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島田市(旧金谷町)釜谷集落の散策(2)

(釜谷の不動明王堂)

夜、金谷宿大学役員会。発表会の打ち合わせ。

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(昨日の続き/1月14日の散策)
お不動さんは釜谷の奥、周囲茶畑の真ん中、斜面を石段で登った上にあった。確かに、神社のシンボルとしての鳥居が無い。拝礼の後、お不動さんを拝観した。平らな自然石に線彫りした、素朴な不動明王が坐しました。


(釜谷の不動明王の線刻)

お堂の右手背後に、石碑を見つけた。「義人金兵衛由来」とある。旧仮名遣いではあるが、平文で刻まれて読みやすい。句読点や新仮名遣いなどに少し手を加えたが、ほぼ碑文のまま、以下へ記す。


(義人金兵衛由来碑)

義人 金兵衛由来
通称畳屋金兵衛と云われ、横岡城下(しろした)四五六番地に住み、畳屋
を業(なりわ)いとす。一女ありしが早世、当時、横岡内山の地積を大代
と争い、上に訴えんと名主に計った処、断わられ、金兵衛自ら代
表者となり、一挙にこれを解決せんと、死を覚悟し、江戸へ行く
途中、沼津の石工に命じ、自分と妻と二個の墓石に、各蓮花一
本ずつを刻ませ家に送り、単身直訴し、捕はれ投獄せらる。幕府
は実情調査の結果、横岡の勝訴となりしが、金兵衛は直訴の
罪で処刑せらる。横山家一統らしく、墓は城下、横山家
墓地内にありしが、誰も祭る者も無き故に、金兵衛の祖先の墓
と共に、この地に移し、義人の霊を祭らんとす。


石碑に並んで墓石らしきものが置かれていた。金兵衛さんには跡継ぎも居らず、墓石も荒れるまゝになっていたのだろう。墓石に蓮の花が刻まれていたのかどうか、確認するのを忘れた。

かつて、金谷の石碑について調べていた時、「義人金兵衛」の石碑があることは、何かで読んだ記憶があるが、それがここにあったとは、知らなかった。

不動明王堂の左奥にも、石碑があった。「内山払受記念」と刻まれている。内山といえば、由来碑で大代と争って、金兵衛さんの直訴で勝訴となった土地である。明治になって一度は上地されたものの、その後、村に払い受けたものだと思った。その辺りの事情は、2017-12-23のブログの上知払下げと同じと考える。

不動明王堂の背後、茶畑を上り詰めた先に、石垣のような人工物が見えた。興味を覚え、登ってみた。登りつめたところ、人工物はコンクリートの貯水漕のようで、山と一体化していて、積み上げた石垣のように見えたのであった。農業用水であろうか。マンホールや太いパイプも確認できた。

その用途はともかく、そこからの見晴らしは、なかなかのものであった。真下には、茶畑の広がる中に、馬の背に乗ったような、釜谷の集落が東に向かって延びている。その先の大井川、さらに島田の街から遠くは駿河湾まで見える。左手には、大井川対岸の山々があって、富士山は見えないものの、しばらく見とれていた。

帰りには、竹下の大井八幡神社に寄った。氏神様への初詣でである。しめ縄などが新しくて気持ちが良い。
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