
リリー・フランキーが亡き母への思いをつづって、200万部を超える大ベストセラーとなった同名の自伝小説の映画化。監督を『さよなら、クロ』の松岡錠司、脚本をリリーと同郷の松尾スズキが担当し、社会現象的なブームにまでなった原作の映画化に挑んだ。主人公の“ボク”にオダギリジョー、“オカン”にベテラン女優の樹木希林。昭和から平成を見つめてきた東京タワーをめぐる母子の深い愛情のドラマに胸打たれる感動作。どこか頼りなくナイーブな主人公を演じたオダギリジョーがハマリ役。[もっと詳しく]
やっぱり、<血>というものは繋がっているんだなあ、と素直に思う自分がいる。
僕の母は20年ほど前に亡くなった。
いつも気儘に生きている僕を何も責めず、終生、温かくいてくれた。
僕が家を離れたのは大学時代のことだが、帰省するにもいつも突然で、帰れば帰るですぐに昔の友人たちと深夜まで飲みに出かけてしまう。
けれどどんなに遅くとも、母は食事と寝床を用意して待っていてくれた。
下宿先に、ときどき几帳面な字で僕の健康を心配する手紙と、何枚かのお金を入れてくれた。
晩年は、癌で入退院を繰り返した。
僕の父は15年ほど前に亡くなった。
仕事の関係があったのだろうが、壮年期まではほとんど午前様の生活だった。
地方都市ではあるが、飲み屋街が密集しており、老舗のクラブやスナックバーでは父は有名人だった。
午前様のときでもよく家に帰る理由をつけるためか家にタクシーが迎えに来る。
3人兄弟であったが、迎えにいくのはいつも末っ子の僕の役目だった。
「ボン」「ボン」と飲み客やママさんたちにからかわれながら、眠たいにもかかわらず、僕はおいしい寿司などを意地汚く頬張っていた。
全国を飛び回っていた父は、ある冬の日、京都駅のホームで脳溢血で倒れ、集中治療室に運び込まれ、1年ほどで帰らぬ人となった。

母は、150cmそこそこで、上品で着物姿が普通の、もの静かで優しい人だった。
一方、父は身長が185cmもあり、昔の人だから図抜けて大きく、僕より10cmも高かった。
自分がほんとうはどちらに似ているのか、よくわからない。
それなりに気づかい症のところなどは母に似ているとも思うし、自尊心が高くある意味で親分肌のところは父に似ている、などと親戚の人たちは囁いたりする。
50も半ばに近づいて、父や母の面影を、ぼんやり顔を洗いながら、鏡に自分を映し出しているときに、発見することがある。
晩飯の用意をしているときに、母の割烹着姿の仕種が想い出され、苦笑することがある。
仕事で用件の整理をメモしているときに、電話口で同じようにメモしていた父の背中が瞼に浮かんでくることがある。

「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」は、リリー・フランキーの自伝小説であり、2006年の本屋大賞に選出され、200万部を出版した原作の映画化である。
この原作は、多くの読み手の中に、ボクを自分に置き換え、オカンとオトンを両親に置き換えて、ある種の郷愁を誘うようなリリシズムの幅を持たせているような気がする。
リリー・フランキーは、ボクも好きなサブカルチャーの担い手の一人であり、その作品や語りを見聞きする限りでは、とても個性的でユニークなキャラクターである。
にもかかわらず、読者にある種、昭和の30年代以降の典型的な家族と錯覚させ、主人公のボク(オダギリ・ジョー)と自分を同化する余地を残すのは、なぜなのだろう?
あるいはオトン(小林薫)は田舎町には珍しい自由奔放で気紛れでおちゃらけでしかしどこか芸術家肌のように描かれており、オカン(内田也哉子/樹木希林)は「キサス・キサス」を踊りこなせるようなモダンなところのある女性でありながら、子供の成長をなんの見返りもなしに人生の最大の拠り所とするような庶民的な懐の深い女性のように描かれている。
オトンとオカンは、ほとんど離れて暮らしているのに、互いの存在を身近に感じている。
こんな夫婦は、特別な変わり者なのに、どこかで、記憶の底の方から親しみに似た感情が湧くのは、なぜなのだろう?

