サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。
サーカスな日々
mini review 07239「家の鍵」★★★★★★☆☆☆☆

出産で恋人を失くしたショックから、息子パオロを手放したジャンニ。15年の時を経て再会した息子は、障害を背負い、リハビリ治療とジャンニを必要としていた。 続き
イタリアのネオ・リアリスモが、こんなところに息づいている。
ジャンニ・アメリオ監督は寡作の人だ。
「宣告」(90年)、「小さな旅人」(92年)、「いつか来た道」(98年)ぐらいしか、日本では公開されていないのではないか。どの作品も明快なテーマで、多くの賞を得ている。
若い時は、ヴィットリオ・デ・シーカに師事している。
師匠の「靴みがき」や「自転車泥棒」が忘れられない。イタリアのネオ・リアリスモの巨匠である。ジャンニ・アメリオの主題の選択もまた、表現の困難さが伴うものであっても、目を逸らさず、正面から取り組んでいる。

そして今回、アメリオ監督が選んだテーマは「父と子」の絆ということと「障害児」ということであった。
「父と子」の絆という主題は、アメリオ監督自身にまつわるテーマである。
監督が自分の父と初めて会ったのは17歳の時であった。父が19歳、母が16歳、若い男女の下に生まれたが、父はすぐアルゼンチンに移住した。父との再会はぎごちないものであった、そして父には申し訳ないことをした、と監督は語っている。
この監督の体験が「家の鍵」という作品の骨格になっている。

若き父ジャンニ(キム・ロッシ・スチュアート)は出産で恋人を喪失する。そのことにショックで生まれた子を置いて、去ることになる。子どもは伯母夫婦に預けられ、15年の空白の後で、突然、子どもと向き合うことになる。
「障害児」というテーマは、たぶん監督自身は空白の後の父と子の出会いに失敗したという体験を持っており、そのことに深い後悔があったことから、このドラマの中で、自分を「障害者」に置き換える(つまりもっと極端なシミュレーションに設定する)ことで、なぜ、再会に失敗したのか、自分の父への対応も含めて、相対化しようとしたのだと思われる。
息子パウロにアンギレア・ロッシという天の配剤のようなハンディキャッパーとの出会いがあった。
16歳のロッシは、水泳選手で彼の属するカテゴリーのチャンピオンであった。助監督が見つけてきたのだが、アメリオ監督はロッシと実際に1年間生活を共にし、撮影を進めていったという。生半可の決意で出来ることではない。

ジャンニは誠実な男である。
15年ぶりに会った息子、その息子に対して、放り出してしまった自分を恥じている。
優しい言葉をかけようとするが、うまくいかない。ぎごちない時間が流れる。
一方、息子パウロは障害はあるが、知能は遅れてはいないどころか、人の些細な感情を察知するのに優れている。
それだけにまた、自分の障害を自覚し、周囲から「ハンデイキャップを持つ子」として見られることに苦しんでいる。
パウロはときどき急に手がつけられなくなる。困らせる行動をとる。
ジャンニは「父親のように」パウロの奇矯な行動を止めさせようとする。
そのことにパウロは余計に苛立つ。
15年も離れていたのに、急に父親づらをするなんて。障害者である自分を、同情するように構わないでほしい。伯母夫婦のもとでは、ちゃんとやってきたんだ。僕の家はそこにあるんだ。パウロの複雑な気持ちは痛いほど伝わってくる。
けれども、ちょうどその反対側の位置で、ジャンニも同じように苦しんでいる。
15年も離れていたことは、自分の無責任だ。どう取り戻せばいいんだろう。障害者をどう扱っていいかもよくわからない。伯母夫婦はどうしていたんだろう。自分はこの子を忘れるように結婚もし娘も出来た。自分の家族にどう打ち明ければいいんだろう。

