ニャンコ所長の近代ボート競技歴史研究所

ボート(漕艇・Rowing)の競技を歴史研究しています。

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第3章、東京大学入学 「その3、初の国際ボートレース」

2011年08月20日 15時32分00秒 | 小説
それからしばらくはストレンジ先生によるメンバーの選考に時間が費やされたのだが、やがてストレンジ先生によりメンバーの発表が行われた。メンバーはいずれもストレンジ先生から直伝の教えを受けた者ばかりで、それぞれが腕に覚えのあるメンバーであった。
「それでは今度のボートレースにおけるシートポジションを発表しよう。選考は身長体重のみではなく技術力とやる気をあわせて行った。選ばれた者も選ばれなかった者もともに自分ができることをよく考え、オアーズマンシップに則って試合に臨んでもらいたい。
ボートレースは試合に勝つことが真の目的ではない。なによりもジェントルマンとしての素養の育成が目的であるのだから。つまりベストを尽くせということであり、結果はあとから付いてくるものなのだからね。」
一同の割れんばかりの喝采の中、順次メンバーが発表された。
「まず舵手(コックス)はMBC(メンバー・オブ・ボート・クラブ。東京大文学部の学生たちが中心のクラブ)の中から阪倉銀之助君、整調は同じくMBCの日高真実(ひだか・まさね。後に3年間のドイツ留学後、高等師範学校教授兼文科大学教授。明治27(1894)年急逝、後日、高文庫設立)3番もMBCの山口鋭之助君。この3人はともにMBCのメンバーで春季競漕会の選手競漕では日高、阪倉君でよいリズムで漕いでいることから日高君に整調をお願いし、阪倉君には舵が非常に上手なところからコックスの大役をお願いした。また山口君には自慢の体力でしっかりと整調を助けていただき確かなリズムを後ろに伝えていただきたい。
また2番と舳手(じくしゅ。バウ)はともにORCから武田千代三郎君と(後に山口、秋田、山梨の県知事、大阪市立商業高校校長、日本体育協会副会長)、神崎東蔵君(後に弁護士)にお願いしたが、武田君は春季競争の5番レースで坂倉君の舵手で整調を漕いでいるから気心も知れているだろうし、神崎君は武田君に合わせて漕ぐのはお手の物であるだろうからこのメンバーでいくこととした。
なおSRCからは岸君に総務全般ともしもの時の補漕(予備漕手)をお願いしたい。漕手の体重は以下の通りである。(1ポンド=約454g)

整調・日高(134ポンド=約60.8kg)
3番・山口(167ポンド=約75.8kg)(約6尺=180cm)
2番・武田(128ポンド=約58.1kg)
舳手・神崎(129ポンド=約58.6kg)
補漕・岸(138ポンド=約62.7kg)

(正漕手4人の体重平均は、139.5ポンド、約63.3kg)

試合は明治18(1885)年11月3日に「横浜アマチュア・ローイング・クラブ(YARC)」の外人クルーとクリンカー艇で行われることになった。クリンカー艇とは4人漕ぎで鎧張り(よろいばり。外板が鎧の直垂(ひたたれ)のように少しずつ重なり合ってできている。かなり昔、公園にあった貸しボートの外板と同じような構造)の滑席艇である。
コースは横浜港内で山下町のフランス波止場に立つオリエントホテル前の「ボートハウス」の沖からの1000mであった。したがってYARCから競漕に使う「ペトレル」という名前の艇を借用して、横浜から伝馬船で運ばせて浅草にある井生村楼(いぶむらろう)という料亭の貸し席がある広い縁側を借りてペトレル艇を置かせてもらった。
毎日学校からストレンジ先生は人力車に乗り、漕手たちは歩いて3週間の乗艇練習を厳格にこなしていった。井生村楼に着くとストレンジ先生は漕手全員と艇を運んだ。こういう場合はさすがストレンジ先生であってもコックスの号令にしたがって行動するのがボート部であった。
「両舷(りょうげん)いいかー。両舷、手をかけて。持とう!一、二、三!。」
両舷とは、船尾から船首に向かって右側と左側、つまり右舷「スターボードサイド(starboard side)」と左舷「ポートサイド(port side)」の両サイドを指す。日本のボート競技ではそれぞれ「バウサイド」「ストロークサイド」といわれている。号令の場合は「漕手全員」という意味で使われる。
この号令にしたがってストロークサイドという整調と同じ偶数番号の漕手全員も、バイサイドという1番(バウ)サイドと同じ奇数番号の漕手も、コーチのストレンジ先生であっても艇を水面に出すために艇の下部にあるキールに手をかけて、腰に力を入れ阿吽の呼吸を合わせて一律にきびきびと動いて艇を水面近くに移動した。
したがってオアーズマンシップとは、このように一つの目的に向かって利害を度外視して行動するということなのであり、このことは驚くべきことにその後100年以上経った現在でも美しいトラデショナルとして受け継がれているのである。
「降ろそう、一、二、三!」
応援に来たものも見守る中でコーチとクルー全員でコックスの号令にしたがってきびきびと行動した。それを見ていた清一は心から、レギュラーになりたいと願った。
クルーは号令に従い全員でかなり重いペトレルを持ち上げると静かにポチャン、ポチャンと水に浮かべると絶妙のタイミングで補漕の清一がトップに付けられたロープを手繰って引き寄せた艇を桟橋に固定して押さえた。ペトレルへは各自のポジションの横から順次艇に乗り込んで、両手は両サイドのガンネルを持ちながら片足を桟橋に残したままでコックスのほうを注視する。コックスはクルーの体調と精神状態を満遍なく何気なく注意深く観察して、何事もないことをクルーの表情から確認して号令を発する。
「蹴ろう!一、二、三!」
その号令に従いクルーは息を揃えて桟橋を蹴り出す足に力を込めるのだ。やがて桟橋からすっと蹴り出されてゆらゆらと水面に漂うパトレルが安定を取り戻すころを見計らって、両舷は静かに艇に揺れを与えないように腰を下ろすのであった。さらに、コックスは安全と艇内での練習環境確保のために準備を促す。
コックスはいつも思う。号令は「両舷、良いか!」というもので一辺に済ませばよさそうなものなのに、必ず各ポジションに安全確認を行わなければならないのだ。でもそんな時、コックスはストレンジ先生のボートの基本は安全であるという言葉を思い出して、面倒臭そうな顔をしているクルーに確認を取るのであった。
クルーに向かってコックスは辛い練習においてさらに元気が充満するように、自らの身体を動かせないことによる冷えを隠しながら自らを奮い立たせつつ、高らかに声を張りつつ水面に響き渡るように号令を出すのであった。
「整調、いいか?」「ハイ!」
「3番、いいか?」「ハイ!」
「2番、いいか?」「ハイ!」
「バウ、いいか?」「ハイ!」
元気の良い声で返事をするクルーは上級生、下級生の区別はない。あるのは艇長としてのコックスへの全幅の信頼のみであった。なお練習時におけるストレンジ先生の練習方針は次のとおりであった。

1、オールを見ないで前の漕手の肩を見て漕げ
2、首をふるな
3、クイック、オブ、チェスト(ブレードを素早く反転する)
4、スペースを長く(水中を長く漕ぐ)
5、波のないときは水面より3インチ(約7.62cm)の高さ、波が高いときは5インチ(約12.7cm)より高くするな

