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「遠江三十三観音巡礼 再び」 二日目 その3

(庭の小花のヒマワリ)

お昼、名古屋と掛川から子供たち、孫たちが集ってくれ、島田の料理屋で古希のお祝いをしてくれた。子供たちにはとんだ散財をさせてしまった。感謝と共に、これから10年、傘寿まで、またこういう席で、その10年を誇れるように、何かを計画して行動したいと決意した。そのためには、まず健康で動けることである。

夜、祥展堂さんから電話があり、今月の末頃にお邪魔することになった。

「遠江三十三観音巡礼 再び」二日目を続ける。まず23年前の記録から。

宗円寺は「川井の妻薬師」と呼ばれ、薬師如来立像は昔から知られている。境内には東南海地震による袋井の犠牲者供養塔がある。昭和十九年、東海地方に巨大地震があった。戦争中のこと故、全て機密事項として報道されることはなかったが、多くの犠牲者があったと聞く。僕を除く巡礼団それぞれに、その地震の記憶があり、子供の頃に大変驚いたという経験を語ってくれた。

23年前のように、旧国道端の宗円寺に寄った。宗円寺では、案内板で「川井の妻薬師」が鎌倉時代末期の鉄造りの薬師像だと知った。静岡県内唯一の鉄仏と書かれていたが、静岡の方のどこかで鉄仏を見た記憶がある。今、どことは思い出せないが。もう一つ、昭和十九年、三河地震の犠牲者供養塔も確認した。「大震災袋井市死亡者追悼之碑」と碑面には刻まれていた。

宗円寺から北へ真っ直ぐの道を進む。行く手を横切る高架の道が見えて来た。それが見えたら、手前の左手に海蔵寺があると認識していた。しかし、左手は住宅地で、お寺など見当たらなかった。海蔵寺は諦めて、高架橋を潜り、更に北へ進む。この辺りから雨がしとしとと降って来た。決して大降りにはならないと解っていたから驚かなかった。その先に、もう一つ高架の道が見えて来た。立ち止まって、地図を見直した。古い地図で、国一の袋井バイパスがまだ無かったのである。先に見えるのは東名高速道路で、海蔵寺はその手前で、左手の小山にあるのだろうと、漸く想像できた。しかし、海蔵寺へ寄り道する気持ちはすでに失せていた。以下へ23年前に立寄った海蔵寺の記録を示す。

【歩程】海蔵寺へ、北へ2.1km
田圃の中に微妙なカーブを描く旧秋葉道に戻った辺りで、雨がパラパラと来る。見上げると上空に帯状の黒い雲がある。しかし、行く手の北の空は雲が切れているから心配はしなかった。橋を東に渡って宇刈川の土手の桜並木を行く。今年は桜の便りが届き始めてから花冷えが続き、桜が随分長持ちした。この桜並木も満開は過ぎているが、まだ散りきってはいない。お茶も随分遅れるようだ。

袋井バイパスを潜り、海蔵寺の近くまでは来たが、海蔵寺が見つからず、近くで庭掃除をする奥さんに聞く。「南へ回って幼稚園のある所に山門がある」と教えてくれる。目の前に、先週海岸歩きの時に見た紫の花が咲き乱れていた。「もう一つ、この花は何という名前ですか」と聞いた。随分変な人達と思ったかもしれないが、「ツルキキョウ」と名前を教えてくれた。

海蔵寺は今川了俊ゆかりの曹洞宗の寺で、了俊の供養塔があるというが、見つからなかった。「ところで今川了俊とは何をした人なのだ?」聞いたような名前だが誰も知らなかった。
(注)今川了俊は室町時代前期の武将・歌学者。名は貞世。剃髪して了俊。義詮・義満に仕えて軍功をたて、また冷泉為秀に師事し、歌学に堪能であった。
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