
暴君として知られる燕山君(ヨンサングン)の時代。王と愛妾ノクスを皮肉った芝居が漢陽の都で人気を博し、2人を演じた“芸人の王”チャンセンとコンギルは、2人は重臣に捕らえられ、王が芝居を見て笑わなければ死刑だと言い渡される。 続き
綱の上で大きく跳ね上った瞬間、「王」は逆転したのかもしれない。
正攻法で重厚につくられた、この実在の暴君を主人公にした作品は、韓国映画の底力を見せたな、という印象を僕たちに与える。
韓国のアカデミー賞といえる大鐘賞で10部門を獲得し、観客動員でも歴代最高を記録した。
たしかに、「どんな女よりも美しい」といわれる女形の芸人コンギルを演じた24歳のイ・ジュンギの妖艶さがクチコミで伝わったということも、あるのだろう。
もともと、韓国でも名高い舞台劇を原作にしていることや、この16世紀初頭の朝鮮王朝の第10代の王である、燕山君(ヨン・サングン)は、稀代の暴君として、過去、何度も取り上げられていることも、あるのだろう。
「宮廷女官チャングム」や「チェオクの剣」など、記録的な視聴率を生み出した時代劇の土台があったのかもしれないな、とも思う。
けれども、時事性ともかけ離れたこの重厚な作品が、歴代動員記録を塗り替えたということは、ちょっと信じがたい気がしたりもする。
いったい、なぜなんだろう?
ヨンサングンは実在の王であり、その「悪政」は数々記録されている。
一方で、この映画でもそうなのだが、どこかで憎めない愛嬌のある寂しがり屋の王、という側面がある。
クーデターをおこされて30代前半で死ぬことになるこの王は、儒教の観念に縛られた王宮から、はじめて自由を求めた王であると、いえなくも無い。
母親を毒殺され、いっさい笑顔を忘れたヨンサングン(チョン・ジニョン)。身分の低い妓生上がりの官女ノクスとの愛欲を皮肉った劇で人気を博したチャンセン(カム・ウソン)とコンギルら旅芸人は、官吏から「侮辱罪」で捕らえられたが、「王を笑わせたら侮辱ではない」と反論し、命がけで王の前で、演じることになる。王はその芸で大笑いし、芸人たちを宮廷に住まわすことになる。重臣たちはそのことにまた反発し、ノクスも王の寵愛がコンギルに向かったのでは、と嫉妬する。
日本の古代天皇制でもそうだが、もともと、「聖なるもの」と「賤なるもの」は表裏の関係にあると解される。天皇(王)は、祭事の主宰者であり、祭事に欠かせないものが、芸人であった。どちらの存在も、「神」の宣託を取り次ぐものであり、「ハレ」には欠かせない。差別=被差別でいえば、王と芸人のどちらの存在も、特別な存在であることから、常民(民衆)からは、崇められると同時に、蔑まれる存在であるといってもいい。
王は、その特殊な存在から、かわりに「富や権力」を所有し、芸人は、その特殊な存在から、かわりに「美や自由」を所有することになる。この作品で言えば、ことに芸人のリーダーであるチャンセンの堂々とした誇りのような気概が、気持ちがいい。
芸や笑いそのものが、権力を嘲笑したり、風刺したりすることができる。大衆が恐れていえないことを代弁したり、大衆そのものを一瞬、開放したりする。もっといえば、臆病な大衆を、笑い飛ばすことになる。
チャンセンにとっては、「舞台」で演じる場面においては、宮廷の厳粛な空間であろうが、王の権威に満ちた眼差しであろうが、臆することは無い。舞台を仕切るのは、芸人の側であり、世界を創るのも、芸人の側である。
ことに、チャンセンがみせる綱渡りの芸は象徴的である。通常、王は、一段高い王座から、芸を見守ることになる。芸人は、一段低い位置から、自分たちの芸を王に捧げることになる。
しかし、綱渡りは、王の位置より、遥かに高い位置から、朗々としたセリフを吐き、視線を釘付けにすることになる。これこそ、首座の逆転である。しかも、朝鮮特有の、綱の上で、ジャンプし、股で受け止め、またジャンプする。軽々と、迫力を持って・・・。王はただポカンと見守るだけである。
しかし、それは、芸の時間だけであり、芸を離れれば、蔑まれる身分の低い芸人に過ぎない。そのことを、よくわかっているチャンセンは、宮廷を出ようとする。しかし、すっかり、コンギルを気に入ってしまったヨンサングンは、それを許そうとしない。定住しないからこそ、「自由」を獲得している芸人の一団にとって、お抱え芸人になることは、その牙が削がれることにもなる。
なぜ、ヨンサングンはコンギルらに自由を与えなかったのか?