また試合に用いる1分間に漕ぐ本数であるコンスタントレートは毎分27回を指示して、漕いでいる時の掛け声は常に「クイック、オブ、チェスト」であり、バウの後ろにコックスのほうに向かって陣取って座ったストレンジ先生の掛け声に合わせて漕手は厳しい練習を積んでいったのであった。ときには有り余る体力からピッチを一分間に30回以上に上げようものならストレンジ先生からこっぴどく叱られたし、座りなれない動くシートがどこかに飛び出したりしたので内緒でシートをレールに縛り付けて動かないようにしているところを見つかってこれまたひどく叱られたりしていた。
しかし執念というのは恐ろしいものであれほど手こずっていたスライディングシートも何とか漕ぎこなせるようになってきたので試合の数日前にはタイムトライアルを行うと、かなりの好タイムを出したのでストレンジ先生や漕手たちは安心して東京日日新聞(現・毎日新聞)に掲載された端舟大競漕会について書かれた記事を呼んだりしながら休養を取っていた。
やがて初の国際試合の当日になったが前日の天候は暴風雨であったため、ストレンジ先生が日頃から荒天時にはレースをするものではないと教えていたので試合は無いものと一同は安心しきっていた。
しかし暫くすると清一が青い顔をしてみんなの元に明治2(1868)年横浜−東京間に開通していた電報を握り締めて走ってきたのであった。
「大変です!大変です!先方は悪天候によらずボートレースを決行するといってきましたよ。どうしましょう。ストレンジ先生には既に知らせておきましたが、急がないと間に合いませんよ。」
「なにー。そりゃあ大変だ。それは急がなければならんぞ。」
一同は大慌てで荷物を作り身支度を整えて陸蒸気の新橋駅まで急行すると、ストレンジ先生は既に到着してにこやかに待っていた。
「ボーイズ。何も心配することは無い。ボートレースは人生と同じで何が起こるか解らないから愉快なんじゃないか。さらに主賓(しゅひん)である私たちが行かなくては、レースは始まらないんだ。ゆっくり行こう。」
ストレンジ先生の話にようやく得心した一同はしばしの旅行を楽しむのだったが、次第に汽車から海が見えるようになってくると海が時化(しけ)ているのがわかるようになってきて一同は自然に無口になるのであった。
横浜駅からレースの会場に急行する前は新聞に取り上げられていることもありかなりの人出を予想していたが、会場には仏国軍艦の軍楽隊が演奏するマーチだけが鳴り響いているだけで意外にも悪条件に災いされ人手は多くなかった。
会場は風こそ少なかったものの、前日の暴風雨のせいでかなり大きくうねっていたが、東京大学のクルーは揃いの浅黄色の帽子を着用したのに対しYARCクルーは紅白の帽子を着用していた。
数回の野次レースのあとはもう本番である。両艇が船首を揃えた所でスタートのゴー!という号令が掛かり、両クルーのレースが始まったのであった。
しかし練習の甲斐なく大きなうねりに翻弄されて東京大のクルーはオールを波にとられたりするので、オールが水にもぐって水圧を受けるので腹部にハンドルが食い込んで漕げなくなり艇速を止めてしまう状態で通称腹きりをする漕手が続出したり、キャッチでオールが水をつかめなかったり、漕ぎ終わってオールが水を出る「フャイナル」でオールが空を切ったりする漕手が続出して全く日頃の練習のいい所が出せなかったのに対し、YARCは日頃から海で練習している地の利を生かした滑らかな漕ぎで順調にトップを占めるレース展開を最後まで繰り広げ4艇身の大差をつけてのゴールであったが、一方の東京大クルーは最後まで良い所なくレースを終了したのであった。
その後あまりの敗北に意気消沈したクルーは応援していただいた皆様に申し訳ないとして、一同頭を丸めて坊主頭になり帰校し教師や学友に陳謝して回ったのであった。

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【参考】
三重大ボート部Web「ボートの漕ぎ方」
http://sky.geocities.jp/rowingmieuniv/whatsboat-kogikata.html

愛知県東郷町ボート教室

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岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第3章、東京大学入学 「その2、髀肉之嘆」

2011年08月20日 15時01分00秒 | 小説
清一は学費の心配もなくなり晴れて東京大に入学したが、その勉強振りはますますその真面目さに拍車がかかり英国風の緻密なものであり特に英語については最も得意とするところであった。
当時の大学生達の就職については役人になって栄達を望むというのが一般的であり企業に就職を希望するものは極めて少なかった中で、早くから将来は代言人(だいげんじん、弁護士)の業務において身を立てて人のために努力していこうと決心していた。
しかし当時の弁護士の地位は今日のようにはあまり高くはなかったので他の学生達の多くは弁護士になろうと考える者は少なかったが、清一は在学中から机上の学問を嫌い先輩の伝を頼って弁護士事務所での実務を手伝うなどして研さんを積んでいた。
一方で既にかなりの運動好きになっていた清一は遠足以外に身体を動かす機会がなくなり、髀肉之嘆(ひにくのたん。実力を発揮する機会がこないのを嘆くこと)を覚えていた。
そうこうするうちに先の春季競漕会で大揉めに揉めたあげく、清一達は陸に上がった河童状態に陥っていたが一方の艇の使用権を独占していた端舟会(たんしゅうかい)では着々と準備を重ね、春季競漕会と同じような形式で明治18(1885)年10月4日(日)をもって東京大の私設端舟競漕会を挙行した。
競漕会は午前8時から午後5時まで吾妻橋より橋場渡船場の間において行われ、参加は法学部、理学部、文学部ならびに医学部と予備門との間で競われた。それら4学部と予備門の教職員は春季競漕会での判定での不明瞭さを避けるため、ゴールである料亭植半の傍らに設けた事務所に集まり対岸には判定船数艘を浮かべて正確な判定が行われるように心掛けた。
また距離はおよそ1100mで行われ、9時58分の最初の端舟4艘競漕が小銃の空砲による合図で始まりゴール時にも空砲を撃つなどの工夫がなされた。また各端舟はいずれも赤・白・青・紫の4種類の帽子と同色のユニホームを着用し海軍楽隊の音楽のなかでレースは実に華々しく行われたのだった。
しかし端舟会に入らなかった面々は大会当日になってもすることがなく仕方なく墨堤に腰を下ろしてボートレースを見ているだけしかできなかった。
かれらは主に走舸組の設立に貢献したメンバーであったが、どちらかというと当時の若者らしく血気盛んな面々が揃っていた。彼らは土手に陣取りそれぞれ贔屓のクルーを応援したり熟練度を批評したりして時を過ごしていた
中には向島で江戸時代後期に初代の植木職人の外山佐吉が趣味で始めた後、明治元年には店名となった言問団子(ことといだんご)を食べながら昔の伊勢物語と在原業平(ありわらのなりひら)の歌である

