
1970年代のフィンランドの片田舎を舞台に、人を寄せ付けない元囚人と悩める人々を癒やす盲目の牧師との繊細な交流を描き、各国の映画祭で称賛された感動的な人間ドラマ。刑務所を出所したヒロインが牧師のために手紙を音読する日々と、二人の心に宿る絶望と希望とを淡々とつづっていく。監督は、フィンランドとスウェーデンで活躍するクラウス・ハロ。物語の終盤に告白される悲しい秘密と温かな真実に、胸が締め付けられる。[もっと詳しく]
もっとも苛酷な試練の中で、「神」の恩寵は降りてくることになる。
僕はとりたててキリスト教に、「信」を置いているわけではない。
「無神論者」といわれればそうかもしれないし、「神」という言葉をキリスト教の三位一体の縛りから解放してしまえば、存外、僕は「有神論者」であるのかもしれない、と思うこともある。
とは言っても、ことあるごとに旧約や新約の「聖書」を、「言葉」としてあるいは「物語」として、読むことがある。
それほど深く理解しているわけではないとしても。
しかし、そこで発せられる言葉や、意外に生臭い物語に、たぶんどんな文献や小説よりも、根源的な「普遍性」のようなものを感じ取ることが出来るからだと思う。

この「普遍性」は、それぞれの「聖書」や、いくつかの「福音の書」が、注意深く解釈の仕方に含みを持たせながら、ある種の「教訓」を暗喩したり、あるいは民族の苦難物語を抽象化することによって、神話の正当性を目論むものであったとしても、そういう枠を超えたところでの世界性が基底の部分に保存されているといってもいい。
「ヤコブ」という存在も、聖書の中ではきわめて重要な人物に据えられている。
旧約聖書でいえば、父イサクと母リベカの子として生まれたヤコブは長兄であるエサクとことごとく対比されることになる。
イサクはエサクを愛するが、リベカはヤコブに肩入れし、彼に正当な継承を求める。
「神」によるさまざまな試練の中で、ヤコブはエサクと較べて、臆病で狡猾で慎重な性格のように描かれている。
どちらかというと、「弱者」になるのだが、結局「神」はヤコブを選び、ヤコブの12人の息子が、イスラエルを創設する12部族の長となる。
そしてヤコブという名前が転じて、「イスラエル」になるのである。
「新約聖書」では、キリストの死後、兄弟であるヤコブが使徒に加えられている。
ここでは、預言者としての役割であり、もっともキリストにあるいは神に仕えることに、忠実な使徒であるように描かれてもいる。
「ヤコブの手紙」とはこの新約にある「ヤコブの言葉」であるが、映画の『ヤコブへの手紙』に登場する牧師のヤコブは、旧約と新約のそれぞれのヤコブの性格が、どのように振り当てられているのかはよくわからない。
けれどもマタイ書にあるように
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげる」
という一節が、ヤコブ牧師の造形の芯になっていることは疑いない。
時代設定は1970年代。
フィンランドの片田舎の雨漏りのする古い木造の家に、盲目の老いた牧師であるヤコブがいる。
無期刑を宣告されたレイラという女性は、模範囚として12年の牢獄生活を恩赦で出ることになるが、行くあてもなく、紹介されたヤコブを訪ねることになる。
レイラはトランクひとつを持ってヤコブの家に登場するが、一向に心を開こうとはしない。
盲目ではあるが、家のことに関しては問題なく処理できるヤコブが、ただひとつレイラに頼んだことは、世界からヤコブあてに届けられる手紙を読んで欲しいということ、そしてその手紙へのヤコブの返答を(基本は聖書の言葉の引用なのだが)、書き付けて郵便配達人に渡して欲しいというものである。
レイラは気乗りがしないし、手紙を毎日届ける郵便配達夫と諍いをおこしたりもして面倒にもなり、もってこられた手紙の束を、牧師に黙って、ゴミ箱に捨ててしまったりもする。
牧師の生きがいであった手紙がバッタリ届かなくなり、牧師は目に見えて衰弱していく。
レイラはある日、ヤコブあての手紙も持っていないのに、牧師をいつものように庭の椅子に座らせ、「親愛なるヤコブ牧師様・・・」と読み始めるのだが・・・・。
たった1時間15分の作品である。
登場するのは、ヤコブとレイラと郵便配達夫のほぼ3人だけであり、その舞台もヤコブの家に限られている。
音楽はショパンやベートーベンの曲が効果的に挿入されてはいるが、セリフは極めて少ない。
フィンランドではコラムニストあるいは脚本家として名高いらしいレイラ役の女性は、無関心の塊のような人物で、12年間獄中にいたこともあるのかもしれないが、太った体を物憂げに鈍重に動かすだけだ。
ヤコブを演じているのは演劇畑の役者だそうだが、昔は村の結婚式や葬儀や定期的な礼拝などで牧師を務めていたのだろうが、もうほとんど誰とも交流せずに、郵便配達夫が運ぶ自分への手紙だけを、生きる縁としている。
さて、いったいどこにどういうように、神の啓示や救いが現れるのだろうか?
