今日のころころこころ

おばさんのつぶやき

2014・5・31 おばさんの道 三崎道のなもた坂付近の付近(?)

2014-05-31 21:25:27 | かながわの古道50選
いくら最終日とはいえ、これで5月かよ。ま。昨日の続き。

なもた坂を歩き、といってもほんの30秒ほどの行程。さてさてどうしようか?ブログネタにするなら、所縁の城跡を訪ねるなり三浦道寸義同の墓を訪ねるなりすればよいのだろうけど・・・私には、そもそも三浦一族がわからない。
小網代の港に寄っていこうか。

良い港だなぁ。

ものの本などによれば・・・
三浦氏は、三浦為通が前九年の役(1051~62)の大功により源頼義から三浦の地を恩賞として与えられたが始まりとある。桓武平氏の子孫と称されてるがこれは、ま。
後世に有名なのは源氏再興の功績。
治承4年(1180)石橋山の合戦に源頼朝に味方すべく、三浦一族の棟梁・三浦大介義明の次子・義澄が大将となり一族をひきいてが出陣した。が、豪雨に阻まれ酒匂川を渡ることができず間に合わなかった。義明の弟であるところの相模岡崎城主・岡崎義実は嫡子・真田義忠とともに出陣。こちらは頼朝に合流したが、援軍が来ぬなか先陣をきった義忠は壮絶な討ち死に。頼朝は大敗。七騎落ちといわれる惨敗で海路安房国に逃れた。
三浦一族は、由比ヶ浜で畠山重忠の軍勢と小競り合い。衣笠城に帰り一族集結と援軍で畠山軍を待ちうけるが、10倍の勢力には勝算の見込みたたず、棟梁・義明は義澄以下一族を海路安房国に逃し、たったひとりで壮絶な討ち死にをしたという。
このとき頼朝と安房で合流した三浦一族約400騎がその後の鎌倉幕府創設のための大きな力となる。
が、三浦氏と源家との付き合いは頼朝に始まったわけではなく、ずいぶん以前からのようだ。もともと三浦半島にあった勢力だったのか都からの勢力だったかは不明だ。三浦半島にも高塚古墳がいくつもある。これらの古墳を築いた勢力とはどんな関係だったのだろうか。
安房国との関係も興味深い。
頼朝&三浦一族が敗走した時には逃げ込める関係だった。が、時代はくだり、北条早雲の時世になると、北条水軍と里見水軍はどんぱちとやってる。北条水軍の方が劣っていたようで、鶴岡八幡宮が焼き討ちにあってる。伊勢盛時は完全に関係のない勢力だったのであろう。
そうだ。なもた坂だ。
新井城は三浦氏最期の場所とされてるが、この城主・三浦義意は、三浦道寸義同の嫡子である。この義同は、実は養子である。鎌倉幕府の要職を占めていた三浦氏であるが、執権・北条氏との勢力争いに敗れ、宝治元年(1247)に一族のほとんどが滅亡した。その時、三浦一族で唯一北条家に味方した佐原氏(4代義明が七男・義連を配置したのが始まり)が本家滅亡後細々と三浦介を継いでいた。北条氏に味方した盛時から八代目の高時には、後継の男子がおらず、扇谷上杉家から養子を迎えたのが義同、すなわち道寸であった。ところがその後、高時と側室との間に男子が産まれた。このことから後継争いが勃発し、高時は養子の義同(道寸)に討たれたのであった。
その後、伊勢盛時に攻められ、相模岡崎城住吉城と攻め落とされ、新井城に追いつめられ、持久戦となった。伊勢盛時は更に玉縄城を築き上杉よりの援軍を押さえ、とうとう義同・義意父子は開門して合戦となり、散った。
そして。義同辞世の句。
『うつものも うたるるものも かわらけよ くだけて後はもとの土くれ』
その後、北条水軍の拠点となった新井城も三崎城も浦賀城も、小田原北条家滅亡とともに廃城となったのであった。
ん・・・・・

三崎口駅に戻るバスの中で、ふと思いついた。時間はまだ早い。そうだ。衣笠に行って逗子から帰ろう!
バスの運転手さんにうかがう。衣笠駅にバスで行けますか?行けますよ!横須賀駅行きに乗ってください。3番!
お~!到着と同時にジャストにあるじゃん!ダッシュで飛び乗る。