王がコンギルに男妾をあるいは女性の代位を求めたとは考えにくい。チャンセンは、いつも、コンギルが体を売ってしまうのでは、と危惧し、阻止しようとする。もちろん、チャンセンはコンギルを深く愛している。しかし、これもまた、男妾あるいは女性の代位として、性愛を求めるものではない。どちらかというと、兄のような位相である。
しかし、ここで、チャンセン、コンギル、ヨンサングンの三角関係が不思議な均衡の中で成立していることを認めざるを得ない。
なぜ、そうなるのか。
その三角関係を引き寄せているのは、コンギルの「中性」的な資質である。
この「中性」的な資質は、チャンセンには、庇護する対象として兄のような位置を招き寄せている。一方で、ヨンサングンに対しては、逆に、母親の代替として、無邪気な子供に還りたがっている王を庇護するかのような位置に立脚することになる。
どちらにせよ、コンギルは受身である。
その受身で中性的なコンギルを巡って、ヨンサングンとチャンセンは、対立することになる。その対立に耐え切れず、王は、チャンセンの目を焼くことになる。
クーデターの直前、もう一度、綱の上で、盲目のチャンセンと自らも死を決意したコンギルは、二人で、大きくジャンプする。
芸人のお互いの自由を確認しあうかのように。
地上の権力闘争など、どうでもいいことだ。
必要なのは、天に大きく、跳ね上ることなのだ、というように。
もう、この瞬間は、「王の男」ではない。
韓国で、興行記録を塗り替えた原因は、民族がもつ誇りのようなものを、これらの芸人に代替させ、儒教的な堅苦しい儀礼的世界を堅固に保存しながら、急速な情報化社会の中で、アメリカナイズされていくこの奇妙な韓国の現在に対して、どこかで笑い飛ばす自由というものを、観客は求めたのではないか。
もしかしたらある瞬間、「王」とは、チャンセンでありコンギルであるかのように僕たちは、錯覚したかったのかもしれない。













チャンセンは宮廷にがんじがらめの病んだ王より、ずっと自由で誇り高き芸人のなかの”王”でしたね。
人間的にも。
タイトルは王の男じゃなくて「王たる男」という意味にとれると思いました。
チャンセンは堂々としていましたね。「王たる男」だと思います。
素晴らしい批評で感動しました。
また鑑賞レポを拝見しにきたいと思います。
お褒めいただいて、光栄です。
いつでも、足跡、残してくださいね。
>どちらにせよ、コンギルは受身である
チャンセンと王とコンギルの三角関係を醜く感じさせないのは
ご指摘のコンギルの立場だったと感じます。
芸人の誇りを確認する二人・・爽やかな後味が残りました。
そうですね。ラストも可哀想というよりは、あっぱれだな、という爽やかな気分でしたね。
良い記事だな〜って感心してしまいました。
御指摘の通り、三角関係のバランスが絶妙でしたね。
歯痒いような、甘酸っぱいような、胸キュン(死語)な感じがたまりません。
私は愛妾ノクスのスタンスも結構好きでした。
チャンセンは、たしかに、複雑な性格ですね。
最後の方に、仲間と楽しそうに草原を行くチャンセンの映像がありましたが、典型的な自由人なんでしょうね。
ノクスを入れれば、四角関係になりますね。
ノクスも身分の低い出自ですから、コンギルに関しては近親憎悪のようになっていましたね。
あの最後は、悲しい結末なんだけど爽やかな気分になれました。
こちらの記事を読ませていただいて、また観たい気分になりました。
TBありがとうございました。
きちんと、骨格のある、物語であり、映画なんですね。
だから、僕の見方も、単なるひとつの視点であり、いろんな角度から、論ずることができる作品だと思いますね。
王とコンギル、チャンセン。
三人がそれぞれに抱えた悲運と、孤独と悲しみが感じられて、ラストはとても切なかったです。
コンギルは他人の心にある寂しさを、人一倍読み取れる資質があったのではないでしょうか。
誰よりも芸人に向いているその資質が、生まれきてからずっと孤独だった王と出会う運命を引き寄せてしまった気がします。
そのとおりですね。
コンギルは、そういう資質を持っており、だから、なかなか、王を突き放すことが出来なかったんですね。決して、権力を恐れたわけではないと思います。
素晴らしいレビューを読ませていただき、勉強になります。
これからもよろしくお願いします。
是非、原作を読んでみたい映画です。けれど日本で出版されているのは、映画を軸にした脚本に近いもので、原作とは別物です。残念。もっと色濃く、どっぷりと色恋たっぷりの原作を読んでみたかったです。
すばらしい記事ですね。それに比べたらと、当方は、、と、反省しております。完全に趣味に走っているブログですが、よろしければまた、ご訪問くださいね。
いつもながらの深い洞察、感心して読ませていただきましたが、管理人さんが説かれるような深さは映画には感じられませんでした。管理人さんの記事の方が映画より、なんぼかすばらしいですよ。
