
保守的なアメリカの西部で、20年以上にも渡って男同士の愛を貫いた2人の“普遍の愛”を描く人間ドラマ。2005年のヴェネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞したほか、数々の映画賞にノミネートされている話題作。主演はヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールが20歳から40歳までの年齢も繊細に表現した演技を見せる。監督は『グリーン・ディスティニー』のアン・リー。ブロークバックの山々を美しく映し出した映像にも注目。[もっと詳しく]
大都市では「性解放運動」が進んでも、西部ではまだまだ疎外されていた。
ゲイやレスビアンの思想を辿ってみれば、旧約聖書のダビデとヨナタンの関係にまで遡る。
このダビデに関する崇拝は、ルネサンスのミケランジェロの「ダビデ像」にまでつながっている。
ゲイやレスビアンの錚々たる人物史は、アウグスティヌスによって、1千年近く禁忌にされたというが、思想で言えば、ソクラテスからフーコーまで、文学で言えばトルストイからシェークスピアそしてホイットニーやランボーやヴァージニア・ウルフを経ており、スポーツや音楽家、建築家そして王室やFBIといった権力の流れの中でも、ひとつの系譜となっている。
現代では、カミングアウトをするまでもなく、多くの優れた表現者の文化史とオーバーラップしている。
「ブロークバックマウンテン」は1963年ワイオミング州で、羊の放牧管理の季節労働仕事にありついたふたりの20歳の青年に生起した「同性愛」をテーマとしている。
物静かで幼馴染のアルマ(ミシェル・ウィリアムズ)との結婚を約束しているイニス(ヒース・レジャー)と、ロデオ生活に明け暮れているジャック(ジェイク・ギレンホール)は、美しい山系を見渡せる山裾で、キャンプ生活をしながら、互いに信頼関係を醸成していく。
貧しく孤独なカウボーイの青年たちが、もともとホモセクシュアルな資質を自覚化していたようには、この映画では描かれていない。
ある厳寒の夜、普段は、キャンプ地と放牧地を分担しているふたりが、ひとつテントで一夜を過ごすことになる。どちらからともなく、ふたりは、半ばぎごちなくしかし半ばは自然に、肌を交わすことになる。
ここから、ふたりの「秘密」が発生し、20年に渡る愛憎劇が繰り広げられる。
この「秘密」を持ったまま、結婚し子供も出来ているイニスに対し、4年後ジャックは絵葉書を出し、イニスを訪ねる。
4年ぶりに会ったふたりは、アルマの目を逃れるように激しく抱擁を交わす。そして、年に数回、数日の休暇と称して、ふたりは、思い出の聖地ブロークバックマウンテンに向かうことになる。
ジャックは富裕なテキサス娘ラリーン(アン・ハサウェイ)と結婚をするが、ラリーンの親からは一人前に見られていない。一方、イニスは、アルマにふたりの関係を見破られ、協議離婚をして、一人暮らしをするようになる。
ジャックは寂しさに耐え切れず、メキシコに渡り、男を漁ったりする。イニスは、ジャックからは一緒に牧場をやろうと提案されるが、9歳の頃、ホモセクシュアルな関係の牧場を経営していた男たちが、自分の父親たちに惨殺されたのを目撃したことがトラウマとなって、周辺に知られることに怯えてしまう。
そして、ふたりは「愛」ゆえに詰りあい、殴り合い、絶縁する。
その1年後、イニスはジャックの事故死の連絡を受ける。
出会いから20年の月日が経っていた。
ふたりが出会った1963年には、アンディウォホールがシルクスクリーンの作画で、ニューヨーク現代美術の寵児となっていた。もちろん、ウォホールの周辺には、ゲイを公言するアーティストたちが群がっていた。
ウッドストック1969年では、自由解放のうねりの大きな核が、ゲイ・レズの解放であった。同年、ニューヨークのマンハッタン警察がゲイバー「ストンウォール・イン」を襲撃し、翌日、ゲイやレスビアンが2000人以上集まり反乱抗議活動、その1カ月後「ゲイ解放戦線」が創設された。
それから30数年、ゲイやレスビアンの社会的パワーは、アメリカの大統領選にまで、影響を与えるほどである。
しかし、このふたりの青年は、アメリカの西部に生き、テキサスとワイオミングで、ただただ遠距離恋愛をし、ブロークバックマウンテンだけが、人の目を気にせぬ、束の間の安息の場であった。
都市あるいは情報社会の中で、「ゲイやレスビアン」もひとつのスタイルに過ぎないという認知と、相変わらずの疎外や仲間はずれが主流を占める地方社会という違いは、ますます都市化と「性のジェンダー・フリー化」が進行している、
21世紀のアメリカやヨーロッパや日本をとってみても、あまり変わらないのかもしれない。
