ご隠居さん:自我や世間の枠にとらわれず、社会の潤滑油となりたいものです。 AI時代は 人間らしい自由な発想がカッコいい

年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

湛山と横手市

2016年12月01日 | 旅 行事
昨日まで大曲で仕事、横手駅前の温泉でゆっくりした。昨夜の雪はうっすら。
今回の目当ては石橋湛山が 戦後の言論統制を避け、ここ横手で出版活動を続けた縁リのある出羽印刷というところ。
市役所からも近く、石坂洋二郎館もすぐそばに。
横手やきそばとかまくらで有名だが、文化人も多いようだ。
不屈のジャーナリスト:むのたけじ(武野武治)さんも1948年家族とともに横手市に移り住み、週刊「たいまつ」を創刊、反戦の立場から1978年まで言論活動を続け、
今年8月、101歳で死去された。
2017/6/3「笑う101歳✖︎2」ロードショー

朝の横手市内散策、清流の向こうの高台には模擬天守(佐竹藩の横手城)もあり そのせいか町割りが条理になっている。

あるお寺で境内を見てると、住職らしい方がわざわざ挨拶に出てこられ 丁寧に挨拶してくれた。
湛山が東京大空襲により、横手に移り出版活動を続けた出羽印刷は、今でも続いている様で、ボランティア「ふきのとう会」 による立て看板が整備され 半日コースのガイドもある。

先月のサンデー毎日で、「湛山から岸への私信」というテーマで3週連載された。
今年5月、甲府市にある湛山記念館の資料から発見されたという。
1957年2月、湛山が首相在任わずか2ケ月で病に倒れ退陣、次の岸政権で、「60年安保改定」を強行しょうとする岸に、昭和天皇の威光(?)を用いてまで、次の点で反省を促したものという。
1.石橋内閣を組閣する際、その名簿を見せたとき、”かの一人の人”(間違いなく昭和天皇?)が、
 「岸は東條以上に戦争責任がある」と、湛山が示した岸外務大臣案に難色を示したこと。
(岸信介は満州国の総務庁次長として辣腕を振るい、東条内閣では商工相として戦争を遂行、A級戦犯となったが死刑を免れた)
2.そういう昭和天皇の思いに反して、湛山自身が外相に任命しただけでなく、自らの退陣後に岸政権を誕生させたことを申し訳なく思ったこと。
 (その後、安保条約により米軍の日本領土への駐留を常態化した)
安倍政権と岸政権の因縁とすら思える?
岸信介首相は、高級官僚として軍部と組んで、満州開発の中心的役割を負い、A級戦犯被指定者となるも、正力松太郎らと共に解除された。しかし、朝鮮戦争勃発もあり、1952年 戦後日本の主権回復後、満場一致で国会の戦犯解放決議により、政治家として辣腕を振るうことになる。
結果的に、リベラリスト湛山は、岸信介という人物ほどには、政治家的(悪い意味で)ではなかったということも言えるだろう。
これ以降、米ソ冷戦構造の中で、反共の砦として、さらに冷戦後も”核の傘”の下で、米帝国の従属国として、日米同盟に頼るだけの外交を余儀なくされて今日に至っている。(田中秀征元企画庁長官によると、岸から安倍に至る自主憲法、改憲派は自民党保守であって、湛山、田中、宮沢らの保守本流とは一線を画しており、危険な方向に向かっている、と懸念している。)
今、アメリカはトランプ旋風が吹き荒れ、自国第一主義の方向に戻ることが懸念されている。
日本の立ち位置は、60年安保の時点に、一気に引き戻された気がするのは、気のせいか?
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