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2014・5・30 おばさんの道 かながわの古道50選・三崎道のなもた坂付近

2014-05-30 20:13:06 | かながわの古道50選
かながわの古道50選で一番謎の距離の道である。たぶん私の短い足でも30秒ほどの道程だ。
三崎道のなもた坂付近。

県道216号線(油壺線)に面した真光院脇の道を入って行くと、うっそうとした坂道があります。当時、鎌倉と新井城の行き来には、この道が使われました。永正15年(1518)油壺の新井城は、北条早雲の大軍に攻められて落城しました。その時、戦火を逃れてきた身重の三浦道寸の側室がこの坂を下り、南無阿弥陀仏と唱えながら、自らの命を絶ったという悲しい話が伝えられています。一説にその南無阿弥陀仏がなまって『なもた』になったといわれています。三浦道寸義同の辞世の句、『討つものも討たるるものもかわらけよ くだけて後はもとの土くれ』
ふむふむ( ..)φ

JR・東神奈川駅から京急・仲木戸駅に乗り換え。いつも不思議だが、車内アナウンスは両社とも乗り換え案内をしない。?。

京急・三崎口到着。

バスに乗る。

小網代下車。

スマホのナビで歩きだそうとしたら、通りかかり御婦人がすぐそこだからと案内してくださった。ありがとうございました!

三崎口に少し引き返す。

お!真光院様があった。

その横の道か。

ここが起点。

そして終点。

来てみれば、真光院様は、三浦義同・義意親子が深く帰依していた寺院だという。その寺院の横で側室とはいえ義同の子を宿した身重の身で自害せざる得なかったとは、よほどに戦況が切迫していたのであろうな・・・哀れな話だな・・・








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2014・5・28 おばさんのちょこっと散歩 大磯町鷹取神社付近

2014-05-28 21:27:02 | かながわ名木100選
日中はいよいよ蒸してきたな。
昨日の続き。

大磯町は鷹取神社様に大タブノキ様を訪ねた。若がすくすくと育っていた。
さてさて帰路はどうしようか?来た道を引き返したいのはやまやまであった。関東ふれあいの道。湘南平・霧降り渓流の道とかいうコースか。だって、滝があるようだ。

だけど裏から入ってしまったから、やっぱ表から出るべきだよな。我ながら妙なところが生真面目である。大磯に向かって鷹取神社様を降りる。

って?え?以外に急坂だ。思わずふり返る。

お?どなた様なのだろう?保護のためとはいえ、監獄につながれてるようで御不自由であるな。

下る。

ほんとに急坂(T_T)

お!鳥居が見えてきた。

下る下る。ほんと、そんな感じ。

それにしても・・・大磯鷹取山の藪蚊クンたちはなんとカメラのレンズが好きなのか。私を襲ってこないのは幸いだが。ま。

それにしても・・・古道ってこんな感じだったのかな?
あ・・・なんだろう?枯れているのか?まずいのかもしれないが・・・なんて幻想的な風景なんだろう。

少しひらけた。

更に下る。

標識。

ここを更に下るのね。

目立ちがりの藪蚊クンは。ま。御勘弁を。
高速道の下を抜ける。

わお♡まるで画のようだ。

かぐや姫がおられたのかな?

道なりに進む。

綺麗な畑だ。

そこで、通りかかりの散歩途上のおじさまにうかがう。私はどーすれば帰れるんですか?ははは・・・
とても丁寧に教えていただいた。少し土地勘があるのかな?花畑を右に曲がればバス通りに出る。生沢というバス停があるからそこからは貴女の好きにして。でもせっかくだから六所神社に寄っていきなさいよ!
なんだか大磯付近は小粋なおじさまたちの生息地なのかもしれない。?。ま。
角には、素敵な直売所♡

種だけもらったんでは申し訳ないからきゅうりとカゴを買う。二点で100円。もっと申し訳ない。きゅうりをカゴに入れて歩き出す。

そうか!63号線・相模原大磯線だ。
わお♡

去年の夏にこの道の路線バスに乗った時に車窓から見えたあれだ!!!あの時は、本当に途中下車したかったよな。

そうか。厳島神社様というのか。東の池というのか。

蒸してる日の上に、藪蚊クンたちと御一緒に山を下ってきた。ここは、天国か?池から心地よい風が吹き抜ける。しばし境内でまどろむ。

そうだよな・・・天国には蓮の花がひらいてるというじゃあないか・・・

もう、歩く気力は失せていた。帰ろう。平塚でも二宮でもどっち行きのバスでもいいじゃん。来た方に乗ろう。
お。平塚行きが来た。きゅうりの入ったカゴかかえて乗り込む。

ん!そうだよな。このコースはいいかもしれない。
方向音痴で山歩きもあんまし得意でないから去年の記憶との切れ切れをつなぎ合わせてるだけだが。二宮からでも平塚からでも、生沢下車。観音寺様の標識の小道を入り、

