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八木洋行氏講演会 追加 「野守の池など」

(白梅が咲き出した-ムサシの散歩道)

当地を流れる大代川は天井川になっているが、江戸時代に天領となってい多流域の山の木を、用材として切ったことが原因で、土砂がなだれて現在のような天井川になってしまった。かつて大代に池があり、主(ぬし)として鯉が住んでいた。ある時代、池が埋まって住めなくなって、鯉は大きく3回跳ねて、野守の池に入ったという伝説がある。

野守の池は川根町家山にあって、もともと大井川の三日月湖であった。今でも地下水系が流れていて、湧き出して池の水を保っている。この野守の池には各地の池からその池の主(ぬし)が移って来たという伝説が残っている。

奥泉の池にいた大蛇も水が干上がってしまい、そこへ住めなくなって野守の池へ入ったという。中川根の大札山に行く途中に「おろくぼ」という集落があるが、地名が示すように、おろちのいた窪(池)があったが、村人に追われて野守の池に逃げたという伝説が残り、おろちが通った街道筋に上長尾、下長尾という地名が残っている。さらには、崎平の奥の池など大井川水系の地域に同様の伝説が残っている。異色なのは東海自然歩道を西へ行った天竜川水系の新宮池にも大蛇の伝説があり、地元の人たちに池の中に焼石を入れられるなどされて、たまらずに野守の池に逃げてきたという。それらを合わせると、実に各地の池など、16の色々な主(ぬし)がそれぞれの地区に住めなくなって、野守の池に逃げてきている。野守の池にはそれらの主たちが肩身狭く現在も住んでいるのであろう。

これらの伝説から、村々にあった池や湿地が水が抜かれて田畑に開発されていく状況が知れて面白い。いずれも過去を惜しむ古老の口から創作された伝説なのだろう。奥泉の池の跡は現在も周りより低い田圃と、大井川に水を逃がした溝などの跡が残っているという。

野守の池の名前の由来は、伝説では京から高僧を追いかけてきた遊女野守太夫から命名されたとなっている。だが、実際は「野守」は、田畑を持たない人が田畑のそばに住み、田畑を荒らす鳥獣を追う「鳥追い」を行なう人のことある。農民たちは田の一画を野守のために収穫せずに残しておく。農閑期には野守は門付けをする芸人となる。各地に残る鳥追い歌はそのようにして出来て広まった。この近辺には鳥追い歌は見当たらないが、この野守の池から山に入った所に、唯一鳥追い歌が残っていた。野守は他の地方では差別用語だといわれる。

鳥を追うときに脅す言葉として、強く「たーーっ!!」と発声するのが最も効果があるという。なるほど、卓球の福原愛が1本取ったときに「たー!!」と発声するのも、同じルーツなのかも知れない。
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