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道聴塗説 その四 6

(雨上がりの、庭のヒヤシンス)

球根を植えてから、もう何年くらい経つだろう。

午後、WHさんが見える。今度は襖絵に添えられた題の解読である。渡辺崋山の息子、小華の作品だと聞いた。読もうとしたが、これは難しい。昨日の歴史講演会の続きはまた後日。

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「道聴塗説 その四」の解読を終える。これでほぼ半分近くの解読を終ったことになる。さすがにここまで読んでくれば、親鸞の教義の一端が理解できたような気がする。

然れば、平生の念仏を相続して臨終までに至るを、臨終の正念と申せば、平生の念仏にて臨終の正念を定むべし。それとも自力の念仏ならば、仏力守護なき故に、違縁に遇いては退転もすべし。他力の念仏は、最初より臨終までは如来の御力にて相続すれば、平生の正念の如く、臨終も正念なり。
※ 違縁(いえん)- こころに違う縁。自ら心に望まない事がら。
※ 退転(たいてん)-修行を怠り、一度得た悟りを失って低いほうに落ちること。


然るに、機に就いて法を論ぜば、摂取不捨の何の験(あかし)あるや。此土不退も有名無実なるべし。或は疑う、平生に念仏して往生を信ずる身にも、怨家など害を構え、若くは拳を一つ当てられても、遺恨を存する機なれば、まして殺害に遇いて死なん刹那までも、怨結の心無からんや。その時に念仏して、正念に住せん事は、甚だ覚束なき事なりと申す。この疑いある人には、如何ほど他力不思議を沙汰したりとも、合点すまじきなり。
※ 此土不退(れい)-現世において不退の位につくこと。
※ 不退の位(れい)- 菩薩の初地(歓喜地)の位。(菩薩の修業段階の初地)
※ 怨家(おんけ)- 互いにうらみをもつ者同士。仇敵。
※ 怨結(おんけつ)- あだ、うらみを結ぶ心。


この鈔の旨は、かかる機情の、疑いある人に示し給うとて、死の縁の不定は宿因に片付け、往生は願力に任せて、念仏せよと勧め給う。かく心得て、臨終は狂死すとも、往生は一定と安心決定したらば、仏恩を存して念仏を相続し、臨終に至りて、案に相違して、正念に往生するなるべし。この意を以って鈔に示し給うなり。
※ 機情(きじょう)- 人間のこと。衆生。

初心の行者のほか、不思議を篤と信ぜざるには、かかる御勧化あるべし。されば、聖人(親鸞)の御書に、初めて仏の誓いを聞き始むる人々の、吾身の悪(わろ)く、心の悪(わり)きを思い知りて、この身の様にては、如何が往生せんずると云う人にこそ、煩悩具足したる身なれば、我が心の良し悪しをば沙汰せず迎え給うとは申し候え。(これ初心の行者、機を疑いて法に入らず。これ故に、その疑いの趣に随いて、願力の程を示し給う。次(以)下には深信の人を出し給う)

かく聞きて後、仏を信ぜんと思う心、深くなりぬるには、真にこの身をも厭い、流転せんことをも悲しみて、深く誓いをも信じ、阿弥陀仏をも好み申しなんとする人は、もとこそ心のままにて、悪しきことをも思い、振る舞いなどせしかども、今は左様の心をすらんと、思し召し合わせ給わばこそ、世を厭う験(しるし)にても候わめ、と仰せられたる旨にて、行者の初心、後心の浅深の領解(了解)を知るべし。
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