リリー・フランキーの原作も、松尾スズキの脚本も、そして珍しくゆったりとしたペースで抑えながら丁寧に感情を掬い上げている松岡錠司監督の演出も、壊れ物をそっと扱うような手つきで、ボクを中心とする濃密な人間関係の襞を、リリシズムに包み込んでいる。
炭鉱の町の解体しかかった戦後の点景と、隣のお勝手にも行き来が自由であった素朴な親密性と、東京タワーに代表される都市の変貌と、麻雀やパチンコやハシゴ酒や男女の享楽やといった青春時代の無意味が懐かしいモラトリアムと、少しずつ大人になっていくことで負ってくる責任の不可避性のようなものと、どれだけでもあげられるだろうが、ほとんどの人間が寄り添ってきた時代が、そこにリアルに感じられるからこそ、観客の感情移入がおこりうるのだろうと思われるところがある。

たしかに<血>は繋がっている。
ボクは、オトンの影響で絵が好きで美術学校に行き、結局イラストレーターを出発として喰っていく様になった。
人に管理されたり締め付けられたりするのを、嫌っているところも、オトンを彷彿とさせる。
一方で、知り合った仲間の面倒をみたり、どこかで「何とかなるさ」という楽天的で明るい気質は、オカンの影響のようにも感じられる。
実際のリリー・フランキーの著作では、故ナンシー・関との対談が僕は一番好きなのだが、どこかナンシー・関がリリー・フランキーを「困った子だねぇ」というように、愛しくてしょうがないよ、といった母性愛に似たような視線を向けているようだ。リリー・フランキーには、身近な人間に、そんなことを思わせるような資質があるのだろう。
たまたまこの映画でいえば、オカンの若い時期とそれ以降が、内田也哉子と樹木希林という実際の親子で演じられているところが興味深い。
演技指導というより、もう、持って生まれたとでもいいたくなるような風情がこの親子はそっくりなのである。
内田也哉子の父は、もちろんロックンローラーの内田裕也である。
内田也哉子自身もバンドでボーカルをやりながら、また母の影響を受けてか、役者の道に入っている。

故久世光彦は、リリー・フランキーのこの小説に対し、「泣いてしまった・・・・。これは、ひらがなで書かれた聖書である」と、最大級の賛辞を寄せている。
シニカルでおちゃらけで人を笑わせるサブカルチャーの旗手でもあるリリー・フランキーが、この出版にあたっては本の流通過程で大切に扱ってもらえるように、あえて「汚れやすい白い表紙と壊れやすい金の縁取り」を選択したのだという。
ほんとうに、オトンやオカンへの哀歓あふれる想いを、大切にしたかったのだろう。
僕も母の末期、病院に置いておくのが可哀想で、家に連れて帰った。
母は嬉しそうだったが、その日に具合が悪くなり、また病院にトンボ帰りとなった。
それからほどなくして、母は息を引き取った。
矍鑠としていた大男の父は、母の葬式がすんで、めっきりと衰えた。
家でひとりでスーパーで買ってきたパックを食べるようになっていた。
そして、数年して、父は倒れた。

映画のシーンで抗生物質で末期癌のオカンがのたうち苦しむシーンがある。
ボクは何も出来ず、ただただオカンの手を握り、あるいはつらくてオロオロするばかりであった。
オトンもすっかり、放心していた。
そのシーンに涙しながら、僕も主人公のように、もっともっと母や父に、なにかしてあげられなかったのか、と後悔していた。
若き日のオカンが幼いボクと家を飛び出て、線路沿いに手をつないで歩くシーンがある。
また、オカンが他の男と少し身を寄リ沿いかかった温泉場で、オカンを必死に探しまわるボクをみつけて、男への気持を振り払うように、ゆっくりと駆け寄ってボクを抱きしめるシーンがある。
それと逆に、もう余命幾ばくもないオカンを、ボクが生まれて初めて自分から手を握って、ゆっくりと一歩一歩、交差点を渡るシーンがある。
積み重ねられてきた親子の時間は、どこまでも甘え、甘やかしてきた時間である。
そのことの有難さ、かけがえのなさが、心を打つ。

オカンの死後、箱にへその緒やら手紙やらと一緒に一枚の写真が残されていた。
赤ん坊のボクを晴れやかににこやかに抱き上げる若い日のオカン。
そこには絶対愛が満ちている。
体の弱かった母が、未熟児の僕を、病院の屋上の木漏れ日の中で、嬉しそうに抱き上げている写真の存在を、想い出してしまった。