素敵な直売所を曲がり、高速道路の下をくぐって、鷹取神社様。抜けて、関東ふれあいの道を、滝をめぐって松岩寺様におりる。さらに63号線におりれば、すぐ脇にバスの折り返し場がある。
秋になったら歩いてみようか。






















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2014・5・27 おばさんの葉っぱ かながわ名木100選 中郡大磯町・鷹取神社の大タブノキ

2014-05-27 19:13:25 | かながわ名木100選
いよいよ藪蚊のシーズンだな。今日こそ行くぞ!

かながわ名木100選。中郡大磯町・鷹取神社の大タブノキ。

地図をながめれば大磯町のどこかから行けそうではあるが、グーグル先生のナビに従う。
JR・二宮駅下車。

北口からバスに乗る。かな中バス・磯01恒道園前・大磯運動公園経由大磯駅行きって・・・なんてレアな路線なんだ。たまたま家を出たのが遅かったからタイミング良かったけど。ほお。

ぐんぐん山道を登って行く。

黒岩公民館前下車。

バスは公民館に向かって右に。私は左に。

公民館はいろいろと兼務されてるようだな。?。

道なりに歩く。

おや!なんだろう?バイクが三台にカメラを構えたおじさまが三人!

キビタキの撮影をしてると教えていただいた。餌を捕りに行ってる♂が帰ってくる頃ですよ!肉眼でもよく見えるから!私も待つ。待ちながらお話をうかがう。おじさまたちの狙ってるというか見守ってるというか、の、キビタキ一家の今年の子供衆は4羽。キビタキは綺麗好きできちんと巣の掃除もするとのお話には驚いた。巣から糞を出してる写真をみせていただいた。声はするんだけどなかなか帰ってこないなぁ・・・あ!そうだ。私の帽子はいけない。カラスに襲われたんだった。みたかったけど私がいたんでは親鳥は警戒してしまうかもしれない。残念だか辞して先を行く(T_T)。
それにしても・・・気取らなけど素敵なバイクでツーリング。腰を据えて凄いカメラで凄い写真撮ってるのにそれを公開することもなく、家に帰って撮った写真をながめれば、それで満足。だそうだ。いやはやいやはや。これが、本当の大人の男の楽しみ方というのだろう。自分の貧乏性が恥ずかしくなる。ま。

歩き出す。

おわ!(^^)!

それにしてもいい道だな。軽トラ一台通らない。野鳥のさえずりと沢のせせらぎの水音。なんとも贅沢。

ん?そうか。ゴルフ場だ。

ゴルフ場に沿ってひたすら歩く。

そこの分岐は向かって右。

ひたすらにゴルフ場に沿って行く。

お!そうか。ここから様々に行けるのね♡

滝かぁ・・・魅力的だな。

でも、今日は大タブ様に会いに行くんだ!
歩く。

お!着いたかな。グーグル先生お約束の、裏から到着。

でも。素晴らしい大木様が出迎えてくれた。素晴らしい(゜o゜)

鷹取神社様。

木花咲耶毘売様が御祀神のようだ。そういえば、バスの中から富士山が見えた。今日は雲がかかっていたが晴れていれば絶景だ。
ところでタブノキ様は・・・
おかしいな?境内はきちんと管理されていて丁寧な案内板もあるのにな・・・

ん?そういえば大磯町の郷土資料館で、諏訪神社様の大マツ様ともうひとつ切り株が保存されていたよな。あれ?あれなんだったかな?もしかして・・・
倒れてしまわれたのか。その砲弾(?)の横。

・・・でも!中からすくすくと育ってるじゃないか(*^_^*)