この作品では、現在テレビなどですっかり市民権を得つつしたたかなホモセキュシュアルとしての自負を持っている一群の芸人や専門家のようなタイプは、登場しない。
新宿二丁目などの「ハッテン場」で、性の享楽に耽溺する毎日から離れられない孤独なマイノリティは、もちろんいまでもこの作品の舞台である西部では、居住は難しいだろう。
「性同一障害」の病理からくる差別と偏見に苦悩する一定の比率の人々が認知されたのは、もっと最近のことだ。
もちろん、「ゲイやレスビアン」を文化のひとつの資質としてきたような表現者に、スポットが当てられているわけではない。
ひたすら、地域社会の因習の中で、「男らしさ」を強制され、そこに「家族」の営みを普遍とみなす「文化」に囲まれて、しかし、「対なる幻想」を異なった形で、自覚したものが持たざるを得ない、疎外感をテーマにしたのが、この作品である。
「対なる幻想」は、男女間にも、同性間にもあらわれる。あるいは、兄妹などの近親間にも、年齢差がずっと離れた、老人と少女(少年)間にも、顕在する。
決して、「対なる幻想」が拡張されて、「普通の家族」を営むという経路だけではない。
「ブロークバックマウンテン」は、アカデミー賞の、監督賞、脚色賞、オリジナル音楽賞を受賞した。ゴールデングローブ賞では、主要4部門を独占した。
台湾出身のアン・リー監督には、台湾からアメリカに渡ったゲイの青年が、家族に告白できず、見合いをさせようとする両親を前にして、偽装結婚を策略するというコメディタッチの「ウェディング・バンケット」(1993年)という作品があるが、これはあくまでも、「家族劇」である。
むしろ「ブロークバックマウンテン」は英国の女性作家ジェーン・オースティンの1811年の小説『分別と多感』をもとにE・トンプソンが脚色し、第68回アカデミー賞脚色賞にミネートされた恋愛ドラマである、「いつか晴れた日に」(1995年)の系譜にある「愛」の物語と見たほうがいいように思える。
台湾出身のニューヨークインディーズのアン・リー監督が、ボブ・ディランやライ・クーダー、ウィリー・ネルソンといったカントリーブルースの系譜をフィーチャーしたような叙情的で素朴な音楽とカナダで撮影したという雄大な山々の映像を組み込みながら、繊細な現代のカウボーイのゲイを描いたということ自体が、アメリカの映画関係者にとっては、とてもショックなことであったと思われる。
いつの頃だったろうか。
少年から思春期にいたるあるとき、僕にも、自然の中で浄化されるようなキャンピングの最中、隣に寝る二つ年上の同性の、胸の鼓動と体の火照りを感じて、一晩中、寝付くことが出来なかった経験がある。
今から思えば、包み込まれるような夜の静寂の中で、この世に一人であること、その孤絶感が、ふたりに同じように伝播したのだという気がする。
結局、この少年たちは、朝日が差し込んでくる頃、お互いほっとしたようにはにかんで、「オハヨウ」と囁きあうことしかなかったのだが・・・。
この映画を見ながら僕は、何十年かぶりにあの時の、息詰まるような緊張した夜を、想い出してしまったのである。



















TBいただきました。コチラからもお返し致します。
文章の、ラストのくだりがいいですね。
映画というのはやっぱり、
観た人それぞれの心の内に入り込むものなんだと思います。
弊ブログへのトラックバック、ありがとうございました。
こちらからはトラックバックのお返しが反映されないようですので、コメントのみ失礼致します。
僕は、この作品は今一つでありましたが、イニスさんとジャックさんの二人の関係と社会との関りを自然に浮かび上がらせた点に、アン・リー氏の確かな手腕を感じられました。
また遊びに来させて頂きます。
ではまた。
この映画はとても音楽が心に響きました。半分ぐらいは、音楽の感動かなと思います。
アン・リー監督は、不思議な人ですね。
「ハルク」なんてのも撮っているし。台湾の家族シリーズは小品だし。もちろん、イギリス劇も、武侠ものも。おもしろいです。
(字も良くわからなかった(^^;;) でも何かで聞いたことがあったんです(^^ゞ)kimionさんのこの記事でやっと謎が氷解しました(^^ゞ ありがとうございます^^
あの状況に2人がならなかったら、こういうことにも
ならなかったのか・・とか、時代が現代だったら
もっと自由に愛し合えてたのか・・とか
いろいろ考えちゃいました。
ゲイの物語というよりも、人としての愛の物語でしたよね。
おっしゃる通り、音楽がとても良かったです♪
素晴らしい映像とともに、とても印象に残りました。
TBどうもありがとうございましたm(_ _)m