この息詰まるようなぎごちなさは、「他者」を介在させないと、逃げ場はないのかもしれない。
ベルリンのリハビリ病院で、重い障害を持つ娘を忍耐強く見守る母ニコール(シャーロット・ランプリング)に出会う。ジャンニはパウロのことを訊かれ、とっさに友人の息子だと嘘をついてしまう。ニコールにはその嘘をすぐに見抜かれてしまうのだが。
こうした施設に慣れないジャンニは、専門家たちの厳しいリハビリ手法にも、反感を抱く。ニコールは「子どもたちにとって問題なのは、病気じゃなくて親よ」という。また「父親はすぐに逃げてしまうから・・・」とも。
ニコールの優しい眼差しの奥にも、苦悩と罪の意識がある。自分は娘の死を願ったこともある・・・。
この作品はヴェネチア国際映画祭3部門で授賞しているが、ひとつはシャーロット・ランプリングのこの静かななかに深い苦悩を湛えた演技が評価されたものである。

「障害者」の子を持つこと、それを恥と感じるのは親の側だ。普通の子との「違い」、その「違い」をそのまま、受け止めること。
もう一人の他者は、パウロのペンフレンドのノルウェイに住む女の子。その子の話をしている時は、パウロは本当に嬉しそうだ。
ジャンニは思う。父親としての責任を問われ、リハビリ施設に通う間だけ、付き添いを頼まれた自分。いったい自分はパウロに何がしてやれるだろうか、パウロが喜ぶことをしてあげたい。
そして、ジャンニはパウロを連れて、病院を抜け出し、ノルウェーに向かう。
ここから、受動的に一時的に預かるのではなく、父と子の物語を能動的に経験する、という位置に変化する。
濃密なロードムービーのような父子の時間が始まる。