いずれ、旅立たねばならぬ。

さてさて。帰りはどうしようか?
さっきの分岐も魅力的。

でも、裏から入ったんだよな・・・そうか。やっぱり大磯に抜けられるんだよな。

そっちから帰ってみよう。







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2014・5・26 おばさんのこころ 政治家という職業

2014-05-26 22:14:09 | 日記
古東海道の披露山公園付近は、ずいぶんと歩き回った。
それにしても・・・なんだか後からこころにズシンと来てる。政治家という職業。なんだい?それ?
披露山公園付近の古東海道を探すにあたって目印のひとつが、『尾崎行雄記念碑』であった。

真っ先に浮かんだのは土門拳氏の写真であった。風貌。確か明治だか大正だかの政治家で憲政の神様とかの政治家だったよな?でも具体的にはなにがなんだか知らない。
先を急いでいたから単なる目印として通り過ぎた。
が・・・
披露山公園を下った先に高齢の老婦人が道を掃除されていた。

近付いてみたら、なんともきちんとした身なりで掃除されてる。まるで昔の良家の上席お女中様といった雰囲気である。思わず、御精が出ますねとか御挨拶してしまった。
そしたら・・・もしかしたら慣れてるのかもしれない。通行人の好奇心に。
問わず語り。まるで独り言をつぶやいておられるようだった。
尾崎邸は3000坪の規模であったという。夫君は尾崎行雄翁に仕えた書生だったという。陸軍幼年学校を出て敗戦でそういう成り行きになったというような感じ。尾崎翁の計らいで敷地に土地を貰い家を建てたとのこと。二人の出身は信州は佐久だったとか。とかとか・・・
かなりの御高齢だ。もしかしたら、もう現と夢の境目が曖昧になっておられるのかもしれないなぁ・・・なんぞと思いながらとりとめのない話しを聞いていた。後で大変に失礼な感想だったと猛省したが。
帰宅して、調べる。
そうだ。このお方だ。

尾崎行雄 1951年5月7日
1858年~1954年 政治家
明治から昭和まで60年以上代議士を務め、『憲政の神様』と呼ばれた政治家で、この時93歳。撮影依頼に行ったおり、名刺を秘書に渡し、緊張して玄関で待つ土門の耳に、奥から『うわあははは、うわあははは。よろすい。こんなおいぼれでよかったら、いつでもきなさあい』との破鐘のような声が聞こえてきた、と土門は記してる。
神奈川県逗子・風雲閣(尾崎の別邸)・・・
そうだったのか・・・
実は、道路挟んだ向かいに、某政治家の別邸があった。とは、後で知った。
公園の古東海道と思われるハイキングコースを降りたところでいきなしぶつかった塀だ。

殺風景なコンクリの塀の上には鉄条網といくつもの監視カメラ。てっきり刑務所か精神病院かと思ったが。
尾崎翁の業績を知るにあたり、あの御高齢の老婦人のこころをストンと納得した気がした。
そうか・・・なんという痛烈な皮肉。
風雲閣には様々な人々が集ったという。明治~昭和初期の政治家なんていつでも暗殺の危機にさらされていた。にも関わらず、風雲閣は広く開放されていた。
一方は、芸能人のゴシップに疎い私には刑務所か精神病院にしか見えなかった。
それは、たぶん、政治家としての器量のあらわれでもあるかもしれない。
尾崎翁が亡くなって、今年で60年になる。
60年たっても、どんな業績を残した人かまではわからなくとも、聞いたことのある名前だと思う。確か政治家だったと思う。
某政治家が亡くなって60年たったら・・・一世を風靡した俳優の兄ということで弟の検索ついでに出てくるだけかもしれない。
そもそも・・・死後60年たっても、まるで生きているかのように仕えてる人がいるという時点で、違う。
家で電卓弾いてみれば、あの老婦人の夫君は、尾崎翁最晩年の最後の書生さんだったのかもしれない。土門が名刺を渡した秘書とは、その人だったのかもしれない。
落ち葉の季節でもないのにどうして丹念に道掃除されてるのかうかがったら、こんな少しの落ち葉でも登る時はいいですけど下る時には滑るんですよ、とのお答えであった。転がるような急坂だ。こうして延々と数十年風雲閣への来客の足元を気遣ってこられてきたのか・・・
それは、もしかしたら、夫君を通じての尾崎翁の教えのひとつだったのかもしれないな・・・
私たちは政治家に恵まれない時代を生きてるのかもしれない。それはとても不幸で不利益なことだなんだろうな。でもどうしたらいいというのか。かですよね。貴女が羨ましい。









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