絡した。同じ家で携帯使わなくてもいいのに、とまた駄目が入った。どうも行動が浮ついている。

初産の年齢がやや高く、出産が遅れるようなら帝王切開も、などといわれていたようだが、本人は何でも普通分娩にしたかったらしい。病院の中を歩いて歩いて、遅れたけれども、とうとう普通分娩をやり遂げてしまった。子供のころ、山登りに連れて行くと、登り始めてすぐに “花摘み” に行く癖があったが、しっかり歩いたのが良かったのだろう。

その内に下の娘の携帯に写真が送られてきた。上の娘夫婦の間に赤ん坊が写った写真であった。親の顔はどうでもよい。かなくんの顔を大きく送れと、下の娘にメールさせた。送り直してきたが、まだ小さい。まーくんよりも300g、およそ一割多いだけに、顔つきがしっかりしているように見えた。切れ長の目、彫りの深い顔など皆んなで勝手なことを言ったが、携帯の画面では小さくてわかりにくい。

そおっとパソコンの背後に這って来て、服を引っ張るまーくん、振り向くと急いで逃げようとするが、足をばたつかせるだけで、つかまってしまう。にやっと笑う、腕白坊主になりそうな予感のまーくん。その独壇場も今日で終わり、しばらくはかなくんが注目を集めそうである。それで、何時こちらへ戻ってくるのだろう。退院したら母子で一ヶ月ほど、こちらで過ごす予定になっている。
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デザートはチョコレートフォンデュ

(デザートはチョコレートフォンデュ)

昨夜夕食時に「色々なものに、溶かしたチョコレートをつけて食べるのをなんていうんだっけか」と聞いた。「チョコレートフォンデュでしょう」と、まーくんのパパが答える。昔、訪欧したときに、スイスで食べたフォンデュは溶かしたチーズをつけて食べる料理で、そういえばチーズフォンデュといった。当時、面白い料理があるものだと思った。「フォンデュ」というのはフランス語で溶かすという意味であるらしい。

チョコレートフォンデュを食べたいと思ったわけではなく、明日はバレンタインデーだと思い、ふと話題にしただけである。そういえば、もう義理チョコをもらうこともなくなった。

午後、まーくんのママが名古屋の姉に電話している。今朝方、陣痛があって入院したが、まだまだ生まれそうになく、医者に言われて病院の階段を上り下りしたりしている。それに付き合う女房はかなりくたびれている模様である。女房が名古屋に行ってからもう10日経った。娘が今日はカレーだと話すと、カレーばかりでなくてお寿司でも買ってもらって食べなさいと言われたという。女房が出かけるときカレーで、10日ぶりのカレーなのだが、女房はカレーばかり食べさせられていると思っているらしい。

せっかくだから、息子とお寿司を買いに行く。まーくんのママは今夜のデザートはチョコレートフォンデュにするから、材料を買ってきて欲しいという。作り方はネットで調べた模様である。まだ、バレンタインチョココーナーが残っていたが、フォンデュ用のチョコレートを探すのが大変であった。ようやく見つけた分厚い板状のチョコレートは1000円もした。他に、生クリーム、イチゴ、バナナ、リンゴ、パイナップル、マシュマロ、クロワッサン、ビスケットなどが材料になる。

板状のチョコレートを刻んで、生クリームを加えて、加熱すると液状のチョコレートが出来る。冷えると固まるから加熱するために、カセットフーを持ち出してきたが、息子がボールにお湯を入れて鍋ごと漬ければいいという。なるほど、こうしておけば火を気にしなくてもいい。

お寿司を食べ終わってから、チョコレートフォンデュのデザートを紅茶で頂いた。チョコレートはどんなものにも意外と合ってしまう。好評に美味しく頂いた。娘は60過ぎのおじいさんがチョコレートフォンデュを食べたがるのは珍しいと言う。食べたがったわけではないが、結果的にはリクエストしたことになったのであろう。この歳になって、始めて口にするものがあるというのは楽しいことである。コレストロールを気にしている女房の発想からは出てこないレパートリーかもしれない。
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年金基金の代議員会

(気付かずにいたら鉢のクロッカスが花盛り)

今日は春一番というのであろうか、日本を横断する低気圧が発達して南風が吹き、最高気温は20度を越した。今朝は、旱魃の中国大陸から飛んできた黄砂が、浅間山の火山灰のように、車のフロントガラスを汚していた。昼間は何とか空は持ったが、今夜半から雨が降り出している。いよいよ春の到来であろうか。

