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「これがほんまの四国遍路」を読む

(大野正義著「これがほんまの四国遍路」)

四国遍路の本、これで4冊目である。大野正義著「これがほんまの四国遍路」講談社現代新書、という本である。氏は門真市役所などの役所を終えて、実に9回も四国遍路に出かけ、四国遍路に付いてブログで情報発信していたところ、出版社の目に止まり出版になった。舌鋒鋭く、遍路の在り方について持論を展開している。自分でもその理屈っぽい悪癖に気付いていられるらしく、改めていうまでも無いが、氏の考えは一つの考えではあるが、お遍路には色々な考え方があるので、あまり決め付けることはいかがであろうかというのが、自分の感想である。

「これがほんまの四国遍路」は持論を展開するに熱心な余り、言いたいことがずれて行っている点や、矛盾などもあり、自分とはお遍路の考え方が違うなあと思いながら読んで行った。

四国を癒しのアミューズメントと位置づけて、お遍路を振興していくという考えは、いかにも長年地方行政にたずさわってきた人の発想方法で、半分賛成であるが、それだけで本当に良いのか。何百年も続いたお遍路には、純粋な巡礼という核になる人々がいたからこそ、廃れずに続いてきたと思う。もちろん自分はそんなに信仰深くないけれども、純粋にお遍路を重ねて白衣に朱印を頂き、それを着せて親を旅立たせたいという思いで巡っている人たちも多い。そういう人たちが何百年も続くお遍路を支えてきたので、癒しと楽しみだけで回る人たちは、外に癒しが求められれば、簡単にそちらへ移ってしまい、何百年も続くことにはなりえない。

氏は行政へ不満を持ちながら、行政がもっと手を出すことを期待している。四国遍路は、弘法大師を慕って、民衆たちが相互扶助で作り上げてきたものである。役人が意図を持って主導したようなものでは、このように長続きはしなかったであろう。お遍路でお金儲けをする人たちを批判するけれども、遍路宿でもお金が稼げて生活の糧になるからこそ、長続きするのである。お遍路をしながら、払える人はしっかりとお金を落としていくのが役割だと思いながら自分は歩いていた。

靴の選び方など、我が意を得たけれども、新しいシューズに刻みを入れるような、生産した人に失礼なことはしなくても、十分豆を作らないで歩くことは出来る。数珠、お線香、蝋燭などは要らないというのは暴論で、線香の香り、蝋燭の光、数珠の感触がすべて癒しにつながることを忘れてはならない。

近道主義で、何も求めて苦行することはないという。自分の遍路では苦行の先に見えてくるものがあるのではないかと思った。しかし、身体は酷使しているが心が澄んで、何とも心楽しくなる日々であった。最短距離を歩くのもよいが、苦行をするのもお遍路の一つのあり方だと思う。

氏の論調は、出来るだけたくさんの人に四国遍路をして欲しい思いでいっぱいであることは十分判る。しかし、最近亡くなられた宮崎建樹氏の「四国遍路ひとり歩き同行二人」は、歩き遍路にとっては欠かすことの出来ないバイブルになっている。この本によって歩き遍路を迷わずに出来た人がどれくらいいることであろう。かく言う自分もその一人である。その本一冊で何の下調べもしないでお遍路が出来た。氏の推奨する二万五千分の一地図を使う方法では気軽に歩き遍路には出られない。

何が違うのか、地図通りに行けばその道に遍路シールがしっかり付いていて、地元の人々に聞きまわらなくても、お遍路が出来てしまうのである。「四国の道」のしっかりした道標は所々で見たが、行政の仕事は中途半端で、おそらくその標識を頼りに歩けた人は誰もいないであろう。「四国の道」の標識はあてにしてはならないというのが、歩き遍路たちの常識になっていた。彼らは行政サービスの一つでやっているだけで、その仕事で食べているという気概も責任もない。たしかに「四国遍路ひとり歩き同行二人」は高い本かもしれないが、歩き遍路を確実に札所まで届けるという責任を果たす努力が徹底されている。宮崎建樹氏亡き今後、「四国遍路ひとり歩き同行二人」が改版されなくなってしまうのかどうか、今はそれだけを心配している。
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