こちらからもさせていただきました。
ハッテン場ね(笑)
これは、ギリシャ・ローマの時代からね、記録されていますね。
ゲイの場合は、一口では語れないでしょうが、次から次へと、相手をとりかえるそいう嗜好の人も多いようです。
相手を求める場であり、売春とはかぎりません。
お互いが、了解して、そういう場所に、集まるわけですね。
ある種の映画館とか、サウナとかが、ハッテン場になることもあるようです。
あの寒い山の中・・・イニスとジャックの出会いから、そうなっちゃった夜からほとんど克明に覚えています。
観終わった後WCで 涙を拭いても拭いてもまだあふれ出し
泣いて帰った事も。
とても切なくて、美しいお話でした。
いきなり、興醒めだけど、昔、僕の住んでいた地方都市の映画館のトイレでは、必ず、少年狙いのおじさまが来ていて、うかうか感動に涙してなんか、できなかった記憶がアリマスヨ(笑)
この映画は我がうちなるホモフォビアに気づかされたという、ある意味思い出深い作品となり、色々と考えさせられました。考えすぎたのか、いまだに釈然としない部分もあります(笑)
ちょっと気になってしまったのですが、ヘテロという語は異性愛を指す言葉でしたよね・・。
ホモセクシュアルな人たちがもつホモフォビアというものが、むしろ問題にされていたようにも思いますね。罪悪感や、嫌悪感を過剰にもってしまう。
ヘテロというのは、異性ですからね、ホモセクシュアルに訂正しました。朝方に書いていたので、ボーっと、していましたね(笑)
気がつくのが遅くなりましてすいませんでした。
今日公開させていただきました。
記事とても興味深く拝見いたしました。
あの時代の時代背景・・・彼らの社会的立場・・。
あの映画にはそんな見方があったのだと。
いつもkimion20002000さんの記事を読ませていただくと目からウロコだったりします。
この映画が評価されたのは内に向かいつつ外を向いてるからなのかな。私は内しか観ていなかった気がします。
ありがとうございました。
TBとコメント、ありがとうございました。
>都市「ゲイやレスビアン」もひとつのスタイルに過ぎないという認知と、相変わらずの疎外や仲間はずれが主流を占める地方・・・
本当にそれを感じますね・・・やっぱり、都会は、色々な人が暮らしやすかったりするという一面はありますね・・・
kimionさんの過去のエピソード、とても興味深く拝見しました☆
きっとその時の状況や、ドキドキ感、今もかなり明確に覚えていらっしゃるのでしょうね^^
誰もが同性にドキドキした経験を持っている。
ヘテロが正しく、ゲイは不正?
ゲイとヘテロ、どちらも好みの問題。
かつての体験に左右されるのですから。
楽しく読ませていただきました。
TBに感謝!
TBありがとうございます。こちらからもお送りしました。
ウォホールやウッドストックには気づきませんでした。解放運動は都会においてはずいぶん進んでいたのですね。
>ひたすら、地域社会の因習の中で、「男らしさ」を強制され、そこに「家族」の営みを普遍とみなす「文化」に囲まれて……
ああわかるなあ、と頷いてしまいました。
つい先日、田舎の実家に遊びに行き、しかし「ここでずっと暮らすのは無理だなあ」と感じたところです。田舎というのは、人との付き合いが濃厚で、「あるべき姿」を求められる土地という実感があります(苦笑)。
故郷なので大事にはしたいし、食べ物は美味しいんですけど、それでもやっぱりね。
西部というか、カントリーというか。アメリカの原風景ですからね。そこでは、教会と敬虔な家族という構図から、はみ出す者は社会的な制裁を覚悟しなければなりませんね。
>latifaさん
そうかといって、都市は都市のむごさもありますしね。
でも、単純な田舎暮らし賛美には、勘違いの人たちも多く含まれているんじゃないですかね。
>マダム・クニコさん
主人公のふたりもそうであったのかと思いますが、バイセクシュアルの資質は、本人が気付いていないだけで、相当、多いんじゃないかと思いますね。なんらかの体験に根ざしたものでしょうけど。「両刀使い」というように、声高に言うのとは少し異なって・・・・。
>ちかさん
誰もがすべてを知っている。それは、妄想だとしても、小さい町では、そういうように感じることがありますね。だから、居心地がいい面と、リセットがしにくい窮屈な面の、両方を感じてしまうんでしょうね。
深い記事ですね〜じっくり読ませていただきました。
ハッテン場ですが、以前イギリスものの本に
ロンドンのハイドパークの森がハッテン場として有名だそう
(確かそう書いてあったような・・・)
その本でヘテロの言葉を知ったんです^^
脱線してごめんなさい!