しかし、世界経済に春の兆しは無く、一進一退を繰り返している。午後、業界の健保組合の組合会と年金基金の代議員会があって、静岡に出かけた。健保組合は派遣業の人員激減が響いて運営を苦しくしており、年金基金は株価の下落で、資金運用上大きなマイナスになり、ITバブル崩壊後の危機に続いて2度目の危機を迎えている。年金基金の前回の危機では、厚生労働省の緩和措置によって、多くの年金基金が破綻をまぬがれ、その後の市場の恢復で危機を脱出していた。

年金基金の会合では、今朝新聞各紙で報道されたニュースに話題が集中した。サブプライム問題やリーマンショックによる世界的な株価下落で、企業年金の資産運用が大きなマイナスになっているのを受けて、厚生労働省は12日、年金財政の運用基準を緩和する方針を固めた。運用がマイナスになって、将来の年金給付に備えた積立金が不足する場合は、企業に追加拠出を求めるルールとなっているが、緊急措置として1~2年猶予するか、追加拠出を求める基準を引き下げるというもので、4月以降に省令などが改正される。

新聞によると、厚生年金基金の運用実績は05年度21.08%、06年度4.62%とプラスだったが、07年度はマイナス12.03%と過去2番目の厳しさで、08年度も、20%程度のマイナスとなる可能性が強いという。当年金基金も似たような状況で、厚生労働省の緩和措置頼みの状況であった。

    *    *    *    *    *    *    *

自宅に戻ると必ず庭にいるムサシの名前を呼ぶことにしている。しかし、たいがいは知らん顔のムサシである。ムサシが自分の領分だと思っている芝生の中に入ると、見境無く、鼻にしわを寄せて、うなり、吠える。たまに機嫌がいいと飛びついて来る事もあり、テニスボールをくわえて来て、ボールを投げて遊べという。ボール投げも二度までで、三度目はボールをくわえて来るが、そばへは寄ってこない。飽きっぽいのだ。何とも愛想のない犬である。

ところが女房の留守が続いて、最近ムサシの弱みを見つけた。散歩のあと、女房がかなりの時間ブラシを当てているのを思い出して、昨日、櫛を持って芝生に入ってみた。櫛を見つけてムサシが飛んできて、身体をすり寄せる。櫛をあてて欲しいのだろう。しばらく、櫛をあてたり、白い冬毛をむしってみたり、スキンシップが出来た。調子に乗ってむしっていたら、痛かったのかワンと吠えた。
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人工衛星の衝突と火山のレントゲン

(今年も咲いた庭の鉢のシンビジウム)

今日は科学のニュースが重なった。一つは、人工衛星の衝突の話である。日本時間で11日未明に、アメリカの商業通信衛星とロシアの通信衛星が衝突した。地球の周りは今や人工衛星だらけで、いつかは人工衛星同士がぶつかることも予想されていたが、まだまだ大変低い確率であるといわれていた。地球の周りに存在する人工衛星と宇宙ゴミは、1万数千個存在しているが、それらの軌道はすべて把握されているから、新しい人工衛星はそれらを避けて上げられ、ぶつかりそうになると軌道を修正して回避するといわれていた。

衝突したのは米衛星電話会社「イリジウム・サテライト」が1997年に打ち上げた衛星と、現在は使われていないロシアの通信中継用の衛星であった。米衛星が500キロ、ロシアの衛星が1トン近くある、それぞれ大きな人工衛星である。これによって新たに10センチ以上の破片、約600個が飛び散ったという。

軌道上で人工衛星同士が衝突したのは初めてのことだといわれる。しかし低い確率にしろ発生してしまった。いよいよ、地球の周りにある役割が終った人工衛星や宇宙ゴミを収集するシャトルが必要になるかもしれない。とはいえ、それらはすべて高速で地球の周りを回っており、追いかけて回収して回れるようなものではない。どうするのだろう。

今日のニュースでもう一つ、今月2日に噴火した浅間山で、火山の内部のマグマ活動の様子を、レントゲンを取るように測って、知ろうという試みが行われたというニュースがあった。

昨年、日本人が授賞したノーベル物理学賞は素粒子の研究であったが、今回、東京大学の研究グループが実施したのは、宇宙から降り注ぐ素粒子「ミューオン」を利用して、浅間山の火口内部の構造を明らかにしようという実験である。「ミューオン」は密度が低い物質は通り抜けるが、マグマなど密度が高い物質にぶつかると消滅する。その性質を利用して、山を通過する「ミューオン」を測ることで、火山内部の様子を知ろうとするものであった。

