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「竹下村誌稿」を読む 7 戸口

(掛川城公園の紅葉)

午前中、第4回目の島田の神社を巡る散歩に出かけ、2時間半ほど歩いて来た。巡った神社は、牛尾の水神社と、同じく熊野神社である。この話はまた後日とする。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第八節 戸  口

本村戸口は、大正六年末現在、戸数74戸、人口459人、内、男232人、女227人にして、一戸平均六人二分余に当る。これを本県一戸平均六人一分、本郡一戸平均六人〇九厘に比すれば、較べるや優位にあるものゝごとし。また人口の密度は、一方里に対し約18,360人の割合にして、本郡平均1,400余人、本県平均3,226人に(全国平均密度1,800人)対する匹儔に非ずと云うべし。
※ 匹儔(ひっちゅう)- 匹敵すること。同じたぐい・仲間とみなすこと。

試みに戸数を職業別にすれば、農業52戸、工業4戸、商業9戸、雑業9戸、一見して農村たるを知るべし。抑(そもそ)も、古今東西を問わず、我が国一般の戸口は、職業の何たるを論ぜず、稀疎より稠密に趨(おもむ)き繁殖するの勢いを示すを通例となす。然るに本村は元禄以降、凡そ250年、その間ほとんど消長を見ざるは、異例と云うべし。
※ 稀疎(きそ)- まばらで少ないこと。
※ 稠密(ちゅうみつ)- 一つのところに多く集まっていること。こみあっていること。


大凡生活上、余裕あるべき地を求めて流転するは、人類の目的なるがごとくなれば、その恒座あるものは世々箕裘の農業に従事せるものならんも、あるいは諸種の事情によりて移住流転せるも、またその一因たるを失わざるべく、要するに、人類生活上適当なる住居としての要件を、具(そな)うること多からざりしに因るものならんか。
※ 大凡(おおよそ)- だいたいのところ。あらまし。
※ 恒座(こうざ)- いつもと変わらない位置。
※ 箕裘(ききゅう)- 父祖の業。また、その業を継ぐこと。


参考のため、元禄已来の沿革を下に記すべし。(大正七年四月稿)

  元禄六年(1693)宗門人別調べ
   人口 三百四十一人  内男 百七十九人  女 百六十二人
    内訳 三人出家  二百二十三人観勝寺旦那  四十四人洞善院旦那
      五十七人西照寺旦那  五人大覚寺旦那  七人専求院旦那
      二人長光寺旦那            (下島氏記録)

  正徳五年(1715)名細帳
   戸数五十六軒  人数三百三十四人  内男百二十人  女百十四人

  享保十五年(1730)名細帳
   戸数六十二軒  内三十九軒本百姓  十三軒水吞百姓
   九軒地借  寺一ヶ寺
   人数二百七十三人  内男百四十七人  女百廿五人  出家一人

  延享四年(1747)名細帳
   戸数六十軒  内四十三軒本百姓  七軒水吞百姓  十軒地借
   人数二百四十八人  内男百二十七人  女百十八人  出家二人

  寛政十年(1798)掛川志
   戸数五十一軒  口二百五十一人  内男百二十七人  女百二十四人

  明治四年戸籍表
   戸数五十三軒  内社一  寺一
   人口二百四十人  内男百三十人 内僧侶二人  女百二十四人
                          (以上渡辺氏記録)


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