「名にしおはば、いざ言問わん都鳥、我が思う人はありやなしや」

について地方出身者に薀蓄を傾ける者もいたし、享保2(1717)年に初代山本新六が隅田川の土手に咲く桜の葉を使って考案した桜餅で以後200有余年、隅田川の桜とともに名物となった、長命寺(ちょうめいじ)の桜餅を上手そうに頬張っているものもいた。この二つは以降ボートレースとともに隅田川の名物となったのであった。
しかし清一は心の中で思っていた。なんとかこの状況を打開する妙手はないものだろうか。いくら代言人の勉強をしている身ではあっても郷土の大先輩の鋭之助には迂闊な口を挟めないでいたのだった。
「まいったなあ。こんなところで人のレースを見ていたって何も面白くないし、何より身体のためにはならんぞ。そうだ。」
思い付いたら清一の行動は早い。瞬くうちに清一は大会本部にいたストレンジ先生を引っ張ってきたのであった。
「ボーイズ、どうしたのかね。こんなところでしょんぼりとして。」
堤防では先ほどのメンバーが寝転んで秋の抜けるように高い青空に飛んでいく都鳥を眺めながら草笛を吹いたりしていた。
ストレンジ先生は既に大体のてんまつは清一から聞いていたが、何食わぬ顔で堤防に腰を下ろした。
すると驚いた顔を見せながらも、頭を掻いている清一を横目に見ながらストレンジ先生の周りに集まってくるのであった。
鋭之助が代表して答えた。
「実はストレンジ先生。ボートを漕ぎたくてもボートはないし。いまさら端舟会に入れてくれとも言いにくいしほとほと困っていたところでした。」
ストレンジ先生は回りを見渡して自分の教え子達を見つめていたが意を決したように話し出した。
「私が以前、横浜居留地にあるローイングクラブに所属し試合に出ていたことは話したことがあると思うが、毎年行われていた上海、長崎、神戸、横浜のローイングクラブ持ち回りで行われている『インター・ポート・レガッタ』が今年は例の流行り病で長崎開催を返上し横浜港のオリエンタルホテル前にあるボートハウス沖で行われることになったのだよ。そこで、9月頃より先方と交渉していたのだが、どうだね。諸君。本邦初の国際レースに出漕して見ないかね。これは、なかなかに諸君の実力を測るには良い機会だと思うのだが。」
このストレンジ先生の突然の提案には一同唖然とするばかりであった。なにしろ外人たちはすでに滑席艇(スライディング・シート)を使用して漕いでいるというのは聞き知っていたが、彼らはいまだに一度も滑席艇は漕いだことがなかったからであった。
また彼らが漕いでいる固定席艇とは、海軍などが使用しているカッターのようにそれぞれが横に張られた一枚の板に腰掛けて足先を固定し伸ばしたまま上半身のみで漕ぐというものであったからであった。
しかし現状が漕ぐことを許さない以上、このストレンジ先生の申し出に心を動かされないものはなかったし、何よりの決め手になったのは本邦初の学生競漕大会を自分達が行ったのだという自負心に、本邦初の国際レースという名誉がおおいに火をつけたからであった。
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岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第3章、東京大学入学 「その1、松平伯爵」

2011年08月20日 15時00分00秒 | 小説
晴れて東京大の学生となった彼らの窮状を聞き取った鋭之助は、早速、出羽様と呼ばれていた21歳になったばかりの旧藩主松平伯爵が維新後に移り住んでいたお屋敷に参上することを決意したのであった。
当時のお屋敷は、学習院大のあった四谷から約250m近くのところにある赤坂のご用地「赤坂離宮」を左手に見て、学習院の分校を通り過ぎ、約750mの左前方にある陸軍の青山錬兵場の手前、現在の信濃町駅の手前の右手にある「出羽坂」と呼ばれるようになっていた坂道を、150mぐらい上がった一段と高い所にあった。
鋭之助が巨体を揺らしながら坂を一気に上って後ろを振り返ると、そこには緑に美しい東京の街が青山方面に広がっていた。
そこでさっそく門を入ると当代随一の美しさと称えられている修徳園という名庭を通って、玄関に到着し来客を告げると早速中へと招じられたのであった。
鋭之助は平伏したままご挨拶を申し上げた。
「殿様におかれましては、ますますご機嫌麗しゅう存じます。」
「山口君も元気そうで何よりである。本日はようむきのことが済んだならば、世情を賑わす陸上競技会やボートレースのことについても話を聞かせてもらいたいものである。山口君や岸君などは随分と名前が売れているようだな。私としても誇らしい気持ちで一杯である。」
「ははっ。ありがたきお言葉を賜り、恐縮でございます。
それでは早速。最近に至りましてようやく松江藩出身の者たちの多くが大学や予備門などに多く入学するようになってまいりましたが、多くの学生達は勉学の熱意は十分にあるものの給費制度の打ち切りという事態から困窮の度合いを深めてまいりました。
またさらに、世の中においては諸物価の高騰傾向が拍車をかけて生活をひっ迫してまいりました結果、学生達は学費及び学友会費あるいはその他の生活費の支払いに終われるようになってまいりました。
その結果が学業への集中を損なうという事態も見られるようになり、憂慮されるところとなってまいりました。」
「なるほど、なるほど。私たちも諸物価の高騰には頭を痛めていたところである。しかし政府からも苦学生救済の件についてはお達しがあったように何とかしなければ成らないと感じていたところであるから、苦学生救済の件についてはしかるべき方法を講じようと思っていたところである。」
「ありがたき幸せでございます。よろしくお願いいたします。」
こうして苦学生救済を願い出た鋭之助であったが、松平候の快諾を得て救済の目処は付いたのでそれからは酒肴のもてなしを受けながら、話題は多岐にわたり何時果てるともなく楽しいひと時を過ごすのであった。
そして明治19(1886)年には松平伯爵家の貸費制度が設けられ、岸・若槻を初めとする学生5名他学生ならびに軍人希望者の合計10名がその恩恵を受けることとなったのであった。貸費金額は五円〜十円の範囲と定められたが、この制度が明治28(1895)年1月に既に社会へ出て給料をもらうようになっていた清一や出雲学生会の会員で貸費制度の恩恵を受けたものたちを中心にして、その後続々と上京する松江藩の後輩たちのための出雲育英会の発足となったのであった。
したがって松平直亮は明治4(1871)年8月29日の廃藩置県によって東京府と呼ばれるようになった四谷に、旧5万石以上の中藩知事の資格を持って伯爵に任じられ居住していたのである。
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岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第2章、東京遊学時代 「その11、遠足」

2011年08月16日 20時11分00秒 | 小説
4月に行われたボートレースは、選手競漕の判定をめぐって未だに揉めていたのでボートに乗ることはできなかったが、清一は7月4日をもって19歳になっていた。
8月にはいると東京大学予備門を無事卒業した記念として、毎月体力の養成を図って行っていた遠足を1泊2日で行おうと思い立ち、同郷で同じ下宿で暮らしていた安江豊太郎と山崎銀之助に声をかけて計画を立てたのであった。
一行は8月25日(月)の早朝3時半に神田今川小路の下宿を出発したが、現在の新宿区にある甲州街道の四谷門をくぐる頃にようやく東の空が白々と明けてきた。内藤新宿を抜け代々木村付近の右手にある長楽寺の門前広場では小休止をとりながら旧藩主松平の殿様の屋敷後を眺めては懐かしい松江の話にしばし熱中した後、若さに任せて勉強のこと陸上競技会のことやボートレースのことなどを話しながら歩きに歩いて距離を稼いだ。
やがて八時になる頃に東海道の脇往還として知られた大山街道が多摩川に突き当たる双子渡しに到着して暫時小休止を取った。
しばしの急速で息を吹き返した3人は、こんな平らな道は四十曲がり峠に比べれば楽なものだと話しながら、多摩川の土手沿いの道を上流の小金井方面に向かって歩き始めたが、12時ごろになってとうとう清一は足が棒のようになり歩くことができなくなってしまったのであった。
それも無理のないことでいくら若くてもその行程は11里(約44km)あまりにのぼり、平均的な歩く早さを時速4kmとした場合に11時間掛かる行程をわずか8時間半で歩きとおしたからにほかならず、一同は満足してかねてから予定の多摩川沿いの旅館に1泊することになったのであった。宿ではゆっくりと湯に入り疲れた足を揉み解してしばしの仮眠を取って体力の回復を図ってからの食事となった。
開け放たれた障子からは多摩川からの川風がさらさらと吹き込んで火照った身体を気持ちよく冷ましてくれていた。何よりお膳に並べられた多摩川の水でよく冷やした地酒と熟れたスイカが元気を呼び戻した。
「おお。銀之助はさすがに気が利くなあ。」
「いやいや、いつもは真面目な豊太郎が真剣な顔をして相談事があるというので硬い話にならないように酒を頼んだだけだよ。」
「そうか。大体の想像は付くよ。豊太郎、何でも話してみろよ。」
「そういわれるとなんだか話しづらいこと極まりないが・・・。実は東京に来てからはやいものでもう2年が経ってしまった。そろそろ学費のほうが続かなくなってきたんだよ。何しろ東京の物価の高さといったら、松江の比じゃないだろう。
また噂では大学からの給費制度が無くなり、今後は月謝を納めなければいけなくなるということだ。」
清一と銀之助も互いの身の上は同じようなものである。普段は慎ましく暮らしており、遠足も日帰りを原則としていたが今回の卒業旅行も蚊帳を購入するのも惜しんで貯めていたお金であったのだ。
「そうだなあ。あれこれと遣り繰りして暮らしている実家には、送金してくれなどとは言えないし。」
「なにか、良い手立てはないものだろうか。」
「うーむ。こうなったら大学院で勉強している鋭之助先輩に相談してみようじゃないか。」
「そうだ。それが良い。鋭之助さんだったら何か妙案をひねり出してくれるに違いない。」
やがて外では将来への不安を示すように、俄かに風雨が激しくなり強風が雨戸を激しく叩いて一同の心をかき乱したが、翌早朝には雨も止んでいたので7時に一同は足元を整えてから帰路についたのであった。しかし道路は前夜の雨で泥濘(ぬかるみ)のため歩行には随分と難渋を極めたが、夕方には無事に下宿に帰りついたのであった。
そしてその日の夜にはさらに学費に苦労している源のさぁのもとに相談に出かけ、一同で鋭之助の所へ窮状を訴えに出向くことになったのであった。
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岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第2章、東京遊学時代 「その10、日本初の陸上競技会」