浅間山に昨年設置された装置が今回の噴火の状況を捉えていた。過去のマグマの通り道や、火口の底にあった岩石が噴火で吹き飛ばされた様子が確認できた。また、火口直下にマグマの上昇は見られず、今回の噴火がマグマの噴出ではなくて、水蒸気爆発による噴火だとする観測結果を裏付けるものであった。浅間山の地下深くでは今もマグマの上昇は続いているはずで、今後も観測を続けていけば、噴火の予測がより正確に出来ると考えられる。今後、国内や海外のいくつかの活火山に設置される予定という。
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建国記念の日とW杯サッカーアジア予選豪州戦

(W杯サッカーアジア予選、対豪州戦 君が代が歌われる)

「建国記念の日」であった今日、ニュースを見ていて、「建国記念の日」関連の目立つ報道はほとんど無かった。「建国記念の日」らしい特別番組も無く、メーカーでは休みもなっていないところが多い。会社も今日は操業日であった。

「建国記念の日」は、戦前の紀元節で、日本書紀で神武天皇が即位されたと記されている日を、グレゴリオ暦に当てはめて、紀元前660年2月11日になるので、その日を国の誕生日として祝日にしたものである。昭和42年2月11日から「建国記念の日」と決められた。

当時から「建国記念の日」には何ら歴史的根拠がなく、これを許せば歴史が歪められるとか、戦争につながるという批判が、特に進歩的文化人と呼ばれる人たちからあり、長い間、奉祝と反対でそれぞれ集会を開いて、ある意味でにぎやかな建国記念の日が続いた。

あれから40年経ち、この間に「建国記念の日」によって歴史が歪められたという話も聞かないし、戦争を引き起こすこともなかった。あの当時、進歩的文化人は、日米安保で日本は戦争に巻き込まれるとか、社会主義国家は理想国家であるとか、色々な発言をして世論をリードしてきたが、その後、半世紀を経て、そのことごとくが外れていることに気付く。しかしながら、後年そのミスリードに対する反省に言及した人はほとんどいない。まあ、その間に鬼籍に入った人も多いわけであるが。

特別番組も無くて、今夜は、W杯サッカーアジア予選の天王山とも言うべき、対豪州戦のホームゲームをテレビ観戦した。セレモニーの最初に、オーストラリア南部の山火事で180人にも及んだ犠牲者に黙祷を捧げるところから始まった。6万人を越すスタジアムに、1分間、水を打ったような静寂が訪れた。世界を探してもこれだけ礼儀正しい観客はいないだろうと思った。ゲームを終始支配した日本であったが、試合は両者点が入らずドローとなった。

「建国記念の日」で愛国心を高揚されることはほとんど無い。ところが、若者たちの中には、サッカーなどで日本を熱狂的に応援し、一種の愛国心を発揚する人たちがいる。それを「プチ愛国心」「プチナショナリズム」などと称して、危険視する文化人もある。ことがスポーツに留まっている分には全く問題にならない。ところがその延長で、近隣諸国との関係がギクシャクし、一見理不尽と思われる立場に日本が追い込まれると、猛烈に反発を感じ攻撃的発言をする若者たちが多い。ネットの世界を少し見れば、そういう反発が増幅し巻くっている。今の若い人たちの多くは、海外に出ることもほとんど無く、新聞やテレビニュースも見ないで、情報のほとんどをネットから得ている。だから、考え方が一方的になるきらいがあるだけに、そういう面では、少し心配にはなる。もっと多くの若者たちを海外に出すような政策は無いのだろうか。
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世界金融危機は大いなるチャンス

(女房が留守でこころなし淋しげなムサシ)

地球温暖化のため、CO2削減が言われて、京都で開かれた第3回締約国会議にて、京都議定書が採択されて11年経つ。総論は賛成でも、それでは経済活動を落としても削減するかと言えば、どこも積極的にはならない。削減削減と言い、計画は立てても、CO2の排出量は増えるばかりである。温暖化の影響は、年明けの今年だけでも、オーストラリアの熱波や中国の旱魃という形で現れている。オーストラリアでは熱波に加えて山火事が発生し、たくさんの死者が出ていると聞く。その影響は世界各地にじわじわと広がっている。しかし温暖化対策は遅々として進まない。