私がいちばん不満に感じたのが、王の描き方。管理人さんが言われるように愛嬌のある温めない奴・・・ではダメだと思うのですよ。暴君なら暴君、実際、可愛そうな同情されるべき王だったのかもしれませんが、同情を感じさせると言うのは本筋ではないような気がするのです。
もうちっと時代考証をきちんと描いてくれると、するっと入り込めたかもしれません。
こちらこそ。今後ともよろしく。
>猫屋さん
僕も、原作を読んでみたいです。
>sakuraiさん
あの暴君の史実は、僕も表面的なことしか知りませんが、でも、歴史上の人物というのは、自由に脚色され、造形され、解釈されてもいいと思うんですよ。教育テキストじゃありませんからね。小説や舞台や映画においては。
でも上記のコメントを見ると、映画とはまた違うみたいですね。
それはそれで面白いかも。
ブログにも書いたんですけど、私は王の内面をもうちょっと知りたくなりました。外伝で作ってほしいなあ〜
日本では、どういった統治者と似ているんですかねぇ。
ある意味、信長なんかと共通面もあるのかもしれませんね。
愚王、暴王、狂王というイメージも、ある意味では、旧来の価値破壊者であり、革命者であるという言い方も、出来るかもしれません。
「王の男」という意味深なタイトルに惹かれましたが(笑)、そういう感じでもなかったような。
コンギルは王の孤独を理解していましたよね。
王も彼の中に癒しを見出していた。
一方チャンセンのコンギルへの思いは兄弟愛かそれとも・・・?というのが謎です。
少しぐらい、カラミがあってもと思ったぐらい、ストイックな映画でした。
とても素敵な映画でしたね!
イ・ジュンギの綺麗さにはビックリしましたよ!
彼はこれからもっと日本でブレイクする予感がします!
今度ある宮崎あおいとの映画も楽しみです!
そうですね、僕も宮崎さんとの映画を、とても期待していますよ。
会員になると、追加料金なしでエグゼシートに座れちゃうんです。
ど真ん中に座って殿様気分を味わえたのは、ラッキー。
まだ出来たばっかりのシネコンなので、
会員が少ないから、いい席取りやすかったのかもしれませんが。
そうなんですか。
あまり仔細に検討していないけど、最近のシネコンには、いろんな優待サービスがあるんですね。
僕は、キネカ大森の下の西武で買い物をすると、1300円になって、三回見ると(スタンプ)1回無料という原始的なサービスを愛用していますけど(笑)
この映画、チャンセンとコンギルのキャラも素晴らしかったですが、暴君ヨンサングンをとても人間的に描いていたのも印象的でした。彼の身の上には同情さえしてしまいますよね。
本当に政治をしきっているのは誰なのか?そんなことも考えさせられました。
韓国の方たちにとっては、ヨンサングン像が強固にあって、この作品でいままでの定説を崩したのかもしれませんね。
私はラストがやっぱり泣けます。
王にとっては優しく甘やかしてくれるコンギルやノクスは「母親的」位置に、目を覚ましてもらいたいと時に厳しく批判的なチャンセンと重臣チョソンは「父親的」位置にあったように見えました。
王は暴君といわれていたけど、若くして、孤独だったんでしょうね。母性も父性も、欠損して、王になったんでしょう。
スゴイ数に一瞬尻込みしましたが、思い切ってTBさせて頂きました。
もっとドロドロな感じを覚悟してましたが
ご指摘のとおり、なるほど、あくまでも受け身のコンギルが均衡を保っていたんですね。
ラストが好きでした。
このラストはずっと記憶に残るでしょうね。
これからも、気軽に足跡残してくださいね。
さすがですね。「聖なるもの」と「賤なるもの」、風刺の武器としての芸と笑い、王と芸人の位置の逆転、旅芸人であるが故の自由さ、コンギルの受け身的性格、どれも説得力のある指摘ばかりです。
裏返せば、こういう深い分析を許すほど内容の濃い作品だったということですね。「チャングム」や「チェオクの剣」の名も挙がっていますが、韓国の観客は歴史劇が好きなのでしょうかね。歴史劇が好まれる下地の上に、「美しい男」イ・ジュンギの話題が重なり大ヒットにつながったのでしょうか。
日本の時代劇とは相当に肌合いが異なる、シェイクスピア史劇を思わせる重厚な歴史劇。韓国映画はこういう作品を生み出せるところまで来たのですね。
ゴブリンさんのレヴューもとっても説得力ありました。僕は、ゴブリンさんのように、シェークスピア劇についてあまり詳しくはないので、数えるほどしかみていないシェークスピア劇、あるいはそこから骨子をとられた映画のことなどを思い出していました。
王の前での緊張感溢れる、でも信念をまげない「演劇」に感動し、コンギルの美しさに感激し、ちょっとクラクラもして^^ 王の残忍さと哀しさに触れ・・
久々になんだかすごく堪能できた韓国映画でした♪
こちらからもTBさせていただきましたm(_ _)m
やっぱ、この映画すごいですよ。
こんな重厚なテーマなのに、観客動員も達成して・・・。
ここ数年、邦画ブームだけどさ、たしかに、若いいい監督でてるけどさ、1本の「王の男」ある?