2011年08月16日 20時10分00秒 | 小説
明治18(1885)年6月6日に東京大と東京大学予備門合同の陸上競技会が東京大学予備門の校舎が東京の本郷に移ったのを記念して行われた。そこでも前年に行われ大成功を収めた陸上競技会の役員を務めたストレンジ先生が選手のために競走者心得5条を作成した。
このとき清一は親友の志立鐵次郎達らとともに陸上競技会を成功に導くべくおおいに手伝い時には選手としても参加したが、飛鳥山で行われた慰労会ではその成功に多少とも貢献したという喜びからおおいに日本酒を鯨飲した。
本来清一の父伴平は酒に強いことで有名で、日本酒を三升飲んでも殿様の御用を務めることができたし、殿様の前ではいくら飲んでいても一滴も飲んでいない振りができたというほどの酒豪であった。
後にはその父の血をおおいに受け継ぎ精一もどれほど飲んでも乱れることも無く酔った醜態を人に見せたことはなかったが、この頃はかなり学生達の中でも有名ないける口で時には失敗もあった。
飛鳥山での慰労会の帰り三々五々と仲間達と連れ立って歩くうちに、志立鐵次郎はふと清一がいないことに気が付いて渡邊千代三郎(後に大阪瓦斯会社社長)に聞いた。
「おい。清一がどこにいったか知らないか。」
「そういえば今日はいつもよりかなり冷酒をぐいぐいといっていたぞ。」
「まあ、清一が飲むのはいつものことだから特段驚くに値しないが、居なくなってはこまるからなあ。ちょっと探してこようぜ。」
二人で飛鳥山からの帰りの見物人たちを掻き分けて清一を探しに戻ると、なんと清一は太い桜の根元で大の字になって大きな鼾(いびき)をかきながら眠りこけていた。
「やっぱりか。おい清一。しっかりしろ。」
しかし清一は鐵次郎と千代三郎がいくら揺すっても声を掛けても起きない。途方にくれていると仲間の誰かにいわれたと人力車がやってきた。
「おっ。これはありがたい。おい、この車に早く乗り込め。」
すると清一はやにわに立ち上がった。
「何を言っているんだ。この俺は断じて酔っていない。したがって歩いて下宿まで帰るのは当然のことである。」
二人はまたかと驚きあきれて、清一を見ている。
またこのようなときに余計なことを言うと余計に精一が駄々を捏ねることがあることを知っていたからであった。
しかし清一は二人が酔っていることを殊更いわなくなったので我が意を得たりと人力車に手を掛け乗り込もうとしてそのまま後ろ向きに倒れてしまった。
車夫が慌てて抱き起こそうとするのを二人は笑いながら制しつつゆっくりとしゃがみこんで覗き込みながら待っていると、しばらくしてゆらゆらと上半身を前後左右に揺らしながら起き上がりつつ色々と講釈を話し出すのであった。
清一の話し出すこの講釈が実は面白いのでうっかり相槌を打ってしまうと、この講釈はそれこそ英国などにも簡単に飛んでしまうので、ふたりはこの講釈を途中で切らないように上手に合いの手を入れながら、本人に気がつかれないように脚や腰に手を添えて巧みに人力車に乗せてしまう技は正に芸術的であった。
そして一旦乗せてしまうと事前に車夫と打ち合わせが済んでいるので、後は一気に清一がいくら大声で話していようが下宿まで送り届けるということが決まりごとであった。というのも当時の清一は本郷にある時計台前の今川小路にある関根方に渡邊千代三郎とともに下宿料月四円五十銭で暮らしていたからであった。
またその頃は学生間にトランプ競技と玉突きといわれたビリヤードが大流行し、志立や山崎達と大変によくその遊びをしていたが、後年それらの遊びが社会人になってからは随分と役に立ったのであった。
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岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第2章、東京遊学時代 「その9、選手競漕判定をめぐって大紛争」

2011年08月16日 20時06分00秒 | 小説
最後の選手競漕は6艇レースであるため、日本のボートレースにおける初めての3艇レースで予選を行うこととし、一組は理学部、法学部、文学部で理学部が最下位となり法学部、文学部の2艇が決勝に進んだ。もう一組は医学部、予備門本校、予備門分校で医学部が最下位となり予備門分校と予備門本校が決勝に進出した。
その結果決勝は法学部、文学部、予備門本校、予備門分校の4艇で競われることになった。
決勝レースは吾妻橋から上流の植半までの4000尺(約1200m)で行われ、それぞれの友人や関係者を巻き込んで応援熱は最高潮に達した中で行われ、予備門本校が勝ちを収めて午後6時半頃終了した。
しかしゴールの着順判定をめぐってはほとんど同着に近いきわどいレースであったこととゴールの旗係が不慣れなことに加え、異様な雰囲気の中でのレースであったため一着の予備門本校と2着となった医学部での間で勝利にこだわるあまり紛争が起こった。
それは予備門本校の6番櫓手の杉浦吉太郎が屋根の上に飛び上がり、医学部の学生との間で表勝旗をめぐって取り合いを演じた時のことであった。
騒ぎを聞きつけた学生達が徐々に旗の周りに集まりだし、それぞれのクルーを贔屓するあまり腕を捲り上げて血気盛んな体力自慢の若者達が目を血走らせて一触即発の危険を張らんでいったのであった。
幸いにも予備門学長の杉浦重剛先生に急を知らせる学生がいて、慌てて数名の関係者を引き連れて学長が現場に到着した。
「君達は何をしているか!」
学生達ははっとしてその大音声に振り返る。
「本日の大会は学生のスポーツにとって記念すべき初めての対校競漕である!市民を初め多くの方々の御来臨をいただいているにもかかわらず、このような騒擾(そうじょう)を引き起こしたとあっては誠に恥ずべき行為だ!
この騒ぎは不肖予備門学長、杉浦が預かる!速やかに解散せよ!」
さすがの学生達も学長が乗り出してきては無理が利かない。結局この騒ぎを収めるために表勝旗は予備門学長の杉浦重剛先生の預かる所となって一旦は沈静化したように思えたのであった。
そして翌日になって鋭之助達は三学部の寄付金で作った船であったので大会終了後は艇の管理もかねて大学に寄付したのであった。
しかし一方の気持ちが収まらない医学部ではその後、大学に艇の寄付を行わずに端舟会(たんしゅうかい)という組織を作り一学期ごとに届けを出してボートを漕ぎ出していたが、あわてたのは鋭之助達である。自分達と同じように大学にボートを寄付すると思っていた医学部が寄付を行わないで、新たな組織を作ったのでは、自分達は今後舟無しの陸(おか)に上がった河童状態になってしまうからであった。
やがてそのことを協議した結果再び走舸組を作ることにして大学に届け出ようとしたが、大学側では学期末になっても喧嘩ばかりしているような状態では許可することはできないとの連絡で、しばらくはボートに乗れない状態が続いたのであった。
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岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第2章、東京遊学時代 「その8、競漕会7番レース」

