
誰のせいにもできないような悲劇の連鎖の中で。
古代メソポタミアの中心都市であったバビロンに建てられようとしたジッグラド(階段状の建造物)。
この天に届く塔の物語を、僕も小さい頃から、いろんなお話で、目にしてきた。
神に並ぼうとするような人間の傲慢さに対して、神からの天罰であったというように思いなしてきた。
「バベルの塔」を描いたもっとも有名な絵画は、16世紀の画家ブリューゲルの作品である。ある意味で、観るものの視線を凍らせるような作品である。
旧約聖書の「創世記」によれば、神はノアの息子たちに世界の各地を与えた。
しかるに、人間は、石を煉瓦に変え、漆喰をアスファルトに変え、つまり「技術」を手に入れ、都市に集中し、自分たちの権勢と欲望をみせつけるかのように、天に届こうともする塔の建設を始めたのだった。
神は、人間の傲慢は、「ひとつの言葉」であることを因とした。
そこで、人間をバラバラにするために、言語をいくつもに、分かたれたのだと。
バベルの語源は、バラル=混乱から来ている。

幼心に、僕には、人間の傲慢さというよりは、神の尊大さのようなもののほうに、畏怖の感情を覚えたように記憶している。
言語や文化や宗教や人種が、分かたれたことによって、意思疎通が困難になり、やがて、それぞれのナショナルが内向きに凝り固まり、排外的な思想をもたらし、争いが頻繁に起こるようになったのではないか。
バベルの塔につきものの果てしない権力的象徴という側面を除いて考えれば、はるか高度から眺められた地球(ある意味で神の視線と言うことだが)に、境界線などどこにもないはずだ。ある種の絶対平等に近い視線が本来は手に入れるられる筈なのに。
しかし、人間は、バラバラにされ、再び世界に放たれた。
各所の共同圏からみれば、集落になり、集落同士の合同になり、それが、原初の国になる。
その拡大過程で、必ず、共同体同士の境界の侵犯が、おこることになり、争いは絶えなくなる・・・。
たしかに、愚かしいことなのだが。
現在であれば、もちろんもう少し異なる考え方が出来る。
本当は、言語や文化や宗教や人種の差異など、本質的なものではないのだ、と言うように。
「普遍」というものがあるとすれば、そうした差異を超越して、了解しあうことではないか。
もし、「天罰」を与えた神の意思というものを想定するとするならば、言葉や文化や宗教や人種の同一によりかかることなしに、局所での衝突や不信や憎悪や差別や・・・つまりあらゆるディスコミュニケーションをいったん、化学反応のレベルに戻した上で、巨視的に見れば、その反応はいつしか収まり、平衡点に達するのだ、と言うように。
その状態を指して、西欧的には「愛」という概念が与えられているのかもしれない。

もうひとつ、この「バベル」という作品を、因果律という現象から、見ることも出来る。
原因があり結果があるという概念や、前世の因果が巡り・・・といった応報的な概念と言うよりは、釈迦が説いた、物事には直接的要因(因)と間接的要因(縁)があり、この因縁が和合し、因縁となる。
これが縁ということであり、物事すべて相依相関のなかにあるのだ、と言うように。
ここで、僕たちは西欧風の人間の原罪ということを想起しようが、東洋風の人間の宿命ということを想起しようが、どちらでもよい。少なくとも、この「バベル」という作品は、僕たちの善悪、倫理、知識という現世的な尺度などを超えた所にある、巨大な力のようなものを主題としているのだから。

この作品で言えば、ロスアンジェルス、メキシコ、モロッコ、東京という4つの都市で、本来、因果になりそうもない事柄が、実は繋がっているんだ、という「説話構造」になっている。
3人目の子供を亡くしたことから関係がぎくしゃくしてきたアメリカ人夫婦が癒しにモロッコを旅行している。
モロッコの高地で貧しい山羊飼いなどで生計を営んでいる家族には二人の少年がいる。
メキシコから長く出稼ぎにアメリカに来て家政婦をしている愛情豊かな中年女性がいる。
妻が自殺し、聾唖の娘をきづかう男が、東京にいる。
僕たち、観客からは、これはそれぞれの言語圏、文化圏におけるそれぞれの物語である。冒頭では、相関するものなどどこにもないのだが・・・。