おずおずとお互いに接触をしていたはじまりから、1週間後には腹を立てて喧嘩をし、心からおろおろし、全身全霊で抱きしめるようになった。
アメリオ監督は、自分が父との間でなしえなかった関係の構築(回復)を、映画の父子に委託したのだろう。
けれども、この父子がハッピーエンドになるかならぬか、映画ではそれ以上を描いてはいない。
パウロはジャンニの家族に迎え入れられるのだろうか?
あるいは父との記憶を大切にしながら、また伯母夫婦の下に戻るのだろうか?
パウロが握り締める「家の鍵」は、はたしてどのようなものになるのだろうか?
この映画のリアリティに、第2次世界大戦後のイタリアでおこったネオ・リアリスモの系譜を見て取ることができる。
パウロを演じたアンギレア・ロッシは快活な少年だが、彼の全存在を監督は受け止めようとしている。それはまるで、ロベルト・ロッセリーニやヴィットリア・デ・シーカが、戦後の貧しい少年たち(素人を起用して)を長回しでじっくりと観察し、彼らの視線から世界を相対化していくという方法論の再現のようにも思えてくる。
もちろん、時代の核心的なテーマは、この半世紀の中で大きく異なってきている。
にもかかわらず、僕たちがどこかでイタリア映画を愛することを止めないのは、こうした良質な視線の継続を信じているからだろうと思えるのだ。
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いろいろ複雑で戸惑うのも当たり前だよなぁ〜、って父親の気持ちで最初の方はみてたんですが、だんだん息子の気持ちを考えるようになりました。
あの繰り返す自分の住所・・さぞや不安だったろうし
自分の居場所はあそこなんだ、と言いたかった彼の気持ち・・・。
あの後2人はどうなるのか・・
いろいろあるんだろうなぁ〜・・とこちらもいろいろ考えました。
シャーロット・ランプリングが良かったですね〜!
あの押さえた演技で、障害者を持つ母親の心情を上手く表現してて、さすが!と思いました。
TBどうもありがとうございましたm(_ _)m
こちらからもさせていただきました♪
シャーロット・ランプリングは「スイミングプール」以来だったかもしれませんが、若いときから現在まで、あの吸い込まれそうな眼光に変わりはないですね。
TBありがとうございました
この記事はgooのブログに反映せず
以前もそうでした。禁止ワードあるのか?
時々記事によってあります。さて「家の鍵」
鑑賞して、1年近く経ちましたが・・・。
私も仕事でハンディを持つ人たちとの
関わりが多いので、この映画は興味の
あるテーマでした。日々驚きと不思議な
世界の中で、さまざまな発見をしています。
blogはいzめて3年目になるんだけど、TBの相性問題はいまだ謎です。だれか、ちゃんと説明本を書いてくれないですかねぇ(笑)
この作品自体は、決して感動を売りにしてるような作品ではないのですが、この手の障害者物を作り話でやっちゃうのってどうなんだろうな?ってひっかかってた部分があるんですけど、映画として伝えられるものも絶対あるよなって確信できた作品でした。
シャーロット・ランプリングの存在感凄かったですね。語らずとも目とか表情とかだけで十分な演技ができる凄い役者さんだな〜と、感服しました。
障害者映画って、逆に、厳しい見方されるから、難しいと思うんですね。この映画は、父子への焦点の当て方が、とても普遍的で、よかったですね。
とんでもないです。
僕は、映画を見てから、レヴューを書くまで、例外を除いて1ヶ月以上置いています。
いろんなシーンを忘れていますから、逆に、印象的だった部分だけが、浮かび上がってくるような気がするんです。
まあ、そううまくいかないケースが多いですけどね(笑)
確かに。
納得のいく指摘です。
TBに感謝!
イタリア映画も、フランス映画も、黄金期はもうはるか昔ですけどね。でも、こういう良質な「伝統」は、あってもいいと思いますね。
障害者を健常者との単なる“違い”と捉えられる日本人は増えているのでしょうか?
「バリアフリー」という言葉が健常者の高みから見た言葉だと気付けていない辺り、日本人がヨーロッパの映画を理解するのは難しいでしょうね。
でもそこが分かっていないと、この映画の伝えたいところは見えてこないと思います。
そのとおりだと思うんです。
でも、この僕も、障害者と遭遇すると、逆にこちらがぎこちなくなってしまいます。まだ、体が自然な反応をしてくれなくて、頭で考えてしまいます。駄目だなあと思いながら・・・。
こちらといえば、不義理ばかりで本当に申し訳ありません!
いや〜見事なレビューですね。
どこが「miniレビュー」なんですか?(笑)
ニコールの「死ねばいいと思う時がある」という言葉が胸に突き刺さり、もし私がニコールでもきっと
そうだろうな・・・と思ったら誰も悪くないのに
悲しくて涙が止まりませんでした。
ロッシ君は健常者ですよね?演技しているのでしょ?凄いですよね〜〜。キム・ロッシさんは今回初めて知った俳優さんですが、めちゃめちゃハンサムでした★
ヨダレが・・・あは♪
僕は、ロッシ君は、ハンディキャッパーだと理解しています。紹介で、「彼のカテゴリーで」水泳のチャンピオンと記されていました。このカテゴリーは、障害の範囲を指すのだと思いますが。
判然としないラストがいいですね。
二人がこの先、互いにどうなろうとも、
二人が出会ったことが、きっと素晴らしい何かを残したであろうと、
信じる気持ちにしてくれます。
単純なハッピーエンドになったら嘘ですよね。
こういう余韻をもたせた終わり方が正解だと思います。
冗談はともかく、mini reviewでないものに★がなく、その辺が残念です。
現在は全てに付いていますか。それとも全てminiになったのでしょうか?
印象深いのは、★の少ない作品でも批判的な言葉が殆ど見られないことです。これはなかなかできないですね。私は貶す時も愛情をもっと語ることを忘れないようにしています。ごく一部の映画とも言えない作品は別ですけど。
>良質な視線の継続
タヴィアーニ兄弟はイタリアン・リアリズムの正当な継承者だと思いますが、その彼らにも弟子に相当する監督がいるようで、綿々と続いていくのでしょうね。
まあ、今度のお正月休みぐらいにね。
体裁をちょっとそろえ、50音リスト化しようかなと。
でも、どうなることやら〈笑)
本当は、mini reviewは短く、短く数だけ多く、と思っていたんですけどね。だめです。おしゃべりですね〈笑)
で、書きたいなと思っているのは、50作ぐらい溜まっているけど、いつも酔っ払って帰ってくるので、だめですね。
コメント残していただいてありがとうございました。
アンドレア・ロッシ君の感情の起伏を表現する演技も素晴らしかったけれど、キム・ロッシもランプリングも受けの演技でとっても素敵だなーと思って鑑賞しました。
重い題材ではあったけれど、その分ラストでちょっとホッと出来たような気がします。
また遊びにきます。
通常は、ロッシ君に演技を食われちゃうところですけどね、「受けの演技」ですか、そうかもしれません、存在感がありました。