2011年08月16日 20時05分00秒 | 小説
やがて夜が明けるとボートレース当日である。
午前中は曇天であったものの次第に晴天を向かえ絶好のボートレース日和となった。人々は早くから墨堤(ぼくてい)と呼ばれた隅田川の両岸に桜の花満開の時期を迎えたこの日に、待ちに待った春の到来を告げるお花見をかねて繰り出していた。墨堤には所せましと屋台が並び大会関係者の中には屋形船をしつらえて向島の艶やかに着飾った芸者衆をともなって見物を決め込む者や、一家総出で見物に訪れる人々もいた。
なかでもそれぞれの学校関係者、学生においては興奮のピークを早くも迎え旗をふりたて口々に声をからして声援を送っていた。
またさらに人々の興奮を高めていったのは海軍の音楽隊が、応援団の声に負けまいと張り切って演奏する勇ましい音楽であった。娯楽の少なかったこの時代にあって明治維新がようやく終了し、やっと訪れた平和のありがたみを人々が実感できたのがこのボートレースであったのである。これ以降人々は誰言うとなくこの時期のボートレースをお花見レガッタと呼び習わすようになり東京の風物詩となっていった。
一方ストレンジ先生は早くから清一達予備門のクルーと合流して、大会本部に役員として詰めるまでのわずかな時間に、大会に出場する漕手たちにそれぞれ大会本部が仕立てた揃いのユニホームと帽子を着用させこまごまと注意点を言い聞かせていた。
「ボーイズ、ボーイズ。ボートレースにおいては勝つことに意味があるのではない。紳士としてのマナーと教養を養うのが目的である。したがって自らがレースにおいて勝ったからといって、驕ってはいけない。ウエル、ローすなわち敗者に良く漕いだといってその漕ぎを認め慰労しなさい。これこそがオアーズマンシップなのだから。」
「ハイ!」
直々にストレンジ先生の教えを受けた予備門の漕手達は素直で屈託が無い。むしろボートレースの本場英国よりも漕手たちは漕手らしく、よりオアーズマンらしくなることを目標にしていたが、むしろ興奮の極みに達して騒擾(そうじょう)の気配を見せていたのは、大会を取り巻く応援団と市民達のほうであった。
やがて清一達にもレースの時間が迫り桟橋で漕手が並んでオールを立てて待っていると先のレースが終了し、漕ぎ疲れて息も絶え絶えの様子でクルー達が帰ってきた。顔からは汗が滝のように滴り落ちている。なかには立って艇から降りられない者もいた。
やがて桟橋から6人漕ぎ固定席艇(フィックス)のクラッチといわれるオールの装着具にオールを入れて、7人全員が片足を桟橋にかけて舸長(舵手・コックス)の号令で揃って桟橋を蹴り出し出艇して行った。
「両舷、いいかー。蹴ろうー1,2,3!」
艇に座り足をストレッチャー(足が動かないように固定する道具)に納めてから見ると、銀之助や去年司法省の法律学校生となっていた奥村禮次郎達が盛んに手をふっている。舸長の号令で少しずつ川の中央に漕ぎ出していく。
「2番、チャボって(少し漕いで)」
「1番、あわせて。バウペア(漕ぎ進む先頭の二人)、ノーワーク。さーいこー!」
「両舷、合わせてノーワーク(ゆっくり漕ぐ)さーいこー!」
「ありがとー!」(漕いでくれてありがとう、漕ぎ終わりの号令)
6本のオールが生き物のように呼吸を合わせて動き出し、いかにもスピードの出そうな新艇がピカピカと光を反射して、水面を滑り出して行く。
この時が一番胸躍るときである。漕手はゴールに背を向けて漕いでいるので、両岸の風景が次第に前方に流れ出す。クルーは全くの一体となり、聞こえるのは艇が水切る音ばかり。両岸の喧騒ももう届かない。
「ああ、いい気持ちだ。」
水の上では屋形船の舷側を手で叩いての応援がすさまじい。少しいくと清一!と声が川面から掛かるので振り向くと、先に艇を川面に出していた鋭之助達のクルーである。
「お前ら、今日は手加減はしないぞ。精一杯、付いてこいよ。」
「おう!」
と答える清一達クルー。オールを持つ手に力が入り力瘤がもりもりと盛り上がり、桜の花びらがひらひらと風に流され水面に散り掛かる。
いよいよレースだ。ボートレースの始まりだ。
清一達の出漕する第7番競漕は3艇レースで鋭之助達のクルーが紫組、間に白組を挟んで精一達は赤組であった。出発時間が刻々と近づいてくる中3艇は粛々と大会本部が設置した石油缶でできたスタート地点を示すブイに結ばれたロープを舸長が握って流されないようにして、上流のゴール地点に向けて徐々に艇の方向を直しながら漕手は互いに励まし合い、気合の充足を図りつつ待機している。
また各艇は舸長(※)の号令によってまるで一つの生き物のように、機敏な動きでその位置を互いに修正しながら船首を揃えスタート合図の空砲に備える。
やがてスタート時間が迫ってくると辺りは静寂に包まれる。
「各艇、いいか!」
「おーっ!」
「スタート用意!」
「ズドーン!」
気合の充実と各艇の船首がそろった段階で、一発の空砲が響き渡りボートレースの始まりである。
「ふんぬっ!」
各艇、漕ぎ始めの一本はオール先端部分のブレードが水をまともにとらえて大きくしなりながら小山のような水の塊を作り出し、艇はその水の固まりに弾き飛ばされるように飛び出していく。各漕手はスタート初めの10本ぐらいは息をもしないでレート(1分間に漕ぐ本数)を上げる。
さらには思いっきり上半身を艇のトップ(船首)方向に飛ばすことを繰り返す。
やがてスタートが終わるとあらかじめ予定されたコンスタントレート(安定レート)に落とし始めた頃ようやくに漕手は視界が開けてくる、それまでは急激な運動のために酸素の供給が追いつかないのだ。
清一は周りを見渡し鋭之助のクルーが既に視界から消えていることに気が付いた。
そんな3番櫓手の様子に気が付いた舸長は怒鳴る。
「3番!きょろきょろしないで前を見て漕げ!」
しかし舸長は今の状況をクルーに伝えることを忘れていない。
「紫!2艇身差!白!1艇身差!慌てず大きくいこー!」
各クルーはこれで今の状況が理解できた。後ろにいる他艇の状況が見えなくてもそれぞれのクルーの位置関係はすぐに理解できる。あとは舸長の判断を信じてクルー一丸となって漕げば良いだけなのだ。
クルーにおけるまったくの信頼関係、これが漕ぐ者と試合を見る者をひき付けてやまない最大の理由であるのだ。
クルーは舸長(※)の指示通り、慌てずに1本1本のオールに集中し力を込める。一人として後ろを振り返ったりはしないで、先行する2艇との差を詰めることのみに努力し後半の逆転を図る。
やがて、クルーを励ますように舸長(※)から指示が出る。
「よーし!差が詰まってきたぞ!白との差、約半艇身!」
「おー!」
ようやく残りの半分、距離450mとなったところで先行する艇との距離がつまりだしてきた。
この頃になると漕手もちらちらと隣の艇の船尾が見えてくるのでより一層足を踏ん張りオール持つ手に力が入る。隣の艇は簡単には抜かれまいと、さらにピッチを上げて精一達を引き離しに掛かる。
「ミドルスパート10本(途中で入れる力漕)行こう!さあ、いこうー!」
相手クルーの声は耳に入る。耳で相手の様子を判断するのだ。ここからは事前のクルーミーティングで決めたとおりにすれば良いのだ。つまり相手のミドルスパートが終わるまではピッチを上げずに我慢の水中だけを強く漕いで相手のミドルスパート終了を待ち、満を持して相手のスパートが終わったら一気にピッチを上げて先行する艇を抜き去るのである。
「まだ!まだ、水中強く!」
「よし!ミドルスパートいこうー!さあーいこうー!」
クルーは待ちに待ったスパートである。この日のためにつらい練習に不平不満も言わず、腹の減るのも我慢して漕いできたのであった。各漕手は全身に酸素を充満して一気呵成に抜きかかる。
先行していた艇が見る見る前方へと消えていく。するとすかさず
舸長(※)が指示を出す。
「先行する艇まで、あと1艇身半!大きく行こう!さあ行こう!」
思いのほかの力漕で艇差が詰まってきたことに気をよくしてコンスタントレート(各クルーごとに決められた試合用のレートで一分間に大体30回前後)に落として再び追いすがる。やがてのこり200mを切ろうとしている。追われるクルーもつらい。
今まで冷静にリズムを作ってきた6番櫓手が溜まりきれずに舸長(※)に声をかける。
「ラストスパートはまだか!」
「まだ早い、まだまだっ!」
さらに数本漕いだ頃、差はじりじりと詰まって来る。たまりきれずに清一は叫ぶ。
「スパート入れろ!スパート!」
舸長(※)は頑として応じない。まだ早い。まだ早いのだ。
やがて数本の後、満を持して声も鋭く指示を出す。
「ラストスパート行こうー!さーいこうー!」
よおしと声を出さずにクルーは答える。ここからが本当の醍醐味だ、漕ぐ、また漕ぐ、さらに漕ぐ。
「スパート!スパート!スポート!」
舸長(※)が叫ぶ。差が詰まる。先行する艇は既にほぼ横に並んでいる。クルーの力漕も見える。息をするのも忘れている。
やがてズドンとゴールを知らせる空砲が響き渡る。ゴールだ。漕ぎ切ったのだ。
やがて3位のクルーもゴールし、レースは成立した。
それぞれのクルーは漕手が後方に倒れこみ息も絶え絶えに空を仰いでいたが、澄み渡った青い空を都鳥が飛んでいくのに励まされるように起き上がり、次のレースに出漕するクルーに艇を引き継ぐために桟橋に向かって漕ぎ始めた。それぞれの漕手は自分の前に座っている漕手の肩を後ろから叩き健闘を称えていたが、1位となった鋭之助の乗る紫組のクルーからも3位となった白組のクルーからも声が掛かった。
「ありがとうございました」
清一もありがとうございましたと声を返しながらストレンジ先生のウエル・ロー精神、すなわちオアーズマンシップとは何かということについて始めて納得できたのであった。
やがて精一達のクルーが桟橋に帰ってくると次の8番レースの樺(かば)組(かば・あるいはかんば色・濃い茶色がかった橙(だいだい)色)に出漕するクルーの中に柴野是公(通称是公(ぜこう)、後の中村是公・なかむらこれきみ)の姿とそれを見送る夏目金之助の姿を桟橋上に見つけた。
精一は柴野と夏目とは年が同じでありながらも、自分がいささかの先輩であるので声をかける。
「おーい、お前達はこれから出るのか。気合を入れてしっかり漕いでこいよ。」
「おー!」
柴野たちクルーが出艇していくと、桟橋に残った夏目が清一のオールのブレードをもって上手に手前に引きながら艇を引き寄せてガンネル(舷側)を押さえて、クルーの乗り降りがスムーズにできるように支えた。
「ご苦労様です。」
「ありがとう。ところで夏目達はまだ神田猿楽町の末広屋に大勢で下宿をしているのか。」
「ええ。10人ぐらいの大所帯ですから、わいわいと賑やかですよ。」
「それならいいが、顔色が白いぞ。元気になったら一緒に競漕会に出ようじゃないか。」
「ありがとうございます。そのときはよろしくお願いします。」
「もちろんだ。任せておけよ。」
やがて清一達はオールを艇の上に引き上げて次の競漕に出るクルーに引き渡したが、喧騒の中に夏目の姿は見えなくなっていた。
やがて鋭之助達も桟橋に上がってきて、声をかけた。
「今のは夏目じゃないか。彼は意外と神経が細いところがあるようだが、仲間と牛鍋を食べたりして楽しそうじゃないか。彼は教授連中にも文学の才能があると嘱望されているということだぞ。」
鋭之助はさすがに教授連中の情報にすばやかった。清一は夏目の意外な面を見たように感じたのであった。
またこの大会では特にチャンピオンフラッグが用意されており、選手競漕に出場する6クルーの色を表したモスリン生地を6段に縫い合わせ、同じく6色の木綿糸を房にして下げたものであった。
また選手競漕以外の17番の野次レースに出漕し勝利を収めた者にはストレンジ先生の図案による桜の5枚の花弁を表した銅板を2枚繋ぎ合わせて金メッキを施したものを授与し、選手競漕の勝者には銀のメッキが施されたメダルを授与して大会の関係者全てに日頃の支援と理解に感謝の気持ちを表すのだった。


