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「遠江三十三観音巡礼 再び」 一日目 その7 第6番岩松寺

(菩提の山神神社)

午後、掛川古文書講座に出席する。序でに掛川図書館で清水市史から、江戸時代の清水湊の略図のコピーを取ってきた。来週の「古文書に親しむ」講座の参考資料にする。

「遠江三十三観音巡礼 再び」の続きである。

23年前と同じコースを辿って菩提の茶畑の間を行く。すでに、足が限界に達していて、あちこち痛みさえ発するようになって来た。止れば痛みは引く。2キロ歩いて、菩提の集落の氏神、山神神社で一休みした。社殿の陰へ入ると、涼しい風が渡ってきた。裏山ではずうっとブルの音が聞こえていたが、歩き出すと、右手の山の斜面に、大規模な太陽光発電の工事が進んでいるのが見えた。原発が機能していた、23年前には発想すらなかったことであろう。

【歩程】第6番岩松寺へ、西へ5.0m
団子屋で各々土産を買い、一皿を皆で摘んだ後、村岡屋食堂に入る。うどん・そば・ラーメン・おでんなど思い思いに取り、握り飯などを出して、昼食をとった。

店の間の路地を南へ上り、駐車場を横切って、菩提の集落へ下る。谷一面茶畑で袋井の茶産地である。あちこちに茶工場らしい建物が目立つ。話には聞いていたが、来るのは初めてであった。

新道を避け、旧道を選びながら西へ30分程歩き、川を渡って林を抜けた所に、静かな集落があった。「こんな所には、こういうことが無ければ来ることはないなあ」と話しながら行く。こんな所にも開発の波が押し寄せていて、南側の山がすっかり削られ、緑を失って、土砂の山と化している。埋め立て用の土が欲しいのであろうか。日本人は自分の住む町の風景が変えられてしまうことに、全く無頓着な人種である。

手前から見えていた棒を立てたような建物は、ゴミ焼却場の煙突だった。煙突を剥き出しにしないのは、何かへの配慮なのだろうか。

岩松寺は峠を越えて少し下った四つ角から、南の一段下の谷へ降りた所にあった。住職に朱印を貰いながら話す。先程も3人の組が見えたとの話に、中年夫婦はあの後どうしたのかと思ったが、こちらへは回っていないようであった。

観音堂は道路へ出て南側の山を少し登った所にあった。頬づえをついた石仏が珍しく、臼さんが写真に撮った。古いながらもお堂に手入れがしてあるのが嬉しかった。そばに行者堂と子安地蔵堂があった。

第6番 真言宗 篠ヶ谷山岩松寺(しのがやざんがんしょうじ)
「ささだにや 岩に松風 おとずれて すなわちみてら 浄土なるらん」
【本尊】聖観世音菩薩   【所在地】浅羽町篠ヶ谷





(第六番岩松寺観音堂と納経印)

このあと、左折し、小笠沢川に架かる豊橋を渡り、小さな峠を越えて浅羽に至る。途中、老人福祉センター白雲荘の門脇で一休みする。山神神社からは2.5キロほどであろうか。岩松寺へはあと1キロもないはずであった。地図を見ながら歩いたはずだが、昼下がりの今の時間、道を聞きたくても、人影が見えない。後で思うに、かなり通り過ぎてしまったようで、途中で庭仕事するおばさんに尋ねた所、南の谷へ下り、その谷を戻るように教えてくれた。迷い迷い、谷まで下り、犬の散歩のおばさんにもう一度聞いて、ようやく、岩松寺までたどり着いた。

道路から少し上がった岩松寺の庫裡まで辿り着くと、作業着姿の住職(たぶん)が、物置の方から出て来て、納経帳は中に置いて、お参りして来るように言う。観音堂は一度下の道まで降りて、50mほど奥へ行った右手に石段があり、その上にあるという。疲れ切っていた足腰にむち打ち、まずは庫裡の上がり框に納経帳と100円を置き、観音堂に参拝に行く。戻ってくると、納経印は押されていた。

疲労や足の痛みが限界まで来ていて、23年前のその後を確認しようと思っていたことが、すでに眼中になかった。例えば、「こんな所には、‥‥」の集落、「頬づえをついた石仏」など。前者は広い楽な道を通り、そこは通らなかった。後者は、探そうという気すらなかった。(つづく)
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