「BBM」の音楽は、ほんとによかったです。
今でも聞くと涙がでてきます・・・
音楽がとても自然とそのなかでのふたりの心の動きにマッチしていたと思います。
ボブ・ディランの曲も、良かったですね。
オネエ言葉を使う芸能人が増えていますが、
まだまだ同性愛の問題は難しく深いもんだと
この映画を見て思いました。
僕的には50年後、100年後の社会が同性愛を
いうものをどう捉えている社会になっているのか、
とても興味があります。
また、雄大な自然となんとも寂しさを感じつつも
優しさに包まれる音楽も良かったですね。
また、宜しくお願いします。
文化の成熟と共に性の文化も発展し世間に認知されてきた歴史、興味深く読ませて頂きました。
つい先日WOWOWで放送されていた トム・ハンクス主演の「フィラデルフィア」を何年かぶりに再見したのですが、以前観た時は”エイズへの偏見”という観点でしか観ていなかった自分に気が付きました。今回もう一度見直してみたら”ゲイへの偏見”とも戦っていたんですよね・・観るほうのキャパも成熟しないとついていけないなと強く感じました。
こちらからもTBさせていただきました。
ひろがる景色と
二人の苦悩する姿が美しいと思いました。
テレビの「ゲイ能人」たちの活躍によって、ゲイへの畏れのようなものが、「笑い」のなかで、希薄化されたという功績はあるでしょうね。
100年単位で考えれば、単独(人工)出産が拡大していきますから、ホモ、ヘテロ、バイというセクシュアル概念が、おおきく変動していくでしょうねぇ。
ハリウッドの関係者をとってみれば、かなりの高率で、同性愛者が存在すると思いますし、この映画の制作関係者にも、何人もいると思われます。
従来まで、このような取り上げかたはなかったように思います。
ほとんどは、大都市の中で、ホモセクシュアルを堂々と公言する登場人物や、逆に、揶揄されるような類型として、描かれていたように思います。
保守的な西部、あるいは男らしさを当然と見るカウボーイの世界で、自分で「性」を発見する男たちの時間を追うという、テーマの設定に感心させられました。
>ひろがる景色と
二人の苦悩する姿
はい、この映画は、そこに尽きると思います。
ゲイの映画ってあんまり見たことなかったのですが・・・(「メゾンドヒミコ」ぐらい??)この映画は、考えさせられる部分もあり、切ない展開に引き込まれました。
映像も素晴らしかったですね!!!
またお邪魔します♪
「メゾンドヒミコ」は、現代社会においての、(ゲイの)老人のユートピアを仮構したファンタジーでした。
登場人物は、かなしくもおかしいゲイたちですが、やはり都会性がありましたね。
この「ブロークバックマウンテン」は、西部の保守的な風土の中で、ゲイに目覚めた青年を登場させています。
ユートピアの可能性も見出せない、悲劇になっています。
文中に大都会での性解放運動と西部での保守的な風土との対比がありましたが、この映画が普遍的な愛の物語として評価されたのは、主人公たちが20年という月日を逢瀬を重ねながらも背徳の念から逃れられなかった(特にイニスが)ことにあると思います。
許されない恋だからこその情念や痛みがゲイという関係をこえてみるものに訴えたんじゃないかなと。
でも僕は、やはりアルマがかわいそうで仕方がありませんでした。不倫相手が男性だったなんてホントに割り切れませんよね。
嫉妬というより、唖然とするという感じでしょうね。
自分は、この人の、何がわかっていたんだろうかと・・・。
現在では、アメリカの都市圏でのシングルマザーは過半数をこえているそうです。
そのなかのある%は、「性」の問題が、絡んでいるような気がします。
理解し難い世界ではありますが、性同一性障害等本人にはどうすることも出来ない問題もあります。
肝心なことは
差別することが問題なのだということです。
自分と違うからはじき出すという行為がなくなればと思います。
監督の繊細な感性はすごいと思います。
根深い問題ですね。
人間の「性」のありようは、多様で複雑です。
差別する心性は、差別する側の無意識の自己防衛のようなところもあります。
どなたかが書いておられましたが、西部のマッチョな共同体は、それ自体が、男性の「隠れゲイ」の世界であり、だからこそ逆に現実のゲイのカップルを排除することになるんだと・・・。
年末のご挨拶に伺いました。
只今こっちゃんのブログは開店休業中ですが、
TB頂きありがとうございました。
kimionさんの視点はいつも興味深いですね。
さすが見方が深いといいますか。
と思ったらニアミス実体験が?!(笑)
いや冗談はさておき
いつも己の薄っぺらさを痛感させられてしまいます。^^;ほんとです
来年はkimionさんのような深みのある素晴らしい記事が書けるよう
がんばりたいな。
おっと、その前に復活しないと。
と、いうわけで良いお年を_。
僕も、この半年は、開店休業状態で・・・。
元旦からは、ちょっと、趣向を変えてみようと思っています。
三日坊主かもね(笑)
良いお年を!!