映画を観ながら、自分の父母について
ついつい思いを巡らせてしまいますよね。
ナンシー関さんのエッセイ(消しゴム版画付き)、
すごく好きだったんですが、
リリーさんとの対談は読んだことがありません。
今度読んでみなくては^^
人それぞれ自分がどこかしら重なるところが多いのでしょうかね…
ナンシー関との対話は、文庫でも出ていたんじゃないかなぁ。
絶妙なんですけどね、ナンジー関が、困った子だねぇ、とあしらうところが、とっても魅力的なんです。
いつも僕は自分と重ねての情緒的blogになりがちなので、駄目なんですけどね(笑)
この小説が素敵なのは、ボクとオカンの数々のエピソードの中で、自分と親にぴたっと符合するような部分が一人ひとりあって、しかも、読み手によって、ぐっと来る場面が違うところだと思います。
つまり、感動ポイントがそれぞれ異なる、懐の深さとでも言うのでしょうか。
私もナンシー関との対談好きでした。
そうですね。どこか「聖書」のように優しい言葉で、普遍的なてーまが扱われているような気がしますね。
どれだけでも、教訓がよみとれるような気もします。
リリーさん自身の物語なのに、原作を読んだ人映画を見た人の誰もが「自分の物語」に置き換えていってしまうところがこの作品の素晴らしさですよね。
誰にでもある母親と子と(時々、父親)の普遍的な物語を、淡々と優しく見せてくれた監督たちの姿勢にも拍手です。
だいたい、出版社やテレビ局が製作委員会の中心に座っているのは、なんだかなあ、というものが多いのですが、今回は、制作会社がよく頑張っているな、と思いました。
自分も男子の母親ゆえその微妙な心遣いがわかったり
またなりたい母親像をえがいてみたりと
シビアな目線で見た映画です
どこかで想いあっている家族が愛おしかったです
母親の側からの、感情移入というのも、当然、ありうるでしょうねぇ。
最近何故か、gooブログへのTBが反映されなくなり、
コメント欄のURLも、入力すると弾かれてしまうので、
失礼ながら、こちらにコメントを残すだけになって申し訳ありません。
わが息子は、この作品の「ボク」と似たところが多く、
どんなに駄目で弱いところがある息子でも、母にとっては
彼が居るだけで、誇らしく頼もしいものだと、
映画を観ながら、途中からすっかり自分の物語として観ていました。
何をどうしてくれなくても、ただ自分が彼の母であることが嬉しいもの。
これはきっと、息子を持つ母の共通した思いですね。
でしょうね、というか、僕、悠雅さんって、とてもしっかりした文体なので、インテリのかっこいい男の方だと思っていました(笑)
母の愛にありがたいと思いつつも、まだまだ甘えたまんまでいます。
もう少し学生の間はこのままでもいいかしら?
この映画を観て本を読んで何かしてあげたいと思いました。
学生さんですか。
どんどん甘えたらいいと思います。
そのうち、嫌がおうにも甘えられなくなってしまいますから。
僕なんか、甘えっぱなしでした(笑)
やっと原作を読みましたが
とてもあたたかい気持ちになりました
TBさせていただきます。
原作もよかったですね。
本屋大賞も納得です。
TB感謝です!
少し前にTBを頂いてたのですが、忙しくて、今日読ませていただきました。
ワタシの両親は、まだ健在なので、ありがたい事ですね。
またよろしくお願いします。
普段は、法事の予定も忘れているような、親不孝者ですけどね(笑)
この映画は、だれもが自分自身の親について思いを馳せ、今までの親不孝とかに対して反省の念を抱かされる映画ですね〜
親孝行したいときには親はなし・・・っと言うことわざがあるように。普段心の中で感謝しつつも日々に追いまくられて生きているうちについつい忘れているものですものね。
親が病気に委なったり、やっと周りを気にする余裕が出来る頃には親がすでに他界しているなんって事がありがちなものなのでしょうね〜
自分も親が元気なうちに親孝行せねばと思わせてくれる映画でした。
そうですね。
僕は、両親とも他界していますが、やっぱり、この作品のいくつかのシーンで、自分の両親のことを、回想してしまいました。
じっくり読ませて頂きました。おかんの闘病シーンは、ほんとにリアルで、怖くなってしまうほどでした。家族愛、そして生と死について、とても考えさせられた映画でした。
映画を見たいろんな人たちが、普遍的にも、個別的にも、自分の母親を、観想できた作品であったと思います。
出身大学が大変厳しく2年も留年して両親に苦労させたバカヤローです。
映画の中で主人公が現金書留を見つめるショットがありますが、今だからこそ涙なしで見られません。
最近、kimionさんに影響されて、自分のことも書くケースが増えております。
>最近、kimionさんに影響されて、自分のことも書くケースが増えております。
はは。まあ、まったく見てもいないだろうし、見る必要もないんだけど、僕はこのblogは、自分の息子に向けて書いているところもあるんですね。
「ふーん、オヤジは、馬鹿だね」って、思ってくれるときももしかしたらあるのかな、と思って・・・(笑)