平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
光明寺と木造日本一の大黒天
昨日、名古屋のかなくん一家が帰ってきた。今朝は掛川のまーくん・あーくん家族が加わって幼児三人、我が家はまたサーキット状況となった。ようやく静かになった深夜に書き込んでいる。
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(昨日の続き)
光明寺跡に大黒杉は見つけられなかったが、タラヨウの木を見つけた。「道の駅いっぷく処横川」で購入した「天竜市の巨木・名木」にも紹介されている。幹周り2.48メートル、樹高14メートル、推定樹齢200年で、巨木には足らない。案内板も付いているから、これからも守られて行くであろうから、もう20年もすれば巨木(幹周り3メートル以上)と呼ばれるまでになるであろう。
(現在の、金光明山 光明護国禅寺)
案内板に火災の後、光明寺は麓に移されたと記されていた。車に戻って、地図で光明寺を探すと、尾根伝いに南西へ6、7キロ下ったふもとに寺名を見つけた。奥から浜松市天竜区の二俣に出る少し手前である。現在でも残っているのかどうか危ぶみながら探したのだったが、行ってみると、小高い山を開削して、造営された伽藍はなかなか立派なものであった。かつて山にあった光明寺を、ふもとに移すにも、元の光明寺の雰囲気を残そうと努力されたはずで、かつての光明寺の威容を彷彿とさせる。
光明寺の御本尊は虚空蔵菩薩であるが、その後、光明の大天狗と呼ばれた、遠州五坊の一つ、正一位光明笠鋒坊権現が祀られるようになった。光明寺も山岳仏教、修験道の影響下に入ったと考えられる。この笠鋒坊権現が天竜川の大蛇を退治(治水)したという伝説から、光明寺が水防の神様といわれることになった。
(木造日本一の大黒天像)
幕末に、大黒天を祀れとのお告げにより、大黒天を祀るようになり、昭和12年、ふもとに光明寺を移してから造立された大黒天像は、高さ一丈三尺五寸、メートル余あり、木造では日本一の大きさを誇っている。
光明山にあったといわれる大黒杉は、その大黒天にちなんで命名されたものであろう。大黒杉は昭和6年の火災で、旧光明寺と運命を共にして焼けてしまったと思う。
勝手な想像をたくましくすれば、焼け残った大黒杉の杉材を活かして、今、祀られている大黒天を刻んだ。杉材の大きさをその儘に、刻んだために、日本一の大黒天になってしまった、というような謂れが付いていれば楽しいと思う。しかし、それは自分の妄想である。杉材が彫刻にむくとは聞いたことがない。もっとも、大黒天は彩色されて、材木の種類は窺えないし、時系列的には上手く合う。探して見つからなかった大黒杉が日本一の大黒天に姿を変えて、大黒杉を探してきた我々は、最後にそこへたどり着いたと、このブログに書ければ、書き込みがドラマチックになるのだが?
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
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昭和6年の火災で、大黒杉にも、焼け落ちはしませんでしたが火が入ってしまいそのままでは枯れてしまうということで、青の大黒杉で今の大黒様を彫ったのです。
因みに、かなり大きな太い杉でしたので表面はかなり削ってあり、芯の硬い部分のみを使っているようです。
また、是非お参りください。当山にお出での際にはお声をかけていただければ、都合が合えば詳しくご説明させていただきます。