※舸長(かちやう:舵手)

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岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第2章、東京遊学時代 「その7、競漕会前夜」

2011年08月16日 20時04分00秒 | 小説
明治17(1884)年9月当時本郷に在った東京大学予備門の医学部分校が一ツ橋にあった東京大と合併され、さらにボート熱が高まっていった結果・日本ローイング・クラブ(N・R・C)その他が設立された。それは医学部が発起人となり全学生に新艇建造の働きかけを進めることとなり、学生教職員から五百三十余円の醵金を得て5艇の建造を可能にしたのであった。
またこの新艇の建造はますますボート熱を高め合併された法理医文のほかに二つの予備門の本校と分校とを加えた6部から選手を出して、明治18(1885)年4月12日に選手競漕を行なうことになったのであった。
ストレンジ先生は発舸(スターター)ならびに判定者として名前を挙げられているが、代表者としての名誉職であった。また山口鋭之助や岸清一ならびに武田千代三郎も影になり日向になりながら予備門と大学の関係斡旋に奔走したのであった。
当時の発艇(スタート)は工学部の関係者が正確に測量した地点へ石油缶にペンキを塗ったものを投げ入れ浮きとし、空砲を撃ってスタートの合図にした。またゴールの判定は隅田川の両岸に竹の棒を立て艇の先端が通過した場合にそれぞれの艇が占有しているコースの色を(赤)あるいは(白)と叫びながら空砲を撃ち、それに応じて旗上げ役が指定された色の旗を揚げるというやりかたであった。
また競漕会は午前9時から隅田川の枕橋の所から上流へ3000尺(約900m)の距離で争われ、ゴールは上流の料亭植半の正面に設置されそこには来賓の特等席が設置されていた。一番初めのレースのみ5杯(艇)で行われるが2番から17番レースまでは3杯(艇)でレースが行われたがこれは野次レースといわれ、ストレンジ先生に仕込まれた岸清一や武田千代三郎のような漕手(選手)と腕に覚えのある山口鋭之助などはそれぞれ漕手と舸長(舵手・コックス・漕がないで艇を操縦する)として一度ずつ出漕(出場)している。
また最後の18番は選手競漕として学部と予備門の代表漕手6クルーが競うため3クルーずつの予選競漕が陸上競技会に習って日本におけるボートレース史上初めて導入されたのであった。
この東京大走舸組春季競漕会の前夜は出雲学生会の面々が集まり、山口鋭之助を中心にそれぞれのボートレースについて漕がない者も参加して喧々囂々の作戦会議が繰り広げられた。中でも第7番レースに紫組の第6櫓手(漕手・整調・クルーの漕ぐリズムを司る)として登場する山口鋭之助は同じレースで争うことになる赤組、3番櫓手の岸清一には先輩として負けられない意地もあったのであった。
集まりはそれぞれの作戦会議が一応終了した頃になると、自然といつものように先輩たちへの質問の時間へと移っていった。このような時には先輩の務めとしてレースの作戦以外はきちんと対戦相手のクルーであっても教えないわけにはいかなかった。
何事にも研究熱心な清一は無論そのことを十分に承知した上で、ライバルが一番答えたくないところに矛先を定めていく。
「鋭之助さん、レースにおいて6番櫓手を務める場合に一番気をつけなければならないところは何処でしょうか。」
「うむ。」
鋭之助は清一の質問に対して思わず唸り声を上げた。
なぜならば直接スピードに繋がる一分間に漕ぐ回数(レート)を直接聞いてきた場合は作戦上のことであるからと回答を保留することが許されるが、どこに気をつければ良いのかという質問には対しては迂闊(うかつ)に答えようものならその作戦上の秘密を教えてしまうことに繋がるからであった。またピントのずれた答え方をして誤魔化そうものなら、清一の鋭い質問が何処までも追いかけてくるのを十分に知っていたからであった。
銀之助は先ほどからちらちらと二人の顔を見比べながら、上手い質問をするものだと感心したり大先輩がなんと答えるかについてレースには出ないながらも非常な関心を持って聞いていた。
「6番櫓手の一番気をつけなければならい所はだ。うーむ。」
「それは何処でしょうか。」
「ピッチのだ。」
「ピッチをどうするんでしょうか。」
「整調としては。」
面々は日頃何事にも動じない鋭之助先輩が顔色を変えながら返答に窮していくのを、精一の日頃の演説や弁論大会での鋭い舌鋒を思い出しながら夜が更けていくのも忘れて見つめていくのであった。
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岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第2章、東京遊学時代 「その6、隅田川での走舸組競漕会」

2011年08月16日 20時03分00秒 | 小説
明治16年から17年(1883年から1884年)にかけてはMBC(メンバー・オブ・ボート・クラブ)の他にも武田千代三郎たちの創設したORC(オリエンタル・ローイング・クラブ)や岸清一が島田剛太郎たちと創設したSRC(スミダ・ローイング・クラブ)などのクラブが続々と誕生していた。
また他には明治17(1884)年9月に東京大学予備門に入学していた柴野是公(通称是公(ぜこう)、後中村是公・なかむらこれきみ・後の満州鉄道総裁・東京市長)や橋本佐五郎ならびに夏目金之助(夏目漱石)達が好んでボートを漕いでいた。
そこでMBCのメンバー達は他のクラブとの違いをはっきりとするため、ボートを漕ぐユニホームなどはまだ無かったのでシャツと紐を前で結ぶ股引きで漕いだり、後にはそれらを揃いの色に染めて試合に出たりしていた。
しかし当時は初めての頃なので外国の写真を参考にして帽子を作ったがそしてこの帽子は厚手の布であるフランネル地で緑色の頭巾型帽子であり、この帽子の頂には白の毛糸の玉を付けていた。
また他のボートクラブでは先端が菱形の帽子を作って着用しているところもあったが、その他の明治初期の学生はだいたいが和服であり紺の足袋(たび)と麻裏草履(あさうらぞうり)に皮製の日除付鳥打帽子(とりうちぼうし)といったいでたちのものが多かった。しかしともすれば貧乏な学生のこと服装や態度がおおいに乱れて巷の顰蹙(ひんしゅく)を買うことが多くなっていった。そこで大学当局は東京大と予備門の生徒に英国のオックスフォード・ケンブリッジ両大学を参考にして風紀を正すべく制服と制帽の導入を図ったが、資力の無い学生が多いことから制服採用はひとまず先送りにしてとりあえず制帽の導入を計画した。
そこでボートを漕いでいた東京大の和田義睦(後の工学博士)初め他のボート仲間などが創案した帽子のデザインを元にして学帽の型案を提出したところ和田義睦達の提出した案が採用されたのであった。そこでMBCのメンバーである山口鋭之助等と和田義睦が役員に選ばれ、以後東京大と予備門の学生に学帽の着用が進められていった。
