
もうすぐ自分の人生が終わってしまうと知った男が、死を阻止するために奔走するファンタジードラマ。監督は『ネバーランド』の名匠マーク・フォースター。自分の人生が有名作家の小説の中で進行していると気づく主人公の男ハロルド・クリックを『プロデューサーズ』のウィル・フェレルが、彼の人生を執筆する作家を『いつか晴れた日に』のエマ・トンプソンが演じる。ファンタスティックで奇抜な設定と、心温まるラストは必見。[もっと詳しく]
文学の秘密そのものを、映画的手法で暗喩したのではないか。
2001年、26歳の脚本家ザック・ヘルムが、この映画の着想を得た。
プロデューサーのドーランに相談し、ふたりで構成を練った。
このシナリオの噂は、瞬く間にハリウッドに拡がり、何人かの監督が興味を持った。
ドーランはある日、マーク・フォスター監督の「ネバーランド」を見た際に、「このシナリオの映画化監督は彼しかいない」と天啓を得たという。
ここから、主要なキャスティングが始まることになる。

主人公ハロルド・クリックは、国税庁会計検査官というお堅い職業である。友人は同僚のデイルだけ。婚約者にも逃げられた。
朝は几帳面に歯磨きの回数を数え、時間の節約のためネクタイはシングル巻き、早歩きでバス停に向かい、職場では淡々と担当案件を処理する。ランチは分刻みで済ませ、寄り道せずに家に戻って、一人で夕食をとって、寝る。
この男はなんの面白みもないような生活を送っているが、単純に律儀で四角四面であるだけの男かというと、少し異なっている。
どこか謙虚で賢く内省的なところが感じられるのだ。
この難しい役どころに抜擢されたのはウィル・フェレル。僕たちにはメル・ブルックスの「プロデューサー」(05年)などで知られたコメディアンだ。
ハロルドはある日、自分の行動を客観的な視点で記述するような女性の声を聴く。
突然、断片的に、連日のように・・・。
ノイローゼ気味になったハロルドが相談するように推奨されたのが、文学理論家のシュールズ・ヒルバート。この人物が重要な役回りで、この物語の骨格を解説するような位置を与えられている。
ハロルドはきっちりと歯磨きの回数を数えたり、歩幅を規則正しく守ったり、いつも時計に基づいて行動予定を決めるいわば「数字の男」である。
一方で、シュールズ・ヒルバートは文学を、ということは人間を観察し定義づける「言葉の男」である。
この掛け合いが抜群に面白い。この役は、すぐに、ダスティ・ホフマンに決定した。


ハロルドは、会計検査に行った先のベーカリーカフェを営むアナ・パスカルに毒づかれるが、彼女から奇妙な魅力を感じてしまう。
アナ・パスカルは防衛費に対する問題意識から、確信的に一部の納税を拒否している。
アナは腕にタットーをするヒッピー的スタイルのようにも、あるいは政府に食ってかかるアナキスト的感性の持ち主のようにも見えるが、余ったクッキーを無料でホームレスに差し出してあげるようなクレバーでナチュラルな善意を持った女性である。
フォスター監督は、オーディションでの演技によって、この情熱的な女性とマギー・ギレンホールの個性を重ね合わせた。
そして、つねに主人公を死で完結させる悲劇作家カレン・アイフルには、ドーランはまっさきにイギリスの舞台俳優でオスカーも獲得したベテラン女優のエア・トンプソンを思い浮かべた。
案の定、トンプソンもこの脚本の22頁まで読み進めた時点で、出演を了承した。
「ここ数年に読んだ脚本の中で最高のものだった」と、彼女は回想している。

映画人をときめかすようなシナリオと啓示の連続のようなキャスティングがあれば、半ば映画は成功したようなものである。
では、この「シリアスなコメディ」の本当のところの面白さは、何処にあるのだろうか。
主人公ハロルドが自分にしか聞こえない作家の声に翻弄されるところか?
パスカルが好意で差し出したお手製のクッキーを公職だからという理由で受け取らず傷つけてしまい、お詫びにたくさんの小麦粉を持っていって仲直りを申し出るといった純粋でほほえましいエピソードにか?
「悲劇は死で、喜劇は結婚で終わる」といったような、博識なシュールズ・ヒルバートが次々とひねり出すアフォリズムめいた言葉の数々か?
徐々にカレン・アイフルという存在をハロルドが見つけ出していくときの、ちょっとしたサスペンス・タッチな演出にか?
なかなか結末が決まらず、神経質に爪を噛みながら、表現に苦しむ神経症的なカレン・アイフルの仕種にか?

