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「亜米利加応接書」 4  及び、蓮福寺の開基の話

(散歩道のキランソウ)

初馬の法事で、掛川市街の蓮福寺へ、参会者が挙って寄った。塀の内側に案内板が立て掛けてあるのに気付き、写真に撮った。一部壊れて、引っ込めたもののように見えた。

西暦1603年の事件
当山開基は、掛川城主松平定勝公の家臣にして、(長男)定吉の御部屋家老の重職たり。世は徳川の天下となり、大平を謳歌するの時となりぬ。越えて慶長8年10月、将軍を浜名今切に迎えたり。時天気晴朗にして一点風塵を認めず。偶々一鷹の空を翔るを見て、定吉は舟中よりこれを射落す。以って将軍の覧に供す。図らざりき、将軍の怒りに触れんとは。憤慨の余り帰城の後、屠腹して薨ず。御年19歳なり。殉死する者二十人。御遺言により殉死を思いとどまり、出家得度して主の菩提を弔われたるが即ち当山の開基、加藤宗裕ノ尉信宗という。


読んでみて、これを話の種にしようと思った。現役の頃、誰とも一面識もない宴会に、時々出席することがあった。そんな時、相手に通じる話題を一つ、仕入れて置くことに心掛けた。その話題が口切りになれば、あとは話題を相手に合わせて続ける自信はあった。

食事の席で、青年僧と同じ席に導かれた。以下、口切りの会話である。

「蓮福寺さんは古いお寺なんですか。」
「1603年、開基の伝わっております。400年以上経っています。」
「正解ですね。実は先程案内板を見ました。」
「案内板も壊れているので、新しくしないとと、考えております。」

これで、あとは放っておいても会話は進んで行く。

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「亜米利加応接書」の解読を続ける。

一 満州並びに唐国を、魯西亜にて領し候様相成り候わば、その兵を以って、英吉利所領の東印度を、横領致し候様相成り申すべく、左(さ)候えば魯英の戦争、又候(またぞろ)相起き候事と存じられ候。

一 右様相成り候わば、英国には魯国を防ぎ候儀、殊の外難しくこれ有るべく、右を防ぎ候手段、英国において、もっとも肝要の事と存じ候。

一 それ故好(このみ)き、サカレン(樺太)並び蝦夷、箱館を領し候様、英国にては心掛け居り申し候。左候えば、魯国を防ぎ候に格別の便と相成り申し候。
※ 蝦夷(えぞ)- 明治以前の北海道。

一 右のサカレン、蝦夷を領し候様相成候わば、無数の海軍を両州へ渡し置き、カムシヤツカの港、へートルポルスキとサカレンとの間を断切候便と相成り申し候。
※ カムシヤツカ - カムチャッカ。カムチャッカ半島は、ユーラシア大陸の北東部にある半島である。
※ へートルポルスキ - カムチャッカ地方の首府、ペトロパブロフスク・カムチャツキー。
※ 断切(だんせつ)- たちきること。


一 英国は地続きの満州より、蝦夷の方を格別に望み居り申し候。


読書:「報恩の画 円山応挙伝」水嶋 元 著
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城崎から帰ってきました。 (豊文堂の主人)
2017-04-23 21:27:54
久しぶりのコメントです。城崎から、帰ってきました。三人の孫と、若夫婦が。こんな日が来るとは思ってもみませんでした。どうやら、高いところから、指図をする先祖がいるようです。どちらにしても、とてもうれしいことです。毎日朝早くから、笑いが絶えません。2歳の次女の成長が、著しくて本当に驚いております。k子さんも今日まで子育てによく頑張ってきたと思いますが、
実にうまく躾けており、感心しておりますが、そのことを考えるにつけ、東京時代は大変だったろうなと、思っております。彼らにとって、一番親い叔父さん叔母さんだろうと思います。これからも、ご指導よろしくお願いいたします。
 ところで、円山応挙伝を読まれたそうですが、できれば著者に感想など一言寄せていただければ、喜ばれると思いますので、よろしく。
 
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