
ノーベル文学賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの名作を、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』のマイク・ニューウェルが映画化。内戦とコレラのまん延に揺れる19世紀末から20世紀前半のコロンビアを舞台に、半世紀にわたって一人の女性への思いを貫いた男の純愛を描く。主演は『ノーカントリー』のオスカー俳優ハビエル・バルデム。多くの女性からの求愛に体で応えながら、心の貞節を守り続けた男の憎めない生きざまを感じ取りたい。[もっと詳しく]
76歳と72歳の、半世紀にわたる、痛々しくも馬鹿馬鹿しくも羨ましくもなる時間。
『コレラの時代の愛』という作品には、重要な数字がふたつ存在する。
ひとつは、51年9ヶ月4日。
もうひとつは622人。
前者は、17歳の電報配達をしているフロレンティーノ(ハビエル・バルデム)が13歳のフェルミナ(ジョヴァンナ・メッツォジョルノ)に一目惚れをし、長い歳月を経て、再び愛を告白するまでに費やした時間である。
後者は、その間、フロレンティーノが女性遍歴を几帳面にノートに記した数である。
半世紀以上にわたる間、「君に飢えて眠り、君を求めて目覚める」フロレンティーノが、フェルティナの連れ添いの医者であるフベニル(ベンジャミン・ブラッド)の葬儀の日、「この日をずっと待っていた。ずっと愛していた」と貞節をアピールしたのが、51年9ヶ月4日という数字なのだが、そのことと622人という性交渉の相手の数とが、どうにもマッチングしない。
622人といえば、51年という年月で単純に割算すれば、毎年12人という数字になる。
まあ、千人斬りという言葉があるぐらいだから、これぐらいの病的な「性豪」は巷には結構いるのかもしれないが(笑)、50年間にわたって毎月のように新しいSEXの相手を渉猟しながら、「貞節」を守ってきただと?
笑ってしまうような話だが、しかしノーベル文学賞作家であるガブリエル・ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』の真骨頂は、この異和感にこそあるのだ。
電報配達人のフロレンティーノの一目惚れは本物である。
その盲目的な愛は、フェルティナの少女の幼い幻想も燃え上がらせ、相思相愛となる。
けれども、フェルティナの父親はロバ飼いからのしあがった野心家の成り上りもの。
娘は上流階級に嫁がせたいから、しつこいフロレンティーノとの仲を切り裂くために引っ越してしまう。
しばらくしてフロレンティーノがコレラの疑いが出たときに診断したのが、名声があり、家柄もいいフベニル。
彼もフェルティナの美しさにまいり、求婚することになる。
父親としては願ったりかなったり。
もちろん、フロレンティーノはショックを受けるのだが、「チャンスがあるまで諦めないぞ!」と執着を持ちつづけるのだ。
最初は、童貞を守っていたが、ある日女にいきなり引っ張り込まれ相手もわからぬまま「奪われて」以来、逆に女との交渉記録をノートにつけるほどの、「性の求道者」となるのである。
寓話といってしまえばそれまでなのだが、僕たち凡人にはなぜ?という疑問がいくつか擡げることになる。
「なぜ?」のひとつは、父親の引き離しの「強硬手段」はともあれとして、フェルミナが結構成人したフロレンティーノと町で再会した時、急に現実に醒めたように「あの恋は幻想だったのよ」と言い捨てて、逃げるようにその場を去り、そして、その後フベニルとの結婚へと至ったことである。
男の立場としては、それはないでしょ、と言いたくもなる。
成人したフェルミナの顔立ちが、出会った当初の初々しさから変化していたから動揺したのかもしれないし、彼女も少し大人になって「現実」ということに重きを置くようになったのかもしれない。
「なぜ?」のもうひとつは、いくら「SEXと愛あるいは結婚」は別物だとしても、最初のアクシデントはどうであれ、フェルミナが異常とも思える女性遍歴に執着した理由である。
ここではおそらくフェルミナの死んだ父親がとんでもない「女たらし」であったことが遺伝的性癖かどうかは別としても、大きく影響しているように思える。