いや、本当は、そんなところに、この作品の特異性=モチーフがあるわけではない。
僕にはハロルドが自分に割ってはいる「声」が単なる幻聴ではないと確信するところが、この作品のなかでもっとも興味深く思えた箇所であり、この作品のモチーフと言ってもいいところだと思える。
「このささいな行為が死を招こうとは彼は知るよしもなかった」という声がハロルドに聞こえる。
ここから、ハロルドの本当の意味での、「声」探しがはじまるのだ。
「勝手に殺されてはかなわない!」という焦燥とともに。
この声は、ハロルドの習慣を単に記述するような言葉ではなかった。
もし、単なる記述言語であれば、ハロルドの統合失調症を疑うことができるからだ。
単に、自分の行為を少し自己解離した自分が対象的にとらえて、自己解説あるいは言葉によって行為を反復しているだけだとみなすこともできるからだ。

けれども「知るよしもなかった」という表現は、まったくの第三者による話法であり、視線である。
ここに、小説(文学)の秘密もあるわけだが、すぐれた表現は、必ず作家という主体と、登場人物という客体が、それぞれ物語を記述し進行させるわけだが、それだけではなく、どこかで第三者の視線というものが介在して、作家も主人公も客観視したところで、異なる位相から物語を引き受けるところがある。
それはどこかで、「神の視線」とも比喩されるものだ。
この作品の中でも、「第三者の視線」に近いことを、饒舌な教授に少し語らせてはいるのだが・・・。
「主人公は僕だった」という作品は、ほんとうは、ハロルドという(映画中では)実在の人物も、カレン・アイフルという悲劇作家が造形した(映画中では)虚構の人物も、どちらをも統御しているのは、第三者の視線(話法)である、ということをモチーフとしているのではないか。
「これは小説じゃない、僕の人生だ!」というハロルドの叫びも、「なぜかいつものようにビルから飛び降りさせて主人公を死なすことが出来ない」と悩むカレン・アイフルの呟きも、どちらもこの第三者の話法の呪縛から逃走しようとしている姿を、象徴させているのではないか、と僕には思える。
つまり、脚本のザック・ヘルムやプロデューサーのドーランや監督のマーク・フォスターは、このシリアス・コメディを通じて、文学の秘密そのものを、映画的手法で暗喩しようと目論んだのではないかと、僕は少し空想してみたいのだ。