韓国映画なんて、ヨンさまだけでしょ、なんて言ってる人は、この映画を見たら、真っ青でしょう(笑)
TBありがとうございます。
映画大好きですがなかなか劇場には
忙しく足を運べません。この映画も劇場で見たかった
と思わせる映画でした。
あのなんともいえないバランスで保たれた
人間関係と自分の仕事に対する矜持を持ち続けること
のえがかれ方が好きでした。
こちらの映画の評論は読んでいていつも
なるほどと思ってしまいます。
そうですね、歴史ものを、こんなにも身近に描いた作品は、滅多にないですね。
そうですね。びっくりするほど、よく考えられて創られていて、しかもきちんと娯楽になっていましたね。
TBありがとうございました。
こちらも興味深く読ませていただきました。
私はいつもお気楽な感想しか思い浮かばないので、
ぜひぜひ参考にさせていただきます♪
いつでも気軽にお越しください。
チャンセンとコンギルは人間としての深い絆で結ばれながら、コンギルは王の抱える孤独に情を感じていたと私は観て感じていました。ただ王が残忍な仕打ちをチャンセンにするので、こいつに暖かい目を向けてはいけないと自分のblogには書きませんでしたが(笑
残虐王といわれていますが、本当は、孤独な愛すべき王の側面もあったかも知れませんね。
思いましたが、そうゆうワケではなかったのですね(^-^;
いやいや。
こういう作品に最高動員した韓国の方が、日本より「映画民度」が高いのでは、とほめたつもりなんですけど(笑)
僕はどうも構造論的に見過ぎていたように思います。つまり、王が主人公か、芸人が主人公か、という二元論で。
もう一つの考え方もありましたねえ。^^;
日本の歴史教科書が朝鮮王朝に冷たい(今は知りませんが)のは、中国王朝に対する隷属状態が長いからでしょうかね。
朝鮮王朝の変遷過程は、他人事じゃないよ、という気持がどこかにあります。わからないことだらけですが、日本は、中国から朝鮮の民族的移動と対立のなかで、ひとつの文化的ベースが重層的に創られてきていますね。やっぱり、天皇制とか、芸人とか・・・21世紀のこの世界でも、構造的にはあまんまり変わっていないこともあるんじゃないでしょうか。
いい映画でしたね。
先ほどTB いただきました、桜JJ姫です
実は「王の男」は…、大好きな東方神起が韓国のテレビでパロディをやっていて、それで気になって借りてきてみたものです。
でも、映画そのものとして、「王の男」、ほんとにいろいろ考えさせられる、いい映画でしたね。あまり韓国の映画は見ないんですが…。
ミニレビュウでのご意見、なるほどと納得しまがら読みました。コンギルをそうとらえるのかぁ・・とか。
私は英語で商売してますんで、英語を絡めて考えてしまうとこあるのですが、英語で perfect って、「雌雄同体」と言う意味があるんです。「雌雄同体=完璧」コンギルの人間としても魅力って、どこか「中性=天使
52歳で始められたブログ、とプロフィールで呼んで、びっくり
すごいです〜
いやあ、まけてられませんねぇ
体に気をつけて、がんばってくだいね
また、あそびにきます〜
PS:トラックバック
体、気をつけます(笑)
TBはね、ブログの解説にものっているはずですが、自分のブログの作成ペーシの、たとえば「王の男」の記事を書いたところに戻って(記事一覧などで)、トラックバックURLという空欄がいくつかあるはずですから、僕なら僕の「王の男」のこのレヴュー頁に「この記事のトラックバックPING−URLの下部にあるURLをコピペして、その空欄に貼り付けます。
どれで、OKね。