
『正しい恋愛小説の作り方』のジュリー・ロープ=キュルヴァルが監督を務めた、3世代にわたる女性の生き方を見つめた人間ドラマ。偶然祖母の日記を発見した孫娘とその母親、そして過去に家出した祖母らが織り成す複雑な心模様を大胆に描く。気丈な母親を演じるのは、大女優のカトリーヌ・ドヌーヴ。その娘を、『潜水服は蝶の夢を見る』のマリ=ジョゼ・クローズが熱演する。それぞれの時代を精いっぱいに生きる彼女たちの姿に勇気づけられる。[もっと詳しく]
「母性」と「自由」の女性の物語に、男たちはおずおずと立ち会うことになる。
三代にわたるフランスの女性たちの、自由と愛と母性がテーマである。
フランスというと、自立した女性たちの自由恋愛がお盛んな印象があるが、それはそんなに新しいことではない。
祖母ルイーズ(マリ=ジョゼ・クルーズ)は1950年代の若妻。
貧しい家の出であったが、その美貌が仕立て屋の祖父の崇拝を受け、ふたりの子どもをもうけるが、家庭の中での貞淑な妻であり、母であることを求められる。
ルイーズはそんな籠の鳥に飽き足りなさを覚えている。手に職を持って、自由を渇望している。
英語を学んだり、カメラを覚えたり・・・しかし夫は<自立>を警戒し、ひたすらボルドー南西のアルカションの海を見下ろすアールデコ調の瀟洒な白い家にルイーズを閉じ込めたがる。
ルイーズの娘であるマルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)は、世代的には五月革命の世代に当たる。
医者として忙しい日々を送っているが、身内に関してはどのように関係を持っていいか戸惑っている。
自立した女性ではあるが、娘時代に母と別れたことを、記憶から消し去ろうとしている。
マルティーヌの娘であるオドレイ(マリナ・ハンズ)は、カナダに移り住んで、キャリアウーマンとなっている。
妊娠をしてしまい、中絶するかどうか迷い、二週間の休暇で実家に戻ってきた。
「自由」や「自立」が前提の世代だが、そのことをどこかもてあましているようにも見える。
フランスの女性たちが「結婚制度」からある意味で解放されたのは、PACKSと呼ばれる民事連帯契約法が1999年に成立したことによっている。
フランスでは自由な恋愛感は価値として戦後蔓延することになったが、離婚そのものは厳しい手続きが必要であった。
PACKSは「同性または異性の成人2名による、共同生活を結ぶために締結される民法契約」である。
同棲とどこが違うかといえば、ほぼ結婚に準じる法的権利が用意されていることだ。
フランスの女性たちの出産率が先進国の中でも高い水準にあることにも大きな影響を及ぼしている。
当事者同士の契約だから、その破棄も一方からの宣告でいいことになっている。
もちろん、同性愛者の利用も多い。
08年の統計によれば、婚姻が27万件余りに対してPACKS法申請は14万件を超えており、全体の3分の1を占めていることになる。
オドレイの世代にとって見れば、簡単にPACKS法の申請が出来るわけだが、彼女自身は踏ん切りがつかない。
オドレイは祖父の死で空き家になっている「白い家」に滞在することになる。
その台所で、ルイーザの隠された日記を発見し、祖母の「自由」への希求と子どもたちへの愛情を知ることになる。
母との気まずさ、中絶への迷い、キャリアウーマンとしての仕事の持ち越し・・・そんな不安定な感覚の中で、知らなかった祖母のことをあれこれ思い、亡霊を見るようになる。
このあたりをジュリー・ロペス女流監督は、あまりサスペンスミステリーに傾斜することなく、静かに淡々と描写している。
たぶん妊娠したことから来るオドレイの「母性」の感覚が、マルティーヌやルイーザの人生に関心を持つことにつながっていく。
僕たちは、なぜマルティーヌが身内に対して冷たいようにも見える対応をとってしまうのか、そもそもなぜルイーズは失踪したのか、その後ルイーズはどこに行ってしまったのか、オドレイの視線で謎解きのような関心を抱くことになる。
この映画に登場する男たちは、三代の女たちに較べて、どこか頼りなさ気に描かれている。
ルイーズの夫は古典的な専制的な立場だが、ルイーズの美貌を崇拝し、どこかで手が届かぬところに行ってしまうのを怖れているコンプレックスを感じさせる。
ルイ−ズに美しい洋服を仕立てて縛り付けることで、自分の影響力をなんとか懸命に保持しようとしている。
マルティーヌの夫は眼鏡屋を営みながら、忙しい妻をどこかはらはらしながら見守っているようだ。
マルティーヌの弟も女房の尻にしかれているが、姉に母親代わりに庇護されたのか、どこか萎縮してしまうような気弱さを持っている。
オドレイを妊娠させてしまった男は、PACKS法を利用して子どもを産んだらいいじゃないかと提案するが、オドレイと恋のパートナーになれないだろうことをよくわかっている。
この作品は女性映画であるのだが、こうした男たちはまた、女性の「自由」と「自立」を巡る物語に、少なからぬ陰影を与えることになる。
母と娘の物語は、どこかで「母性」の継承を巡る物語に転化することになる。
しかし、男たちは、そのことを体験することが出来ない。
だからおずおずと、崇拝したり、見守ったり、からかわれたりしながら、その「自立劇」につきあうしかないのかもしれない。
そうでなければ、ルイーズを喪失することに耐えられなくて、狂気に陥った祖父の悲劇が、待ち構えることになるのかもしれない。













彼女は大分お肉がついてその意味でも貫禄充分ですが、出演しているだけで映画の格が上がるような感さえ出てきました。
日本では松坂慶子の太りっぷりに驚きますが、昔の冷たい感じがすっかり消えて、今はすっかり“おっかさん”役が似合うようになりましたね。
ああそうですね。松阪慶子の胆っ玉+いつまでたってもセクシー感に、相通じるものがあります。ふたりともコメディもできますからね。