TBありがとうございます。
この映画で、文学の秘密を解き明かす・・・
すごく素敵な一文で思わずワクワクしてしまいました!
第三者話法の呪縛からの逃走ですか、ウン、納得です。
本当の意味での自我、自分の人生を自分の頭で考えるってこと・・・考えてしまいました。
すごく好きな映画でした。
読ませていただき、ありがとうございました。
記事にも書きましたが、これは小説を書いたことのある人にとっては、ものすごく共感する映画ですね。
主人公はある程度書くと自分の思い通りにはならない。けれども、大きな事件だけはどうしても変えることができない、そういうときに主人公が勝手に動いて、結局話をめちゃくちゃにしたり傑作にしたりするわけです。その第三者の視点は確かに神のような視点ですね。
単なるコメディやヒューマンドラマではない、奇妙な感じがしました。脳内物質のカルト的方向に行かなくて良かったです(笑)
でしょうね、現代文学では、第4の視線、第5の視線・・・と、視線が複雑に転換する構造になっている小説も見受けられますね。
小説とは、人生とは、色んなコトを考えさせられました。
そうですね、単なるコメディを超えていましたね。
TB&コメントありがとうございました。
『文学の秘密そのものを、映画的手法で暗喩しようと目論んだのではないか』―そういう観方をされたのですか〜素晴らしいですね!
私は、この映画がちっとも素敵に思えなくて・・・残念でした。
どう〜も直接的な物の見方しか出来ない性質のようです(汗)
あまり印象の残らないファンタジーだったなぁ〜と思っちゃいました
最初のシナリオの着想はそうではなかったと思いますけどね。
だんだん、議論していく間に、そういう意図が明確になってきたんじゃないかと、推測しているんですけど。
「TAXI NY」や「ヘアスプレー」にも出てましたねっ。
そうそう、どこかで記憶があったんですが、あの「TAXI NY」でした。豪快な役でしたね。ちょっとヒップホップ入って(笑)
発想や演出が面白い作品でしたね。いろいろと考えさせられる部分もありました。
でも一番印象に残っているのがマギー・ギレンホールだったりします(笑)。
もっと深いところを観ないといけないなぁ、と痛感しています。
だけど、マギーはお兄さんとずいぶん顔立ちが違うと、思いません?(笑)
>文学の秘密そのものを、映画的手法で暗喩しようと目論んだのではないかと〜
すごいです(*_*)深いです^^
そこまで考えられませんでした(^^ゞ
考えられはしませんでしたが(笑)私はなぜかこの
映画好きなんです。キャストも脚本もいいのだと
思いますが、私はフォレスター監督と相性がいいのかもしれません(笑)
知るよしもなかった・・・私もあの表現(言い回し)
は気になりましたし、好きな台詞です^^
僕もフォレスター監督は好きですね。
「ネバーランド」なんて、不思議なオタク礼讃映画ですよ。
TRBありがとうございました。
この作品、私のお気に入りリストの中にいれました!
ハートフル+ちょっとコメディー+謎
出てくるキャラも魅力ある人たち。
私のツボはヒルバート先生でした。
レンタルで観賞しましたが、出来れば購入して
再度ゆっくり観賞したい一本でした。
こちらからもTRBさせていただきます。
そうですね、ダスティ・ホフマンはこのところ、お子様向け映画か、カメオ出演が多かったのですが、久しぶりに、味わいのある演技を見た気がします。
冒頭の出だしは結構スタイリッシュで、私的なつかみはOK的な感じでしたが、ウィル・フェレルってコメディでは彼の演技は確率されている感じはしますが、かなり好みも分かれるでしょうが、こういうシリアス路線のコメディではあまりにも華がないですね・・・
ダスティン・ホフマンも彼の演技と存在感の生きない浅いストーリー展開はすごくもったいなかったな〜っと思いました。アイデアは良いのに、展開にメリハリがかけていて、ラストの哲学的な理論とも思える最高の落ちがまったく生きてこないのがすごくもったいないと思いました・・・
なるほど、なるほど。
だけど、フェレルのお猿さん顔も、本人の責任じゃないしなぁ(笑)
これをただのファンタジーという理解で終わっては大変勿体ない。
結局、主人公と映画の中の【作者】が交錯するストーリーに、僕らがこの映画を観るという相が絡む、という多重構造を意識して書かれた極めて実験的な作品と思います。
バルザックは【人間喜劇】と称して大悲劇を書いてきましたが、この表現は我々に<作者=神>を意識させますよね。
文学の現在では、叙述の次元が、かなりの程度複雑に重層化していると思います。
映画の世界では、そのことに対しては、それほど自由ではありません。
この作品は、娯楽コメディの形式を借りながら、意欲的な試みをしていますね。
kimion20002000さんは御自身のレビューを「関係ない与太話に流れてしまう」とおっしゃっていますが、
いやぁ、もともと映画って“与太話の種”みたいなもの、いい映画ほど与太話も広がるんじゃないでしょうか。
今後もどしどしTBしてくださいませ。
お言葉に甘えて、TBしたり、勘違いのコメントをしたりすると思いますから、ご容赦くださいませ(笑)
トム・ハルスとリンダ・ハントのキャスティングは
どうやって決まったのかが、気になります(笑)
でも、映画のスタッフ陣の中で、僕は一番興味があるのは、キャスティングプロデューサーです。