アメリカ人夫婦は英語で、相手を慰撫しようとしながら、お互いの言葉から棘がとれない。
山羊飼いのふたりの息子は、兄の方が少し不器用で、弟はついつい兄を挑発するようになっている。
家政婦は、結婚する息子のためにメキシコに戻るのだが、預かった子どもの面倒を見てくれる人がいなくて、途方に暮れている。
聾唖の娘は、懸命に他人とコミュニケーションしようとするのだが、わかりあえないことに苛立っている。
つまり、この登場人物たちは、どこかで心穏やかではない。
愛の求め方そのものに、小さな日常的な障害が立ちはだかっている、というように描かれている。
そして、一発の銃声が鳴り響き、因果が複雑に展開していくことになる。
このスタッフたちは、1年間にわたる撮影で、2500以上のカメラを使い、4000カットを収録したという。
それぞれの撮影場所ごとに、違うレンズとフィルムを使い、それを再びデジタル合成した。
たとえば、モロッコの撮影シーンだけでも、現場では、アラブ語、ペルベル語、フランス語、英語、イタリア語、スペイン語が飛び交っていたという。

デヴュー作「アモーレ・ペロス」(99年)で世界をあっといわせ、「21グラム」(03年)ではもうベテラン監督のように掘り下げた作品を提出し、この3作目では、期待通り、世界中の映画祭を沸かしたアレハンドラ監督。
この作品は、カンヌ映画祭で最優秀監督賞を受賞し、アカデミー賞では6部門7ノミネートの末、音楽賞を受賞している。
音楽監督は、グスターボ・サンタオラカ。昨年の「ブロークンバック・マウンテン」に続いて2年連続受賞である。ここではウードという聞き慣れないアラブの楽器が使われている。ギターの祖先ともされている楽器であり、音色は日本の琴にも似ている。地上の慟哭を天に届かせようとするような、魂を揺さぶる音楽である。
僕たちは、誰のせいにもできないようなこの悲劇の連鎖を、バベルの塔の上方にいる神の視座から見ることになる。
アレハンドラ監督は、言う。
人間の大きな欠陥は、愛し愛される能力に、欠けていることなのだ、と。
そうかもしれない。たぶん、言葉を解体された時以来、ずっと・・・。

「バベル」という作品とつきあいながら、とても大きな運命的な巡り合わせを感じざるを得ない。
地上のとても小さな存在である人間たちは、神の悪戯かどうかはしらないが、その運命に出会って初めて「なぜ?」という問いをする余裕もないまま、翻弄されることになる。
ついこの間まで、普通に日常をやりすごし、普通に感情を通わせていたのに。
しかし、この痛みや悲劇や混沌のなかで、重苦しい世界の圧力に喘ぎながら、かすかに救いの手が差し伸べられている様にも思える。
それは、個別の人間の計らいを超越したところから、とても大きな慈悲の心が降りてくるような。
絶対他力の果てに、誰にもわからないかたちで、光がともされる。
その光は、個人の幸運や不運とは少し異なる位相で、誰にも同じように、ほんとうは降り注がれているのだろう。