また明治16(1883)年に墨田川で行われた天覧海軍カッター競漕会におおいに刺激を受けた東京大でボートを早くから漕いでいた学生たちは、6月に東京師範学校付属体操伝習所でボートを漕いでいた学生たちにボートレースを申し込んだ。これを快く受けた体操伝習所との間に日本で始めての学校対校のレースが行われることになり、墨田川の竹屋の渡しから言問橋間(400m弱)で3度の回航レースが行われた。
結果は3度とも体操伝習所の圧倒的勝利に終わり、ボートの先覚者を自認していた東京大のオアーズメンたちの間では体操伝習所の漕いでいた新型艇にショックを受け、これを機会に新艇の建造待望論がメンバー達の間でにわかに高まっていった。
しかしボートを漕ぎたくても大学所有のボートは6人漕ぎが2艇しかなくしかもオールは6本しかなかったので各ボートクラブは週末の土曜日になると、2艇のボートを使用する権利の抽選をめぐって舎監室における大騒ぎを毎回引き起こしていた。首尾よく抽選に当たったクラブはボートを使用する場合は、舎監から使用許可証として「走舸組(そうかぐみ)」と書かれた木製の鑑札を渡されていた。そのような毎回の大騒ぎに終止符を打つべきして生まれたのが、全クラブの統合機関としてルールを守ることを申し合わせて鑑札から名前を取り後には走艇と改められた「走舸組(そうかぐみ)」であり後の東京大漕艇部の前身であった。
走舸組の委員達は相談の結果大学からの正式な援助は頼らずに、学生たちの手で大学の規則に縛られない学生の自由になるボートを建造することに意見が一致し、速やかに代表からの醵金を求める激が各方面に飛ばされた。
しかし当時の貧乏学生のこと醵金はせいぜい十銭ぐらいしか出せない者が多かったが、幸いにもボートの指導をしていたストレンジ先生が五円を出してくれたので他の教職員も知らん顔をすることもできず寄付をしてくれたのでその総額は三百円に達した。
そこでストレンジ先生の指導のもとで固定席艇の設計が成され、新しく3艇の建造をすることになったが、この設計が後の日本におけるフィックスと呼ばれる固定席艇の祖型となったのであった。この新しく設計された固定席艇はこれまでのカッター艇に比べれば格段に競技用に適しており艇の幅も狭くかなりのスピードが出ることが予想されたので、監督役の山口鋭之助(身長約6尺(=180cm)、後の理学博士・学習院長を経て宮中顧問官)達はその完成を楽しみにしてわくわくしながら毎週土曜日に発注先の品川にある諸明造船所に出かけていった。そしてだんだんとできていく木の香りも芳ばしい新艇を互いになでたり頬擦りしたりしては、造船所の帰りにみなで酒を酌み交わしてはその後のレースや練習方法などについて遅くまで討論することを楽しみにしていたのであった。
やがて新艇の完成は明治17(1884)年の秋と目処が付いたが、ただ新艇を漕いだのではこの快挙を広く社会に知らせることにはならないので、10月17日を期して新艇の披露を兼ねて学生競漕会を墨田川で挙行することとなったのであった。
そうなってくるといよいよストレンジ先生は黙ってはいられなくなり、さっそく走舸組の主なメンバーを招集したのであった。
「ボーイズ、ボーイズ。まことに今回の快挙は喜びに耐えぬばかりか非常に名誉なことである。またこれだけ社会の関心を呼んでいる以上は失敗など許されぬことである。したがってこのたびのボートレースは万事ヘンリーレガッタを参考にして、本家イギリス流に則って行わなければならない。」
ストレンジ先生の発言を受けて山口鋭之助が立ち上がって挨拶を述べた。
「このたびの競漕会は昨年の陸上競技会の成功を受けて、水上における運動会でありいわば水上運動会ともいえるものである。また隅田川における海軍の端艇競漕の成功を受け我々オアーズメンもこの競漕会をなんとしても成功させなければ、乏しい資金を提供してくれた諸氏に対しても申し訳が無いものである。したがって諸君も万難を廃して協力していただき、ぜひ成功させるようにご尽力いただきたい。」
この鋭之助の挨拶を受け走舸組の面々は、等しく奮い立ったのであった。何よりもまずこれまで満足な練習ができるような環境ではなく、中古の艇ゆえに体操伝習所の連中には苦杯を嘗めさせられたこともあったが、今度の競漕会では厳正なルールの元で同じ条件の艇でレースを行うことが可能になったからでありこのルールは後の明治神宮大会へと受け継がれていくこととなるのであった。
レースは東京大学の教職員をあげて行われることになり、教授を初めとする関係者の寄付で海軍の軍楽隊が華やかに演奏をして大会を盛り上げることや、勝者には卒業生である先輩学士からの寄付でストレンジ先生がデザインして神田にある簪屋(かんざしや)に作らせた銀のメダルが贈られることになり、さらに隅田川の安全面は海軍の端艇競漕で実績のある水上警察が全面的に協力してくれることになった。
また競漕会は毎年春と秋の2回行うことも決まり、礼法等はオールを立てたりするなど万事海軍式で行われたがその記念すべき第一回大会は明治17(1884)年10月17日午前9時30分から隅田川に掛かる吾妻橋の上流地点で13回の回航レースを行うこととし、審判としては発艇(スタート)と判定(ゴール)をストレンジ先生が勤めさらに番外の模範レースとして東京大学の物理学を教えているノット教授が舵手を務めるクルー(山口鋭之助、阪倉銀之助他4名)と東京大学予備門のストレンジ先生が舵手(コックス)を務める(武田千代三郎他5名)2クルーによるレースが行われることも決まった。
また来賓の方達は大学の諸先生から文部省の書記官など数百名に及んだが、向島の料亭(植半・言問((うえはん・こととい))に特別に観覧席を設けるなど手配に抜かりがないよう計画された。さらに数千人以上にのぼる一般の応援の者たちは隅田川の両岸に陣取りそれぞれ旗を立てたり鉦や太鼓を叩いたりして応援し海軍兵学校、商船学校、体操伝習所の応援は、岸での応援とは別にそれぞれ数隻ずつの船に便乗して川上に待機することになった。
当日行われた競漕大会は日本におけるボートレースの歴史の中でも、カッター艇からフィックス艇(固定席艇)への転換点ともなるもので東京日日新聞等でも二日間に渡って大きく取り上げられるなど全市民の興味と関心をおおいにひきつけたものであった。
さらに最後に行われた模範レースは1mile(約1609m)以上のロングレースでおこなわれ、全ての応援者を巻き込んで熱狂的なレースとなったが、結果はわずかな数尺の差で最後に一呼吸早くラストスパートを掛けたノット先生のクルーの勝利に帰し大会は事故もなく成功裏に終了したもののストレンジ先生のクルーである教え子達をおおいに悔しがらせたのであった。
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岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第2章、東京遊学時代 「その5、禮次郎上京」

