土曜日から気仙沼に1泊で行っていた。行きは仙台に集合し、気仙沼までバスであちこち立ち寄りながらの旅路だった。以前から一度は気仙沼を訪問試合と思ってはいたが、なかなか機会に恵まれず、今回思い切って行った。
というのは、この1年3ヶ月と言うもの母の容態が思わしくなく予定が立てられないでいたからだ。泊まりがけの遠出は、母のことが気がかりで控えていた。でも、ある団体の企画に賛同し、このメンバーの人たちと一緒に被災地を巡ってみようと思ったのだ。
また、学生たちが震災後すぐに立ち上げたボランティアグループの顧問もしているので、自分の目でも見てみたいと思っていたのだ。
壊滅的な被害を受け、小学生が何人も亡くなった小学校跡や、消防車で女性が避難のアナウンスをして遭難した跡なども見学した。瓦礫は殆ど片付いてはいたけれど、ここに以前街が有り、人々が住んでいたのだなと思わせる所が沢山あった。
山肌には、切り倒された跡の樹株があちこちにみられ、あ~、ここまで水が上がってきたのだと感じられるものだった。店等は殆ど無く、ところどころにコンビニがあるだけだった。
被災後すぐからボランティアに入っている人の話しによれば、当時、コンビニがどれだけ有り難かったかと話してくれた。私も昨年7月中旬に母が夜中に救急搬送され、入院手続きが終わって、タクシーで自宅に帰る時、コンビニの灯りを目にした時、とても安心したのを思い出した。その時、光は人に希望を与えるのだと実感した。
約束があったので、日曜日は朝6時の電車で気仙沼から東京迄1人で帰ってきた。朝ホテルから駅迄乗ったタクシーの運転手さんが、この街は鮪の漁港としてとても栄えていたのだと語ってくれた。
復興は震災前のまだ4割にも満たないのだとも言った。東京オリンピックなどと浮かれているどころではないとも言ったのだが、心にずしんと響く言葉だった。
というのは、この1年3ヶ月と言うもの母の容態が思わしくなく予定が立てられないでいたからだ。泊まりがけの遠出は、母のことが気がかりで控えていた。でも、ある団体の企画に賛同し、このメンバーの人たちと一緒に被災地を巡ってみようと思ったのだ。
また、学生たちが震災後すぐに立ち上げたボランティアグループの顧問もしているので、自分の目でも見てみたいと思っていたのだ。
壊滅的な被害を受け、小学生が何人も亡くなった小学校跡や、消防車で女性が避難のアナウンスをして遭難した跡なども見学した。瓦礫は殆ど片付いてはいたけれど、ここに以前街が有り、人々が住んでいたのだなと思わせる所が沢山あった。
山肌には、切り倒された跡の樹株があちこちにみられ、あ~、ここまで水が上がってきたのだと感じられるものだった。店等は殆ど無く、ところどころにコンビニがあるだけだった。
被災後すぐからボランティアに入っている人の話しによれば、当時、コンビニがどれだけ有り難かったかと話してくれた。私も昨年7月中旬に母が夜中に救急搬送され、入院手続きが終わって、タクシーで自宅に帰る時、コンビニの灯りを目にした時、とても安心したのを思い出した。その時、光は人に希望を与えるのだと実感した。
約束があったので、日曜日は朝6時の電車で気仙沼から東京迄1人で帰ってきた。朝ホテルから駅迄乗ったタクシーの運転手さんが、この街は鮪の漁港としてとても栄えていたのだと語ってくれた。
復興は震災前のまだ4割にも満たないのだとも言った。東京オリンピックなどと浮かれているどころではないとも言ったのだが、心にずしんと響く言葉だった。