素晴らしいレビューですね。「バベル」を映画館で観賞した直後に来た、言葉にできない「奮え」が来ました。
>善悪、倫理、知識という現世的な尺度などを超えた所にある、巨大な力のようなものを主題としているのだから。
ああ、このような文章が私にも書けたなら・・・^^
私もBLOGにおいて「バベルの塔」を感じています
(笑)
思った事を上手く書けない・・・言語・・いや脳味噌の壁でしょうか。
ところで、私は釈然としない箇所があります。
チエコの母が自殺した銃=モロッコの少年が撃った
ライフル銃だと思いますか?
ライフル銃で自殺できるものでしょうか・・・?
わからない事もあったけど私はこの映画はズッシリきました。人間の愚かさが招く悲劇を漠然とですが感じとりました。もう一度再見したいです。
今回は、いっさい、俳優や物語には、触れなかったんですけど・・・。
チエコの母がうまく想定できません。なんで、刑事に、ベランダから飛び降りたという嘘を言ったのかも含めて。
あんな都会の高層マンションに住むって、ちょっとお金持ちでしょ?役所の過去も、わかんないですね(笑)
それはともかく、
「普遍」という概念が生まれたのは、おそらく「特殊」というものが発生して以降だと思います。意思疎通が困難になったからこそ、「普遍」的なるものの価値が生まれたのではないか、と。
まさに「差異を超越して、了解しあ」った先にあるようなもの。
この映画では、お説のように物語の設定に曖昧な点がいくつも故意に残されているので、私たち観客が想像力を発揮しなければなりませんね。それもまた映画を観ることの醍醐味のように私は思っています。
もう、ヘーゲルもはるか昔のことで、言語定義などいい加減だと思います。
まだまだ、言葉がこなれていないので、言いたいことの何分の一も、表現できないもどかしさであります(笑)
>因果律という現象から、見ることも出来る
確かにそういう見方もできますね。
モチーフがバベルだったので、西洋思想的な見方をしていましたが、東洋思想的な視点で見ても興味深いですね。
なるほど!
僕は、どちらかというと、東洋仏教的な匂いをより感じました。
ブラッドピットも、チベット仏教などに、けっこう、かぶれていますしね(笑)
そういうのありますよね〜。
人と人が心を通わせることの難しさは
この映画でいっぱいでてましたよね。
大切な事なんだけど、なかなかできない・・・。
ありえない設定も多いな、とは思いましたが
全編を通じてわかりあうことの大切さと難しさが
これでもかってくらい描かれた作品だったですね。
TBさせていただきましたm(_ _)m
いろんなことが、どこかで共振しているんでしょうね。それって、プラスにも、マイナスにも成りうるわけだから、ちょっとしたことで、誤解を生んだり噛み合わなくなったりもするんでしょう。
人間世界の痛みや不条理さを描きながら
どこかにかすかな希望,というか救いのようなものをほのめかす・・・
こういう世界観は好きです。
運命の試練に、「神」を恨みたくなったり、不信に苛まれたりしますね。
その先に、ほんとうにかすかに、恩寵のようななにかが、降り注がれているのを感じることになります。
この映画にイマイチのめり込めず、ポケモン云々てなことばかり気になった私ですが、
こちらのレビューは読ませていただいていて面白かったです。こういう上手い文章が書けるって羨ましいです。
では、また来させていただきます。来年も宜しくお願いいたします。
今年は、何度も、ピロEKさんと、交信できてよかったです。来年も、よろしく。
素晴らしい文章力ですね
ちょっとした疑問があるのですが、下から11行目の
「悪戯がどうか」は、「が」ではなく「か」では?
ウードの音色が印象的でした。
半分、酔っ払って書いていることがほとんどなので、ケアレスミスどころか、大切な表記を間違ったままにしていることがしょっちゅうあります。
ご指摘ありがとう。直しておきますね。
>ウードの音色が印象的でした。
そうですね。まだ、頭の奥の方で、この作品の音楽が聴こえて来ます。
そうですね。僕もそう感じました。
特に言葉は通じてもコミュニケーション不全に陥っている世界の現状を描いている印象がありましたね。
南北問題における南側の苛立ち。それが唖の日本人娘の苛立ちに象徴されるという構成だったように思います。
よく出来た映画ですが、僕はこういう時系列をずらしたり、挿話をシャッフルしたりする作品は素直に褒めたくないところがあるんですよね。
本作はともかく、時系列通りに作れば何ということのない作品が過大に評価される傾向があるわけです。
>時系列をずらしたり、挿話をシャッフルしたりする作品
脚本の力や、監督に構成力がない作品で、これをめくらましのようにやられると、不快になるのは確かですね。
アレハンドラ監督あたりになると、かなり意識的に注意深く構成していると思います。
時間や場所がやたらと飛ぶのが見ている間は気になりましたが、それがきちんとつながった時、テーマに沿った大胆な演出だったんだなと思いました。
TBさせてください。
日本ではかなり不評なレヴューが多かったですね。
宗教観の問題がありそうですね。
kimionさんの記事を興味深く拝見しました。
読み終わって、この映画に対しての想いが、更に強くなった気がします。
TBのお返しをさせていただきますね♪
日本では、もうひとつ受けが悪かった映画のような気がしますね。