2011年08月16日 20時02分00秒 | 小説
清一たちは学問にも熱中したがありあまる若きエネルギーは一方で出雲学生会の仲間を中心にして、トランプや玉突きといった遊戯にも当然のように向けられていったのであった。
そんな予備門生活を送っていたとき、何度目かの出雲学生会の会合のために集まった仲間を見渡して清一が立ち上がって演説を始めた。
「我らが郷土の大先輩にして松江中の同輩である奥村禮次郎さん、通称源のさぁがこのたび首尾よく上京されることになった。ついては新橋駅まで出雲学生会のメンバーは全員迎えに行かなくてはならん。今日はそのことについて議論してもらいたい。」
一同は割れんばかりの拍手で賛意を表したが、四十曲がり峠まで見送ってもらった銀之助は今にも泣き出さんばかりに手を打っていた。
「岸君、ところで禮次郎さんはどのようにして資金面を克服したのか、ぜひそこの所を話してもらいたい。」
一同の気持ちを代弁して周りを見渡しながら銀之助は意見を述べた。一堂は一様にうなずきながら清一の発言を促すと回りを見渡しながら話し始めた。
「そのことだ。皆も周知の通り代用教員をしていた禮次郎さんは司法省の法学校が官費生を採用するとの発表を受け、急遽叔父の若槻さんから三十円の資金援助を受けることに成功し、はれて今度の9月に上京することとなったのだ。これは実にわれわれ出雲学生会にとっても喜ばしい次第である。」
一同は幼時を過ごした松江の山や街を思い出し、感激の涙を流した。手回しの言い銀之助は早速幹事の役割を買って出て、酒肴の用意を整えていた。やがて宴もたけなわとなったころ志立鐵次郎が感嘆したように話し始めた。
「しかし岸君の東京弁もだいぶ板についてきたではないか。初めの頃は東京生まれの武田千代三郎君も岸君が外国語で話していると思い込んでいたほどだったが、近頃では本当に流暢な言葉になったものだ。」
一同は頷きあいながら、禮次郎を新橋駅まで出迎える約束をしてさらに杯を重ねていった。
やがて禮次郎が新橋駅に着く9月が訪れた。
出雲学生会の一同は連れ立って新橋駅に出向いた。やがて蒸気機関車が到着しなつかしい奥村禮次郎が姿を現すと、我先に禮次郎の荷物を奪い合って一同は岸たちが借りている下宿へと向かったのであった。
岸たちが借りていた下宿は予備門が夏期休暇中であったので、宿舎から出て志立鐵次郎と山崎銀之助、岸清一の3名共同で8畳間を借りていた部屋であった。
到着した夜は歓迎の宴が8畳間で開かれ出雲学生会の面々から歓迎の言葉が述べられたが、それぞれのメンバーの口から出る東京弁に禮次郎は目を丸くするぐらい驚いていた。それは今にも喧嘩が始まるのではないかと思うぐらい強く勢いの良いものであったので、ひたすら聞き役に回るというような具合であり、同郷の者の披露する新しい知識はさしもの禮次郎をして聞き役に回すには十分なものであった。
やがて歓迎の宴も終わり、いよいよ寝ることになったころ精一が頭を掻きながら話し出した。
「実は禮次郎さん。我が家には小さい蚊帳が一張りしかありません。
皆雑魚寝ですので、ご不自由をかけると思いますがお許しください。」
そういうと清一は部屋の真ん中に頭をそろえるようにして寝るように指示を出したが、銀之助は既に酔いつぶれているのでそのまま放置された。禮次郎が思わず笑いだしたのは東京の学生の生活ぶりが、松江の頃と何も変わらぬ慎ましやかで質素なものであったからであった。
やがて夜は更けていく。
彼らは小さい蚊帳に丸く頭を並べていれ、胴体から下はそのまま外に投げ出して寝るので身体は蚊の攻撃に晒されたままであった。一方頭のある蚊帳の中はいびきと歯ぎしり、酒臭い寝息で充満していた。禮次郎は逞しく成長した郷土の仲間達への感動と将来への多少の不安で、いつまでも寝付けない夜を過ごしながら清一と語り明かすのであった。
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