人類が温暖化にブレーキが掛けれなければ、「大いなる意思」が働いて、地球規模でリセットが行われるのではないのか。ノアの大洪水のようなものか、地球を覆い尽すほどの大噴火、大隕石の衝突であろうか。あるいは、大海を多い尽すほどの大量の藻が発生し、一気に光合成によってCO2を正常の戻すとか、ほとんどSFの世界のような空想を抱いていた。何が起きても人々の今の生活は続けて行けなくなるであろう。

ところが、「大いなる意思」は、偽りの繁栄ともいうべき、人類の作った金融システムの破綻と言う形で働いた。現在進行している世界金融危機によって、あれだけ高騰した石油も需要減から3分の1に下落している。自動車産業をはじめ、CO2を排出してきた産業が軒並み削減に追いやられている。経済活動が三割落ちればCO2は黙っていても30%の削減がされる理屈である。何やら神がかって聞こえるかもしれないが、観方を変えれば、「大いなる意思」が働いたと言えなくはない。最近そんな観を強くしている。

これは9回の裏ツーアウトからもらった、一打逆転のチャンスである。各国政府はこの世界金融危機が世界恐慌に陥らないように、懸命に手を打とうとしている。しかし、手の打ち方を間違えれば、元の木阿弥で、チャンスを徒に潰してしまいかねない。現代のニューディール政策を打ち出すならば、この際に思い切って省エネや環境に特化したニュービジネスに資金を集中投入し、CO2の削減を思い切ってなすべきである。

今回の経済の後退を取り戻すには3年~5年掛かるだろうと考えられている。この期間は「大いなる意思」が人類に与えた執行猶予期間だと思う。それを上手く生かせないならば人類に未来はないだろう。そしてどんな形になるか判らないが、今度こそ大きなリセットが行われる。
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欧州共通通貨「ユーロ」の行方

(会社駐車場照明塔の上のカワウ)

昼間、会社へ証券会社が来て話をした。その中で、今、ドルよりもユーロの方が、先行きが心配されていると聞く。欧州共通通貨「ユーロ」は一時は世界の主軸通貨の地位をドルから奪うのではないかと思われるほど勢いがあった。サブプライム問題、リーマンショックを経て、打撃は当然ドルが一番受けるものと思っていた。ところが、同じ打撃を受けながら、ドルはアメリカ政府が、出来る対策はすべてというほど迅速に手を打ってきた。それに対して、ユーロは加入各国政府の思惑などがあって、決して一元的に有効な手が打たれていない。その遅れが致命的にならねば良いがという話であった。

通貨相場を見ると、円ドルが昨年9月110円台だったものが、90円台と20%のドル安に対して、円ユーロは昨年9月160円台まであったものが、120円を切って30%近いユーロ安の状況になっている。明らかにドルよりもユーロの方が安くなっている。

夜、NHKの「クローズアップ現代」で、「ユーロ 試練の時」と題して、この問題を扱っていた。よいタイミングだと思って番組を見た。

「ユーロ」は導入されてから10年、当初、オーストリア、ベルギー、ドイツ、フィンランド、フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ポルトガル、スペインの11ヶ国で始まり、その後、ギリシャ、スロベニア、キプロス、マルタ、スロバキアが順次加入して、現在16ヶ国が加入している。導入依頼、ヨーロッパの経済成長を担ってきた。そこへ今回の世界金融危機が起きて、「ユーロ」は初めて試練を受けることになった。

「クローズアップ現代」では昼間の話とは少し違って、この金融危機の最中、加入をしていない諸国の弱小通貨が、ユーロ以上に打撃を受けて、危機的な状況となっており、ユーロの強みが鮮明になってきたという。そのため、ユーロ導入に消極的であったデンマークやスウェーデンなどが導入の意向を表明するなど、ユーロが新たな転機を迎えているという話であった。一方、ユーロ参加資格に達していないリトアニアなどの諸国は、金融危機で受けた経済的打撃で、ユーロ加入の道がさらに遠くなっていく。ユーロ圏を拡大するには、ユーロ参加資格を緩和すべきであるが、弱小国を加入させると、ユーロはドルや円に対してさらに弱くなるというジレンマがある。

「クローズアップ現代」ではユーロの強さが強調されていたが、それは未加入の周辺通貨に対してであって、ユーロがこの金融危機に対して内抱する問題についての言及は期待したほどなかった。

まーくん一家は日帰りで名古屋に激励に行ってきた。帰ってきての話では、まだ出産の気配なしという。
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