フロレンティーノへの思いが断ち切れず独身生活を続ける息子を心配する母親に対して、マザコンのようでもあるフロレンティーノは、女たらしの父親の代替をしたのかもしれない。
あるいはもっと純粋に、「愛」から離れた純粋快楽としてのSEXに目覚めたのかもしれないし、少しは「幸せな結婚生活」を営んでいるであろうフェルミナへの意趣返しの気持ちもあるのかもしれない。
「なぜ?」はまだある。
名誉も財も得たフロレンティーノが76歳のとき、夫を亡くした72歳のフェルミナのもとを躊躇なく訪れ、拒絶されても若き日のように情熱的に手紙を送り、とうとう自分が経営する船会社の客船に招待し、結ばれ、あらためて永久の愛を約束するという呆れるほどの執念はどこから来るのか、ということだ。
ここにまた、人間の「生」と「死」を幻想譚のように「神」のような視線から物語るガルシア=マルケスの立ち位置の独自さもあるのだが・・・。
「百年の孤独」にしろ他の作品にしろ、コロンビアの「人工的」な架空の町を想定して、何代にもわたる自然と人間の営みを描き続ける彼の、ある時には熱く、ある時には醒めて、登場人物たちに「命」を与える方法を知るものにとっては、51年9ヶ月4日にわたり「捧げる愛」というのは、不思議でもないのかもしれない。
「コレラと内戦の時代」のコロンビア、カルタヘナ。
物語の途中で、1900年つまり20世紀を迎えることになる。
『ハリーポッターと炎のゴブレット』(05年)のマイク・ニューウェル監督と、『戦場のピアニスト』(02年)の脚本もてがけたロナルド・ハーウッドらは、粘り強く交渉し、映画化不可能といわれたこの名作を、驚くほど原作に忠実に仕立て上げた。
もともとこの作家に傾倒していたハビエル=バルデムは、『海を飛ぶ夢』(04年)、『宮廷画家ゴヤは見た』(06年)、『ノー・カントリー』(07年)などと並ぶ、なにかしら滑稽さも含めた鬼気迫る演技であった。
イタリアでは若手女優として注目されているらしいジョヴァンナ・メッツォジョルノも、13歳から72歳という幅をひとりで演じきり、とくに最後の結ばれるシーンでの裸身は、特殊メイクだろうが、垂れ下がった乳房と張りのない腰周りといういたしかたない肉体ながら、なおかつ尊厳を持ち続ける「美しい」老女をよく演じていた。
「コレラ」も「内戦」も、人間の無力さと愚かしさの象徴である。
しかし、それに拮抗するように、フロレンティーノとフェルミナの半世紀にわたる「愛の寓話」が対峙されている。
この愛は、どこからみても滑稽であり、人生の皮肉である。
しかし、76歳と72歳の見つめ合う二人を見ると、凡庸な僕たちはとてつもない「羨ましさ」を感じるようにもなる。
特に、若いときに、雷にうたれ発熱したかのような、怖れしらずの「一目惚れ」を経験した者たちにとってみれば・・・。
kimion20002000の関連レヴュー
『海を飛ぶ夢』
『宮廷画家ゴヤは見た』













私も、あの女性が急に冷たくなった態度を見て、え?なんで?そりゃないよ〜って同性ながら思いました。
>622人といえば、51年という年月で単純に割算すれば、毎年12人という数字になる。
素晴らしい!計算されましたね♪
そうかー!そりゃ無理だろう・・と思います。若い時ならいざ知らず・・・(^^ゞ
そうですよね。
なんか、肩透かしを食わされたようで。
ハビエル=バビデルが、急にキモイ顔をなっちゃったことにたじろいたのかしらねぇ(笑)
そうですか、「葉隠」にそんな一節がありましたか。
こんな言葉を、文にしたためて、だれかに送りたいものですなぁ(笑)
僕の初恋も一目惚れに近いと思いますが、昨年家庭生活に色々問題が出てきたら、急に初恋の彼女が思い出されて、今は結婚してどこかへ行ってしまった彼女の実家を探してしまいましたよ。
そしたらその直後入院。彼女の家はその病院から真下の位置にあるんです。
ストーカーみたいなことをした僕の生霊が彼女に災いを起こすかと思っていたのに、僕自身に反射したように思えてきてゾッとした・・・というお話。
ちょっとしたミステリー短編になるようなお話ですね。僕も田舎に帰ると、なんか無意識に街なかで人を探しています。
40年も前のことなのに(笑)