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掛川藩の終焉と転封松尾藩顛末 その2 掛川歴史講演会

(我が家の玄関を飾るウェルカムデコ)

掛川歴史講演会の後半である。

江戸開城に伴い、徳川家は駿河、遠江に70万石で移封になり、駿河、遠江に領地を持っていた他藩とともに、掛川藩も知行召し上げられ、上総への転封の沙汰が出された。他藩が粛々と随う中で、掛川藩では再三にわたって、転封の沙汰に歎願書を出したけれども、聞き入れられるはずもなく、明治元年の12月には転封が正式に決まり、翌年春には、藩士約740世帯、その家族2137名は、上総柴山に移住して行く。

移住の様子は、まるで難民の避難のようであったという。一部は、家財道具を大八車に積み、焼津や清水の湊で、船に乗り、上総の木更津の浜辺へ上陸、一部は東海道を下って、江戸屋敷在住のものと合流し、陸路を上総へと向かった。藩主太田資美は柴山の観音教寺に本陣を置いたが、柴山の地は農家が点在するだけの何もない所で、城下町が築けるようなところではなかった。藩士たちは柴山からさらに東の、松尾に移り、その地へ城下町を築くことになった。

明治3年には新庁舎が出来て藩政を始めた。藩の名前は「松尾藩」と改称した。新領地150ヶ村。松尾城は函館の五稜郭に似た、四稜郭を作ろうとしたが、土地の形やら、間もなく廃藩になって頓挫したこともあって、現在確認されている城跡には三稜が確認できるだけである。城下の町割りを整備し、学校(教養館)、病院(好生所)、演武場などが造られた。上総の松尾の地は治安が悪く、博徒や悪人が横行していた。「太田の三文頸」という言葉が残っているように、若い藩主は犯罪者を厳しく処断、一度に十数人の首を刎ねたこともあった。

松尾藩では英語教育が重視された。先々代の太田資始は熱心な開国論者だったことも英語教育に熱心だった所以だろう。松尾藩は、藩士たちの努力にも拘らず、わずか4年足らずで、廃藩置県により終焉を迎える。藩士たちの心に去来したのは絶望感だった。その穴を埋めるように、その後、多くの藩士がキリスト教信者になったという。松尾の地で、キリスト教の伝道センターは、元家老の若林種芳宅であった。明治15年の頃からはじまり、フルベッキやヘボンなどの牧師が呼ばれ、やがて九十九里教会となった。

太田藩士が去った掛川はその後どうなったか。それも興味のある話である。この講演では、旧幕臣たちが残したお茶栽培と、報徳運動の話に少し触れられたが、まだ研究途中のようで、是非、この続編を聞きたいと思った。
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