TBさせていただきました。
アカデミーらしいといえばらしい受賞さくでしたね。
アン・ハサウェイも出番は少なかったですが、いい感じでした。。
アカデミー賞というのは、いろんな時代的無意識がからんできますからね。昨年のアカデミー賞は、考えてみると、まことに微妙な無意識が働いておりました。
深い考察ですね〜。
この映画は2人の愛を精神的・肉体的な側面から観る事が出来るような気がしますね。
廃れていくカウボーイという生き方、そして人に知られたくない愛の形・・時代の流れの中で居場所がない2人は共通の大事な思い出ごと相手を愛し続けていたのではないか?と思いました。
ほんとうをいうと、僕たち日本人には、カウボーイという生きかたがもっている、孤独さのようなものは、わからないような気がするんですね。あくまでも、観念的には捉えられるけど、肉体的にしっくりこない。
いろんなことを考えさせられました。
ゲイの映画というかんじはしなかったですね。
現在でも、ホモセクシュアルは、地方社会とか、企業社会とかではなかなかカミングアウトはしにくいですね。でも、コミックなどで、取り上げられて、若い人たちの抵抗感は、低くなってきていると思います。バカな差別意識もありますけどね。
kimionさんの記事にとても共感しました。
私もこの映画が与えてくれたものをずっと忘れずにいたいと思います。
ホモ映画で気持ち悪いなんて言ってるガキは、ぶんなぐってやりたくなります(笑)
9点という採点は新作では2年ぶり。ベスト1作品でも最近は8点どまりなんです。
観ているうちに同性愛は個人的にはどうでも良くなってきました。勿論彼らの苦しみの多くはそれに起因するものですが、純愛に男も女も関係ないだろう、と思いつつ、観終えたのでした。
かくいう僕も中学時代同性愛疑惑があったらしい。その頃本当は同じクラスの少女に熱を上げていたのですが。見る目のないことよ。(笑)
僕も、同性愛描写はちょっと映像としてはひいてしまいますけどね。この映画は、やっぱり、自然の描写と音楽がよかったですね。アン・リー監督の、文学的な側面が十分に窺えた作品でした。
ノーマルの、いえ、感受性の弱い僕には今一つ共感しかねる映画でした。映画評論家の先生方はこういう作品が好きですよね。そんなにいい映画かなぁと正直疑問が残ります。
まぁ、それでも最後はグッとくるものはありましたけどね。ワイオミングの大自然も素晴らしかった。
僕は、映画評論家でもなく、単なる映画ミーハーのひとりに過ぎませんが、いい映画だと思いました。アン・リー監督は、台湾出身のインディーズ監督ですが、いわばよそものがアメリカの保守的な風土を部隊に、こういう作品を完成させたということに驚いています。「ハルク」のようななんだかわけのわかんない作品も、撮っている人ですけどね(笑)
友情を育んでいく最中にそうゆう感情になるのも
分からなくはないですよね。
自分を偽り、周りをたくさん傷つけた2人が
とても切なかったですねぇ〜。
新宿2丁目の出会いとは違いますからね。
大自然の中で、ふたりぼっち。なんか、そういう気がおこっても不思議じゃないような気がします。
腐るほど記事を書いているので,どれをTB返しさせていただこうか迷いましたが
一番堅苦しく書いているものにしました。(笑)
あまりに感傷的なものは恥ずかしいので・・・。
しかし,kimionさんの記事のラスト,なかなかロマンティックでございますね。
僕は、十分、感傷的な人間ですから(笑)、気にせず、送ってくださいな。