丁寧にヤコブの家の周囲の緑や光と影や雨露や小さな草花を、神の恩寵と言えばそうもとれるような静謐さの中で写生してはいるが、物語の後半まで、ヤコブとレイラと郵便配達夫は、心を通わすこともなく、すれ違ってばかりしているように見える。
しかし、最後の15分ぐらいで、観客は間違いなく、もらい泣きをするはずだ。
レイラの固く閉ざされた心や、ヤコブの手紙が来なくなってからの孤絶感が、一挙に溶けていく。
レイラは幼い頃から、理不尽な暴力から自分を守ってくれた姉を尊敬し愛していた。
その姉が夫からのDVで殺されそうになった時、レイラはその夫を殺害してしまい、姉への申し訳なさも伴ってもう人生を棄てている。
模範囚とはいうものの、それは明日の希望のためではなく、なにもすることがなく、世界の誰からも自分は必要とされていないと思い、すべての「信じる心」を捨て去っている。
面会も拒否し、手紙もいっさい受け取ろうとはしない。
そんなレイラははじめて、牧師に届いた「手紙」だと偽って、自分の過去を話す。
牧師は、レイラの姉から繰り返し、手紙を預かっていた。
その手紙には、妹の告白と同じことが書かれており、姉がずっとレイラのことを気にかけていたことを話す。
「誰にも必要とされなくなった者」・・・その究極の存在に、果たして「神」は光を充てられるのか?
レイラだけでなく、老いて孤独の中で死ぬ運命の盲目の牧師も、本当は誰にも必要とされなくなっているのではないか?
苦難の連続の中で、そして「死」を選んだり訪れたりしようとする時に、レイラは牧師に会うべくしてあったのだろう。
それは奇跡なのか、神の恩寵なのか。
本当のところは誰にもわからない。
ただ、僕たちは、説明のつかない運命に関して、そこに「神」を見たくもなるのだろう。
「聖書」の「ヤコブの手紙」への一節には、こんな言葉も記されている。
信仰による祈りは、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ち上がらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
だから、互いに罪を告白し合い、また、いやされるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。
(新約聖書「ヤコブの手紙」第五章より)













今年もいろいろとご教授よろしくお願いします。
いつもながら丁寧な分析に敬服です。ヤコブという名の持つ憂慮みたいなもんがあるわけですね。
映画史上、もっとも仏頂面のヒロインではないかと思うくらいの無愛想でしたが、印象深い映画でした。
あれは北欧じゃないと出ない味わいだったと思います。
記載の使途ですが、使徒ではないかと。
国がポーランドになってますが、フィンランドですよね。
今年もよろしく。
あの仏頂面ですけど、曙を彷彿とさせましたね(笑)
ミス指摘ありがとう。修正しておきます。
2012年ベスト10入り早くも決定です(笑)
あのおばさん、曙そっくりですね(笑)
実は昨年秋「聖書」を買いまして、カタツムリくらいのスピードで読んでおります。5か月余りで55%くらい読みましたから、後4か月くらいで読み終えることができるでしょうか。オリンピックまでには読み終えることにしましょう(笑)
「旧約聖書」があんなに長いとは思いませんでしたよ。ふーっ。
『聖書』に関しては僕は素人ですが、物語として何度も読みました。
でも読み通したことは実はないんです。
いろんな人の訳で、なんか面白そうな場面を何度も何度も、という感じです。
旧約はとくに変なストーリーの運びで、その解釈をいろいろ読んでいると歴史ミステリーのようです。